第3章 第6話:守られる側では終われない
翌朝の空は、薄く凍った硝子みたいだった。
雪は降っていない。
けれど仮殿の外へ出ると、息が白く細く伸びて、山の冷たさがそのまま肺へ入ってくる。千歳は外套の襟元を押さえながら、戸口の前で立ち止まった。
昨夜、自分ははっきり言った。
守られる側では終われないと。
冬真が器に近づいていくのを見ているだけなのは嫌だと。
勢いだけではなかった。
たぶん、あれは本心だ。
でも本心だからこそ、朝になった今、別の重さも出てくる。
自分に本当に何ができるのか。
どこまで踏み込めるのか。
ただ言葉にしただけで終わったら、それこそ一番嫌だった。
「起きてたか」
背後から綾人の声がした。
振り返ると、彼はすでに朝の冷気の中でいつも通りの顔をして立っている。白い息すら乱れないのが、朝から少しだけ腹立たしい。
「寝た気がしないだけ」
千歳が返すと、綾人は小さく頷いた。
「だろうな」
「否定しないんですね」
「する理由がない」
そのまま綾人は仮殿の戸口へ視線を向ける。
「冬真はまだ寝ている」
「そうなんだ」
「今朝はまだ起こしていない」
千歳は少しだけ目を伏せた。
眠れているならいい、と思う。
でも同時に、起きたときにまた何かが抜けていたらどうしよう、という不安もある。
「……わたし」
千歳はゆっくり言う。
「昨日のこと、本気で言いました」
綾人が視線を向ける。
「守られる側で終わりたくないって」
「聞いていた」
「だから」
一拍置く。
「教えてください」
綾人はすぐには答えなかった。
仮殿の軒先から、白く曇った山の方を見る。
「何を」
「残滓と呼び声の見分け方」
千歳は昨日の話をなぞるように言う。
「引き込みの前兆」
「……」
「あと」
喉が少しだけ乾く。
「冬真が危ない方向へ寄ってるとき、どう見ればいいか」
綾人はほんの少しだけ目を細めた。
試すような沈黙だった。
「怖いか」
低く問う。
「怖い」
千歳は即答した。
「正直、今も帰りたいくらい怖い」
それでも続ける。
「でも、怖いから知らないままでいる方が、もっと嫌です」
綾人は短く息を吐いた。
「……いい」
千歳が少しだけ顔を上げる。
「今朝のうちは、そこまでだ」
「ほんとに?」
「全部を一度に入れるな」
綾人は言う。
「お前は今、怪異の呼びを切ったばかりで感覚がまだ不安定だ。ここへ知識だけ一気に詰め込めば、逆に振り回される」
理屈としては正しい。
悔しいけれど、正しい。
「まず、残滓と呼び声の違いからだ」
綾人は仮殿の前の雪へ視線を落とし、静かに話し始めた。
◆
「呼び声は、お前をどこかへ動かそうとする」
綾人は雪の上へ枝で一本の線を引いた。
「方向を持つ」
さらに短い線を横から伸ばす。
「井戸へ行け、社へ来い、戸を開けろ。形は違っても、“動け”がある」
千歳は黙って聞く。
たしかにそうだった。
これまでの呼び声は、いつもどこかへ向かわせようとしていた。
「残滓は違う」
綾人は線の周りに、細かく点を散らす。
「その場に残る」
「その場」
「井戸の縁、社の裏、床下、仮殿の封の跡。そういう場所へ溜まり、そこへ近づいた者の感覚を鈍らせる」
「鈍らせる……」
「理由もなく立ち止まる。考えが途切れる。何を見ていたか一瞬わからなくなる」
千歳の胸がひやりと冷える。
昨日、井戸の前で冬真が見せたのはまさにそれだった。
「じゃあ」
千歳が問う。
「冬真がああなるのは」
「残滓に触れたときもある」
綾人が答える。
「だが、それだけではない」
その言い方に、胸の奥が少し沈む。
やはり来る。
冬真が危ない方向へ寄っている話へ繋がる。
「呼び声に近いものが、今度は冬真へ向き始めている可能性がある」
綾人は続けた。
「千歳が取れなくなったから」
「……代わりに?」
「正確には、“次に繋ぎやすいもの”へだ」
千歳は外套の端を強く握った。
それが冬真だということは、もう言葉にされなくてもわかる。
「見分け方は」
千歳はすぐに問う。
「冬真の方が、残滓なのか呼びなのか」
綾人は頷く。
「残滓なら、その場を離せば薄れる」
「うん」
「呼びなら、離れても追う」
千歳は目を伏せる。
それは怖い違いだった。
「それと」
綾人はさらに言う。
「残滓で思考が途切れるときは、本人にも“飛んだ”自覚が出ることが多い」
「昨日みたいに」
「そうだ」
「呼びだと?」
「自覚がないまま、その方向へ寄る」
千歳はゆっくり息を吸う。
つまり、本人が“何かおかしい”と言えるうちは、まだ戻しやすい。
問題は、自分でそれに気づけなくなる段階だ。
「……どうやって止めるんですか」
綾人は少しだけ考えてから答えた。
「名前を呼ぶ」
「名前」
「強い現実をぶつける」
雪に引いた線を指先で消す。
「どこにいるか。誰がいるか。今がいつか。そういう“人間の側の輪郭”だ」
千歳は黙ってその言葉を受け止めた。
それは難しい術や結界ではなく、とても人間的な手段だった。
「じゃあ」
小さく言う。
「わたしの名前が残るのって」
綾人は視線を向ける。
「そういう意味も、あるんですか」
綾人は即答しなかった。
「可能性はある」
その曖昧さが逆に本当らしかった。
「千歳という名前そのものが、冬真を人間の側へ引き留めているのかもしれん」
胸の奥が少しだけ痛む。
嬉しい、ではない。
重い、に近い。
◆
話はそこで終わらなかった。
「次」
綾人が枝を折るように言う。
「引き込みの前兆だ」
千歳は居住まいを正した。
「周囲の音が一枚遠くなる」
「……」
「風がないのに、一定方向だけ冷える」
「うん」
「同じ言葉が頭の中で反復する」
その一つ一つに、千歳は覚えがあった。
呼び声を受けていた頃の自分にも、たしかにあった感覚だ。
「冬真の場合は」
綾人が声を少しだけ落とす。
「それに加えて、記憶の継ぎ目が緩む」
「継ぎ目」
「話していた流れが切れる」
「……」
「見ていたものの理由が飛ぶ」
「昨日の井戸」
「そうだ」
綾人は頷いた。
「そして、千歳に関することだけが逆に過剰に残る可能性がある」
千歳は目を見開く。
「過剰に?」
「他が抜けても、そこだけ引っかかる」
「それって……」
「執着の残り方としては危うい」
その言葉に、背筋が少し冷えた。
記憶が残ること自体は救いに思えた。
でも、残り方が歪めば、それもまた危ういのだ。
「じゃあ」
千歳は慎重に問う。
「わたしが近くにいるのって、いいのか悪いのか、どっちなんですか」
綾人はそこで初めて少し困ったような顔をした。
「難しいな」
「難しいじゃ困る」
「正直に言えば、両方だ」
千歳は黙る。
「引き留める力にもなる」
綾人は続ける。
「だが同時に、そこへ寄りかかりすぎれば、他を落としたままお前だけに繋がる」
その構図は、あまりにも怖かった。
千歳の名前だけを残して、他を失っていく冬真。
それはたしかに、ただの救いではない。
「……じゃあ、わたしはどうすれば」
思わず漏れる。
「近くにいろ」
綾人は答えた。
「だが、それだけになるな」
「それだけ?」
「名前だけで繋ぐな」
綾人は千歳をまっすぐ見た。
「場所、時間、会話、日常。そういうものごと結び直せ」
千歳は息を止める。
名前を呼ぶだけではなく、現実ごと結び止める。
それが、今の自分にできる“守る”に近いのかもしれない。
◆
仮殿の戸が開いたのは、その直後だった。
冬真が出てきた。
まだ眠そうというより、身体の芯に疲れが残っている顔だった。けれど、歩みは今朝よりしっかりしている。
「何してる」
低い声。
千歳が振り向く。
「勉強」
答えると、冬真の眉がほんの少しだけ寄った。
「何の」
「あなたを止める方法」
冬真は一瞬だけ言葉を失ったようだった。
「……何それ」
「そのまま」
千歳が返すと、綾人が横で小さく息を吐く。
「ちゃんと教えている」
「余計なことを」
「必要なことだ」
冬真は少しだけ顔をしかめる。
でも、前みたいに即座に切って捨てる空気ではなかった。
それだけ、もう状況が変わっているのだろう。
「で」
冬真が千歳を見る。
「どこまで聞いた」
「残滓と呼び声の違い」
「……」
「あと、あなたが危ないときの兆候」
そこまで言うと、冬真の視線が少しだけ揺れた。
嫌なのだろう。
自分が“見張られる側”になるのが。
「嫌そうな顔」
千歳が言う。
「嫌だろ」
「でも必要」
「そういうの、綾人に似てきたな」
「嬉しくない」
「同感だ」
綾人が即座に言って、少しだけ空気が緩む。
そのとき、冬真が仮殿の前の雪へ視線を落とし、ほんの一瞬だけ黙った。
千歳はその沈黙にすぐ気づく。
「冬真」
名を呼ぶ。
冬真が顔を上げる。
「何だ」
「今、何かあった?」
冬真は少しだけ目を細めた。
「……いや」
「いや、じゃなくて」
千歳は一歩だけ近づく。
「何見てた」
冬真は数秒だけ黙ってから、低く答えた。
「足跡」
「うん」
「誰のか、一瞬わからなくなった」
千歳の胸がきゅっと縮む。
まただ。
しかも今度は、その場で本人が言った。
「それ」
千歳は呼吸を整えながら言う。
「今の、言ってくれてよかった」
冬真が少しだけ眉を寄せる。
「そうか」
「うん」
「そんなに大したことじゃない」
「大したことだよ」
即座に言い返す。
「わたしには」
冬真は言葉を失ったように黙った。
綾人が低く言う。
「今のは残滓に近い」
二人の視線が向く。
「仮殿の前は昨夜の名残がまだある」
「じゃあ離せば」
千歳が言う。
「薄れる可能性は高い」
綾人が答える。
千歳は少しだけ深く息を吸った。
それなら、とっさに身体が動く。
「冬真」
「何だ」
「今、朝」
冬真が少しだけ目を瞬く。
「わかってる」
「場所は」
「仮殿の前」
「わたしは」
一拍置く。
「千歳」
冬真が答える。
今度は迷いがない。
「お前は千歳」
その返しに、胸の奥が少しだけ緩む。
こうやって結び直すのだ。
さっき綾人に教わったばかりのことを、今、目の前でやっている。
「……合ってる」
千歳が小さく言う。
「よかった」
冬真はほんの少しだけ困ったような顔をした。
「何だよ」
「ううん」
「変な顔」
「ひどい」
「事実だ」
そのやり取りは短かった。
でも千歳には、それがただの軽口ではなかった。
自分が初めて、“その場で冬真を引き留める側”へほんの少し回れた瞬間だったからだ。
◆
昼が近づくころ、千歳は囲炉裏の前で一人、静かに手を組んでいた。
怖さは消えていない。
むしろ増している。
冬真が器に近づくかもしれない。
記憶の継ぎ目がこれからもっと緩むかもしれない。
それでも、ただ無力なままではないと、少しだけ思えた。
「守る側って」
小さく呟く。
「大変だ」
その言葉に、自分で少しだけ苦くなる。
今さらそんなことを言うのは遅いのかもしれない。
でも、今なら少しわかる。
昔から冬真が一人で抱えてきた重さの、ほんの端だけは。




