第3章 第9話:終わったはずの呼び声
夜は、静かに崩れていった。
夕方までは何も起きなかった。
鈴の音もなく、井戸のまわりの空気も薄く、仮殿の外周の札も穏やかなままだった。だから千歳は、ほんの少しだけ油断しかけていたのかもしれない。
契約は切れた。
供物の証も壊れた。
もちろん全部終わったわけじゃないと頭ではわかっている。
それでも人は、静かな時間が続くと、少しだけ希望の方へ傾いてしまう。
けれど、その希望が長く続かないことも、この物語はもう何度も知っていた。
囲炉裏の火が、ぱち、と小さく鳴る。
千歳は仮殿の中で札の位置を見直しながら、何度目かの深呼吸をした。
綾人は外周の結界を確認するため外へ出ている。
冬真は仮殿の奥、壁に背を預けて座っていた。
昼間より顔色は悪い。
それでも今は、まだ意識ははっきりしているように見えた。
千歳はその横顔を見て、少しだけ迷ったあと声をかける。
「ねえ」
冬真が目を上げる。
「何だ」
「今、平気?」
冬真は一拍だけ間を置いた。
「その質問、もう癖だろ」
「だって毎回平気じゃないじゃん」
「ひどいな」
「事実です」
そう返すと、冬真の口元がほんの少しだけ動く。
「……まだ、まし」
「まだ、ってつくあたり全然安心できない」
「安心しろとは言ってない」
「そういうとこ」
千歳が少しだけ眉を寄せると、冬真は小さく息を吐いた。
「千歳」
「何」
「今、呼びはない」
低い声。
「だから少し座れ」
その言い方が、不器用なくせにやさしい。
千歳は反論しかけて、でも結局そのまま囲炉裏の向こうへ座った。
「……綾人さん、遅いね」
「外の札、昨日も焼けてた」
冬真が答える。
「細かいとこ見てるんだろ」
「そっか」
一拍置く。
「ねえ」
「何だ」
「昼の話」
冬真の目が少しだけ細くなる。
「どれ」
「名前だけ残るかもしれない、ってやつ」
囲炉裏の火が、また小さく鳴った。
冬真はしばらく黙っていたが、やがて低く言う。
「気にするなって言っても無理だろ」
「うん」
「なら」
少しだけ視線を逸らす。
「今、話せるうちは普通に話せ」
千歳は目を瞬く。
「何それ」
「そのままだ」
「雑」
「面倒だからな」
「そこ雑にしないでよ」
「じゃあ何て言えばいい」
「もっとこう……」
千歳は言葉に詰まり、それから小さく息を吐いた。
「今、ちゃんと覚えてるうちに、できるだけ一緒にいたいとか」
そこまで言ってから、自分で少しだけ顔が熱くなる。
冬真は一瞬だけ言葉を失ったみたいに黙った。
「……お前」
やがて低く言う。
「そういうの、前よりまっすぐ言うな」
「前は言えなかったから」
一拍置く。
「今は、言わない方が怖い」
その言葉のあと、しばらく静けさが続いた。
悪い静けさではない。
でも、どこか張りつめた、薄い氷の上みたいな静けさだった。
そのときだった。
冬真の肩が、ほんのわずかに強張る。
千歳はすぐに気づいた。
「冬真?」
返事はない。
顔を上げた冬真の目は、こちらを見ているようでいて、少しだけ焦点がずれている。
「……どうしたの」
千歳は立ち上がりかける。
でも、近づく前に昼の綾人の言葉が脳裏をよぎる。
名前だけで繋ぐな。
場所、時間、会話、日常ごと結び直せ。
「冬真」
呼ぶ。
「ここどこ」
数秒の沈黙。
それから、冬真が低く答える。
「……仮殿」
「うん」
「今、いつ」
「夜」
「雑だな」
「じゃあ冬」
千歳は少しだけ眉を寄せた。
「わたしは」
一拍置く。
「秋月千歳」
今度は迷いなく出た。
千歳は小さく息を吐く。
よかった、と思いかけた、その瞬間。
冬真がふっと顔をしかめた。
「っ……」
右手が無意識に喉元へ行く。
黒ずみの残る場所だ。
千歳の背筋が冷える。
「冬真?」
「……聞こえる」
掠れた声。
千歳の胸が、強く跳ねた。
「何が」
問いながらも、答えを半分知ってしまっている。
冬真は少しだけ目を伏せた。
「声」
「……」
「鈴じゃない」
一拍置く。
「もっと近い」
千歳の指先が冷たくなる。
怪異だ。
しかも今度は、自分ではない。
冬真に向かっている。
「綾人さん!」
思わず声を張る。
返事はまだない。外周へ出ているのだろう。
「冬真、こっち見て」
千歳は囲炉裏を回り込まず、その場からはっきり言う。
「何が聞こえるの」
冬真の喉が上下する。
「……呼んでる」
「誰を」
「俺を」
その一言で、仮殿の空気がはっきり変わった。
千歳は呼吸を整える。
怖い。
でも、今逃げたら駄目だ。
今はもう、“呼ばれる側”じゃない。
“呼ばれている冬真を引き留める側”なのだ。
「どこへ」
千歳が問う。
冬真はゆっくり顔を上げた。
その目の奥に、妙に暗いものが揺れている。
「……井戸の下」
掠れた声。
「違う」
千歳は即座に言った。
「今いるのは仮殿」
「……」
「井戸じゃない」
「わかってる」
「ほんとに?」
「……」
その沈黙が長い。
そのとき、仮殿の外でからん、と鈴が一度だけ鳴った。
千歳の肩が跳ねる。
でも今度の音は、自分に向いていた頃と少し違った。
探るようではなく、誘導するようでもなく、もっと一点を定めた鳴り方だった。
「やっぱり」
冬真が低く言う。
「来てる」
千歳は息を呑む。
来てる。
何が。
怪異が、今度は冬真の方へ。
「聞くな」
冬真が突然言う。
「え」
「お前、聞くな」
声が少しだけ強くなる。
「今の、俺の方だから」
その言い方が、逆に千歳の胸を強く締めつけた。
今までと逆なのだ。
自分を守るためではなく、自分が巻き込まれないように冬真が線を引く。
「嫌」
思わず言う。
「何で」
「何でじゃない」
冬真は壁へ背を押しつけるようにして言った。
「これ、お前に寄ったら駄目だ」
「でも」
「千歳」
その声に、今までと違う切迫があった。
「今のは、前と違う」
千歳は息を止める。
前と違う。
それはつまり、供物として呼ばれていた頃の自分への声ではない、ということだ。
「……何て」
喉が乾く。
「何て言ってるの」
冬真は少しだけ目を閉じた。
聞きたくないのだろう。
でももう、聞かなければならなかった。
「お前じゃなくていいって」
千歳の胸が冷える。
「器でいいって」
仮殿の中の空気が、一瞬ですべて冬へ戻ったみたいに冷たくなる。
綾人が第3章第5話で言っていたことが、頭の中で生々しく繋がる。
供物が無理なら、次に繋ぎやすいものへ。
冬真はその候補に近づきすぎている。
「……そんな」
千歳は声を失う。
冬真は笑わなかった。
皮肉も言わない。
ただ低く、掠れた声で続ける。
「お前を取れないなら」
一拍置く。
「次は、俺で足りるって」
それは冗談でも何でもない。
怪異が、すでに次の手を見つけているということだった。
仮殿の戸がそこで開く。
冷たい空気と一緒に綾人が戻ってきた。
だが、二人の顔を見た瞬間、すぐに何かを察したらしい。
「来たか」
低い声。
「聞こえる」
冬真が答える。
「何と」
「……器でいいと」
綾人の目が、はっきり険しくなる。
「やはり早いな」
その一言に、千歳は顔を向ける。
「やっぱりって」
「想定はしていた」
綾人は仮殿の中央へ歩み寄る。
「供物の結びが切れた以上、向こうが次に探すのは“馴染んだ器”だ」
「馴染んだ器……」
「冬真だ」
言葉は容赦がなかった。
千歳は拳を握る。
わかっていた。
でも、やっぱり言葉にされると違う。
これはもう仮説ではなく、実際に向こうからの呼びが始まっている。
「どうしたら」
千歳が問う。
「止められるの」
綾人はすぐに答えた。
「今は、まず応じさせない」
「……」
「そして冬真を、“器”として定着させる流れを切る」
「どうやって」
「単独にするな」
綾人の声は低い。
「社の奥へ行かせるな。呼びを自分だけで受けさせるな。記憶が抜けたまま放置するな」
一つずつ、釘を打つような言い方だった。
冬真が低く言う。
「面倒だな」
「ここで面倒で済んでいるうちが最後だ」
綾人は切り捨てるように返した。
「次に深く結ばれたら、お前自身が核になる」
仮殿が静まり返る。
核。
その単語は、供物や器よりもさらに重かった。
怪異の中心。
次の結び目。
もしそうなったら、もう“守ってきた幼馴染”ではなく、別のものとして物語の向こう側へ行ってしまう気がした。
「……嫌」
気づけば、千歳はそう言っていた。
冬真が少しだけ目を向ける。
「何が」
「そんなの全部」
一拍置く。
「供物が駄目なら器でいい、とか」
喉の奥が熱い。
「あなたが核になるかもしれないとか」
視界の端が少しだけ滲む。
「そんなの、絶対嫌」
冬真はしばらく黙っていた。
そして、低く言った。
「知ってる」
「知ってるなら」
「でも」
冬真は続ける。
「向こうがそう決めるなら、もう俺だけの気分じゃどうにもならないだろ」
その返答は、いつもの冬真らしかった。
現実を先に引き受ける。
それが腹立たしくて、でもこの人らしくて、千歳は余計に苦しくなる。
「じゃあ」
千歳は一歩踏み出す。
「気分じゃなくて、方法の話にする」
綾人が視線を向ける。
「今、綾人さんが言ったこと」
千歳は続ける。
「単独にしない。社の奥へ行かせない。記憶を放置しない」
一語ずつ確かめる。
「それ、全部わたしもやる」
冬真の目が少しだけ揺れた。
「お前」
「もう決めたから」
千歳はまっすぐ言う。
「守られる側で終わらない」
昼に言ったことを、今度はもっとはっきり繰り返す。
「今度は、あなたをそっちへ行かせない」
綾人は小さく息を吐いた。
反対もしない。
たぶん、ここまで来るともう、それが感情論だけではなく必要な判断だとわかっているからだ。
「なら、なおさら時間がない」
綾人が言う。
「次の対策を組む」
「次って」
千歳が問うと、綾人は答える。
「冬真へ向かう呼びを、どう遮るかだ」
冬真が少しだけ顔をしかめる。
「面倒な段階に入ったな」
「まだその程度の認識か」
「嫌味か」
「事実だ」
そのやり取りのあと、仮殿の外でまた、からん、と鈴が鳴った。
今度は一度だけ。
だが、その一度がひどく鮮明だった。
まるで、こちらの会話を聞いているみたいに。
千歳は息を吸う。
怖い。
でも、もう形は見えた。
敵は終わっていない。
しかも今度は、自分ではなく冬真へ向いている。




