第3章 第7話:雪の日の続き
その夜、千歳はなかなか眠れなかった。
仮殿の囲炉裏は弱く熾っている。
外では風もないのに、ときどき板壁の向こうで雪が小さく崩れる音がした。怪異の呼び声はない。鈴も鳴らない。
それでも眠れないのは、静かすぎるからだった。
静けさの中では、昼間に教わったことばかり頭に浮かぶ。
残滓と呼び声の違い。
冬真の記憶の継ぎ目が緩むこと。
そして、自分の名前だけが強く残るかもしれないこと。
嬉しいはずがない。
それはたぶん、救いの形をした別の痛みだ。
布団へ入っても、意識だけが落ち着かない。
少し離れた場所では、冬真の呼吸が浅く上下している。眠っているのか、眠れていないのか、今の千歳にはもう判別がつかなかった。
「……寝ろ」
不意に、暗がりの向こうから低い声がした。
千歳は目を開ける。
「起きてたの」
「お前が寝てないの、気配でわかる」
「便利」
「うるさい」
いつもみたいな返しだった。
でも声は少し掠れている。
「冬真」
千歳は暗がりの天井を見たまま言う。
「昼の話」
「何だ」
「雪の日の続き、まだあるよね」
少しだけ、沈黙が落ちた。
その沈黙が、もう答えみたいなものだった。
「……何でそう思う」
やがて冬真が問う。
「断片」
千歳は正直に言う。
「まだ途中だから」
一拍置く。
「それに、あれが最初でも、あれだけで終わる感じじゃなかった」
冬真はすぐには答えなかった。
暗がりの中で、布団がわずかに擦れる音がする。
たぶん、横を向いたのだろう。
「今じゃない方がいい」
低い声。
「どうして」
「夜だから」
「それだけ?」
「……」
「また隠す」
千歳が言うと、暗がりの向こうで冬真が小さく息を吐いた。
「全部じゃない」
掠れた声。
「でも、今の時間に掘ると、ろくなことにならない気がする」
その言い方は、いつもの誤魔化しだけではない気もした。
本当に夜に近づけたくない記憶なのだろう。
千歳はしばらく黙ったあと、小さく頷いた。
「……じゃあ、明日」
「ああ」
「約束」
「増やすな」
「増やすよ」
「面倒だな」
「知ってる」
そのやり取りのあと、二人はしばらく何も言わなかった。
眠れたのかはわからない。
ただ、朝が来るまでの時間が妙に長かった。
◆
翌朝、空は薄く晴れていた。
仮殿の外の雪がやけに眩しい。
冬の朝特有の、光だけが白く鋭い日だった。
綾人は朝のうちから社へ行っていて、仮殿には千歳と冬真だけが残っている。
囲炉裏の火に薬缶をかけながら、千歳はずっと落ち着かなかった。
約束したからだ。
明日、続きを話すと。
冬真は壁際に座り、膝を立てて外を見ていた。
昨日より顔色は少しだけましだ。けれど、その“少しだけ”を頼って安心する気にはなれない。
「……聞く」
千歳が静かに言う。
冬真は少しだけ目を向けた。
「何を」
「昨日の続き」
一拍置く。
「雪の日のあと」
冬真はすぐには返事をしなかった。
湯気だけが二人のあいだで白く揺れる。
やがて、深く息を吐く。
「お前」
「何」
「こういうところ、昔から変わらないな」
「どこが」
「一回気になると止まらない」
千歳は少しだけ眉を寄せた。
「そっちに言われたくない」
「知ってる」
そう言って、冬真はようやく視線を外から戻した。
諦めた顔ではない。
どこまでなら話せるか、また線を引き直す顔だ。
「雪の日のあと」
冬真が低く言う。
「すぐ全部が変わったわけじゃない」
千歳は黙って聞く。
「最初は、本当に“少しずつ”だった」
「……」
「熱を出す夜が減ったり」
「うん」
「逆に、俺の方が寝込んだり」
千歳の胸が痛む。
何でもない顔で言うな、と思う。
でも遮らない。
「最初の頃は」
冬真は続ける。
「先代も、完全に成功してるとは思ってなかった」
「成功」
「肩代わりが、どこまで保つかってこと」
言葉が冷たい。
でも、実際にそういう話だったのだろう。
「で、何度か」
冬真は少しだけ目を伏せる。
「俺が呼ばれた」
千歳の指先が強張る。
「あなたが?」
「ああ」
「どうして」
「千歳の方へ向いてた流れを、俺に割ったからだろ」
当然みたいに言う。
その言い方が苦しい。
「呼ばれたって」
千歳は慎重に問う。
「どんなふうに」
「最初は夢」
冬真が答える。
「井戸の底にいる感じとか」
千歳の背筋がひやりとする。
「雪の中を、誰かの後ろ姿追ってる感じとか」
「……」
「起きると、足が泥だらけだったりした」
千歳は息を呑む。
それはもう、“少しずつ”で済ませていい話ではない。
「誰かに言った?」
問いかけると、冬真は少しだけ口元を歪めた。
「言うと思うか」
「思わない」
「だろうな」
その返しに、少しだけ腹が立つ。
でも、本当にそうだったのだろうとも思う。
「先代だけは気づいてた」
冬真は続ける。
「痣とか、札の減り方とかで」
「綾人さんは」
「もう少し後」
千歳は小さく頷く。
線が繋がり始めていた。
先代が知っていて、途中から綾人も気づいて、でも自分だけは知らなかった時間。
「……何年くらい」
やっとその問いを口にすると、冬真の表情が少しだけ止まる。
「何が」
「肩代わり」
千歳は逃げずに言う。
「どれくらい続いてたの」
冬真は答えなかった。
沈黙が長い。
長すぎて、それだけで大体の重さが伝わってしまう。
「冬真」
「……細かくは覚えてない」
ようやく出た声は、少し低かった。
「全部を数えてたわけじゃない」
「でも」
「小さい頃からだ」
一拍置く。
「それで足りるだろ」
足りない。
全然足りない。
でも、その先を今無理に押せば、また閉じるとわかる。
千歳は膝の上で手を握りしめた。
「足りない」
それでも正直に言う。
「でも、今はここまでにする」
冬真が少しだけ目を上げる。
「珍しいな」
「わたしだって学ぶ」
「何を」
「止め時」
そう返すと、冬真の口元がほんの少しだけ緩んだ。
◆
そのとき、不意に頭の奥で何かが鳴った。
ぱき、と小さく。
乾いた枝が折れるみたいな音。
「っ……」
千歳は思わずこめかみを押さえる。
「千歳?」
冬真の声が低くなる。
大丈夫、と言おうとして、その前に視界が揺れた。
白い。
雪だ。
見えているのは仮殿ではない。
もっと昔の、神社の裏手。
子どもの自分の目線。
息が白い。
足元は雪でぐしゃぐしゃだ。
その向こうに、幼い冬真が立っている。
今より小さい背中。細い肩。
なのに、その前に立つ姿はやけにまっすぐだった。
相手は先代神職だろうか。
白い装束の裾が見える。
そして、その奥の暗がりに、井戸の縁がある。
――本当にやるのか
男の声。
幼い冬真が答える。
――千歳の方が嫌だ
短い。
でも、はっきりしていた。
次の瞬間、先代が札を一枚差し出す。
幼い冬真がそれを取る。
その手首には、すでに薄い黒ずみがあった。
場面がぶれる。
今度は別の夜。
雪の廊下。
幼い千歳が寝息を立てていて、その枕元に冬真が座っている。
左腕を押さえている。
苦しそうなのに、千歳の顔だけを見ている。
――今日は来なかった
小さな声。
それが冬真自身の声なのだと、後からわかる。
場面がまた切り替わる。
井戸の前。
千歳が立っている。
でも、その背中を引き戻す前に、冬真の方が先に一歩踏み込む。
井戸の中から伸びた黒い気配が、冬真へ絡みつく。
――そっちじゃない
泣きそうな子どもの声。
それは千歳自身の声だった。
そこで視界がぶつりと切れた。
◆
「千歳!」
気づけば、冬真の声がすぐ近くにあった。
肩を掴まれている。
仮殿の囲炉裏の前。現実だ。
息が浅い。
こめかみが熱い。
「……見た」
千歳は掠れた声で言う。
冬真の顔色が変わる。
「何を」
「雪の日の、続き」
呼吸を整えようとするが、うまくいかない。
「あなた、最初から……」
喉が詰まる。
「最初から、ちゃんと自分で選んでた」
冬真は何も言わない。
でも、否定しない。
その沈黙だけで十分だった。
「しかも」
千歳は続ける。
「一回だけじゃない」
胸の奥がぎゅっと縮む。
「何回もあった」
冬真の指先が、肩の上でわずかに強張る。
「……どこまで見た」
低い声。
「枕元」
千歳は答える。
「わたしが寝てる横にいた」
「……」
「井戸の前も」
一拍置く。
「先代に札、もらってた」
冬真は目を閉じた。
ほんの数秒。
でもその数秒のあいだに、もう誤魔化せないと理解した顔だった。
「やっぱり」
千歳の声が震える。
「最初から一人で抱えるつもりだったんだ」
「一人じゃない」
冬真が低く言う。
「最初は先代がいた」
「でも、わたしには何も言わなかった」
「……」
「寝てる横で、何回も」
そこで言葉が詰まる。
「何回も、そういうことしてたんでしょ」
冬真は答えない。
それが答えだった。
「……なんで」
問いはもう何度目かわからない。
でも、また同じところへ戻る。
「何でそこまで」
冬真はゆっくり目を開けた。
その目には、困ったような色と、諦めに近い色が混じっている。
「千歳」
低い声。
「今さら、そこ聞くか」
「聞くよ」
千歳は言った。
「だって、今見たの」
喉の奥が熱い。
「小さい頃のあなた、全然迷ってなかった」
その一言に、冬真は本当に少しだけ笑った。
困るみたいに、でも否定できない笑いだった。
「……迷ってたら、間に合わないだろ」
その答えが、胸を痛くする。
正しい。
でも、あまりにもこの人らしい。
「最低」
思わず零すと、冬真は小さく息を吐いた。
「知ってる」
千歳は笑えなかった。
代わりに、胸の奥で何かが静かに固まっていくのを感じた。
この人はずっとこうだった。
目の前の自分を守るためなら、自分の先を削ることに躊躇がない。
それが優しさだなんて、きれいに呼びたくなかった。
でも、その不器用さごと知ってしまった以上、もう“守られるだけ”ではいられない。
「……冬真」
静かに言う。
「何だ」
「今度は」
一拍置く。
「わたしが、迷わない」
冬真の目が少しだけ揺れた。
「何」
「あなたが勝手に抱える方に行こうとしたら」
千歳はまっすぐ言う。
「今度はちゃんと止める」
「……」
「知らなかった頃みたいには、もう戻らないから」
仮殿の空気が静かに張る。
外はまだ白い。
でも、物語の中では確かに何かが一段進んだ。
◆
その少しあと、綾人が戻ってきた。
戸を開けた綾人は、千歳と冬真の顔を見るなり、わずかに目を細める。
「何があった」
「記憶」
千歳が先に答える。
「続きが戻った」
綾人は一拍だけ黙ったあと、ゆっくり頷いた。
「そうか」
「先代もいた」
「……」
「最初から、何回もあった」
綾人の視線が冬真へ向く。
冬真は何も言わない。
だから綾人も、それ以上は掘らなかった。
「なら、次はもっと深い層が来る」
低い声。
「覚悟しておけ」
その言葉は千歳へ向けられているようでいて、冬真にも向けられていた。




