第3章 第8話:残したい名前
夜は深く、静かだった。
呼び声もない。
鈴の音もない。
それなのに千歳は、静かな夜ほど怖いものはないのだと、もう知ってしまっていた。
仮殿の囲炉裏には弱い火が残っている。
その火の向こう、冬真は壁に背を預けたまま座っていた。眠っているわけではない。目は閉じているが、呼吸の浅さが眠りのものではないことを教えてくる。
千歳はその横顔を見つめる。
昼間、自分はまたひとつ知ってしまった。
雪の日の続き。
先代。
札。
子どもの頃から、何度も。
そこまで知っても、まだ全部じゃない。
でも、だからといって軽くなるわけでもなかった。
むしろ、知ったぶんだけ、この人の今の危うさが現実に見えてくる。
「……寝ないの」
小さく声をかけると、冬真は目を閉じたまま言った。
「お前こそ」
「わたしは」
一拍置く。
「今日はたぶん無理」
冬真はそこでようやく薄く目を開ける。
「そういう顔してる」
「どんな顔」
「考えすぎてる顔」
「便利だね、それ」
「事実だからな」
その返しが少しだけいつもに近くて、千歳は小さく息を吐く。
でも安心はできない。
この人は今、普通に話せる瞬間と、記憶の継ぎ目がゆるむ瞬間のあいだを、薄い氷の上みたいに歩いている。
「冬真」
静かに呼ぶ。
「何だ」
「確認したいことがある」
そう言うと、冬真は少しだけ眉を寄せた。
「またか」
「また」
「お前、最近それ多いな」
「だって大事だから」
冬真は小さく息を吐く。
「……何」
千歳は少しだけ迷った。
でも、やめなかった。
「わたしの名前」
冬真の目が、ほんの少しだけ動く。
「今、言える?」
数秒の沈黙。
それから、冬真は少しだけ呆れたように言った。
「千歳」
「フルネーム」
「注文多いな」
「お願い」
一拍置く。
「今、聞いておきたい」
冬真はしばらく黙っていたが、やがて低く、掠れた声で言った。
「秋月千歳」
そのあと、ほんの少しだけ間が空く。
千歳の胸が強く鳴る。
「……俺の幼馴染」
言えた。
でも、その途中のほんのわずかな間が、やっぱり怖い。
「うん」
千歳は頷く。
「ありがとう」
「そんなことで礼言うな」
「そんなことじゃない」
そう返すと、冬真は少しだけ視線を逸らした。
囲炉裏の火がぱち、と小さく鳴る。
その音のあと、不意に冬真がこめかみを押さえた。
「冬真?」
「……いや」
「今、何」
「少し」
声が途切れる。
「思い出そうとして、引っかかった」
千歳の胸がひやりと冷える。
「何を」
慎重に聞くと、冬真は目を伏せた。
「さっき」
「うん」
「お前が何て言ったか、一瞬飛んだ」
それだけで、千歳の喉の奥が熱くなる。
さっき、たった今の会話の一部が、もう曖昧になりかけている。
「……わたしが」
千歳は自分でも驚くほど静かな声で言う。
「名前、言えるか聞いた」
冬真は少しだけ黙って、それから頷いた。
「……ああ」
「思い出せた?」
「今は」
「今は、って」
その言葉の弱さが、自分でも嫌になる。
泣きたくない。
でも、怖さが先に出る。
「千歳」
冬真が低く呼ぶ。
「何」
「そんな顔するな」
「どんな」
「消えるみたいな顔」
その言い方に、千歳は思わず目を見開く。
「だって」
声が少しだけ震える。
「消えるかもしれないでしょ」
冬真は何も言わない。
否定できないのだと、それだけでわかる。
「わたし」
千歳は膝の上で手を握る。
「残るのが嬉しいわけじゃない」
一拍置く。
「名前だけ残るとか、そういうの」
喉が熱い。
「そんなの、全然よくない」
冬真は目を伏せたまま、小さく息を吐いた。
「……知ってる」
「じゃあ」
「でも」
冬真の声は低い。
「それでも残ってるのが、お前でよかったとも思う」
千歳の呼吸が止まりそうになる。
「何それ」
やっと絞り出す。
「ひどい」
「そうかもな」
「ひどいよ」
千歳は言う。
「わたしだけ残るの、苦しいのに」
言いながら、胸の奥がきつく締まる。
「でも」
一度、息を吸う。
「わたしじゃなかったら、それはそれで嫌なんだよ」
言ってしまってから、自分でひどく困る。
こんな感情を何て呼べばいいのかわからない。
嬉しいのでも、悲しいのでも、どちらだけでも足りない。
冬真はしばらく黙っていた。
やがて、ほんの少しだけ口元を動かす。
「面倒だな」
「そっちが」
「お前もだろ」
「知ってる」
そのやり取りのあと、しばらく静けさが戻る。
でもさっきまでの静けさとは少し違った。
痛みを隠したままではなく、痛いことを知った上で座っている静けさだ。
◆
翌朝、綾人は早い時間に仮殿へ戻ってきた。
千歳はほとんど眠れないまま朝を迎えていて、囲炉裏の火を見ているときに戸が開いた。
綾人は二人の顔を見るなり、すぐに何かを察したらしく小さく目を細めた。
「眠っていないな」
「見ればわかる?」
千歳が返すと、綾人は頷く。
「わかる」
それから冬真へ視線を向ける。
「お前もだ」
冬真は壁際に座ったまま、小さく息を吐く。
「寝た」
「浅い」
「……うるさい」
「事実だ」
いつもの短いやり取り。
けれど綾人はすぐに本題へ入った。
「冬真」
「何だ」
「名前を言え」
千歳の肩が小さく揺れる。
昨夜、自分がやった確認を、綾人も同じようにするのだ。
冬真は少しだけ眉を寄せたが、答えた。
「月代綾人」
「お前は」
「冬真」
「姓」
そこで、冬真の口が止まった。
ほんの一秒。
ほんのそれだけ。
なのに、その沈黙は千歳の胸へ重く落ちる。
「……白瀬」
やがて、冬真が言う。
「白瀬冬真」
綾人は小さく頷く。
「千歳」
今度は綾人が千歳を見た。
「秋月千歳」
千歳は即座に答える。
綾人は冬真へ向き直る。
「千歳は」
「秋月千歳」
今度はすぐだった。
しかも迷わない。
千歳はその差に、胸の奥がひどく苦しくなるのを感じた。
自分の名前だけが残る。
それがまた、目の前で証明されてしまった。
「……やっぱり」
思わず零れる。
綾人は静かに言った。
「傾向は出ている」
「傾向」
千歳が繰り返す。
「自己と日常の情報に綻びが出ている一方」
綾人は淡々と続ける。
「千歳に関する記憶の結びは強い」
その言い方は冷静だった。
でも、冷静だからこそ残酷だった。
「それって」
千歳は喉を鳴らす。
「やっぱり危ないんですよね」
「危ない」
綾人ははっきり認めた。
「記憶が“守りたい一点”へ偏って残るのは、正常な保持ではない」
冬真が低く言う。
「遠回しだな」
「遠回しにしているつもりはない」
「してる」
そのやり取りのあと、綾人は小さく息を吐いた。
「ならはっきり言う」
仮殿の空気が少しだけ張る。
「千歳の名前だけが強く残るのは、救いであると同時に、お前の記憶が歪んで残り始めている兆候でもある」
千歳は何も言えなかった。
わかっていた。
でも、言葉にされると違う。
これはただのロマンチックな話ではない。
壊れ方の一種なのだ。
「……嬉しくない」
気づけば、そんな言葉が出ていた。
冬真が視線を向ける。
「何が」
「わたしの名前だけ残ること」
一拍置く。
「いや、嬉しいって思う瞬間もあるのかもしれない」
正直に言う。
「でも、それ以上につらい」
喉の奥が少し震える。
「だって他が消えていく証拠みたいで」
冬真は何も言わなかった。
その代わり、少しだけ目を閉じる。
言い返せないのだろう。
◆
昼前、綾人は外周の札を見に再び出ていった。
仮殿にはまた千歳と冬真だけが残る。
静かだった。
でも今度の静けさは、昨夜よりさらに重い。
さっきの確認がまだ二人の間に残っているからだ。
「……千歳」
不意に冬真が呼ぶ。
「何」
「怒ってるか」
その問いに、千歳は少しだけ目を瞬く。
「何に」
「こうなってること」
千歳はすぐには答えられなかった。
怒っているのかもしれない。
でも、誰に向ければいいのかがわからない。
「怒ってる」
やがて正直に言う。
「でも」
「……」
「あなたにだけじゃない」
一拍置く。
「こうなるまで、ずっと隠されてたことにも」
「……」
「村にも」
「……」
「自分にも」
そこまで言うと、冬真が少しだけ眉を寄せた。
「何で自分に」
「知らなかったから」
千歳は低く言う。
「知らなかった時間が長すぎて」
視線を落とす。
「そのぶん、あなたが一人で抱えてたのに気づけなかった」
冬真は少しだけ黙ってから言った。
「それは、お前のせいじゃない」
「そう言うと思った」
「実際そうだ」
「でも」
千歳は顔を上げる。
「今はもう、知らないままではいられない」
その一言に、冬真の目が少しだけ揺れる。
何か言い返そうとして、でも結局やめる。
その反応が、今は少しだけ救いだった。
前みたいに全部を押し返さないから。
「……ねえ」
千歳が静かに言う。
「何だ」
「もし」
一拍置く。
「本当に、わたしの名前だけ最後まで残ったら」
冬真の表情が少しだけ止まる。
「そのとき、わたしはどうしたらいいの」
問いは重かった。
でも、もう避けて通りたくなかった。
冬真は長く黙ってから、低く答える。
「何度でも呼べ」
千歳は目を瞬く。
「え」
「名前だけ残るなら」
冬真は続ける。
「そこから引き戻すしかないだろ」
その言い方は乱暴で、不器用で、でもこの人なりの本気だった。
「……怖いこと言う」
千歳は小さく言う。
「知ってる」
「でも」
息を整える。
「ちゃんと聞いとく」
冬真は少しだけ目を細めた。
「何を」
「そのときは、何度でも呼ぶ」
一拍置く。
「絶対、そこで終わらせない」
冬真はしばらく何も言わなかった。
それから、本当に小さく息を吐く。
「……面倒なやつ」
「そっちがね」
千歳が返すと、冬真の口元がほんの少しだけ緩んだ。
◆
午後、千歳は一人で仮殿の外へ出た。
雪は薄く照り返して、眩しい。
呼び声はない。
でも、昨夜より少しだけ、自分の足で立っている感覚がある。
残したい名前。
それはたぶん、恋に近いものだ。
けれど今はまだ、そんな綺麗な言葉だけでは足りない。
痛みと、恐れと、喪失の予感が全部混ざっている。
それでも千歳は思う。
この人の中に、自分の名前だけが最後まで残るかもしれないなら、
その重さからは、もう逃げられない。




