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冬の底で君を呼ぶ  作者: 最後に残った形


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第3章 第5話:器に近づくもの


 夜は浅い霧のように、仮殿のまわりへ降りていた。


 雪の白さは残っているのに、空気はどこか濁っている。怪異の気配が濃いわけではない。けれど、契約を切ったあと特有の、行き場を失ったものがまだ山のどこかを彷徨っているような感じがあった。

 千歳は囲炉裏のそばに座り、じっと火を見ていた。


 ぱち、と小さく薪が鳴る。


 それだけで、今は少しだけ安心する。

 目に見える火。音。熱。そういう“現実”に触れていないと、冬真の記憶が少しずつ抜けていくことまで夢の中の出来事みたいに感じてしまうからだ。


 でも夢じゃない。

 今日、村へ出た。

 視線を向けられた。

 そして帰り道で、冬真は会話の途中を一瞬だけ落とした。


 それは確かに現実だった。


「千歳」


 綾人の声に顔を上げる。

 戸口近くで札を見ていた綾人が、今は囲炉裏の向こうへ座っていた。

「少し話す」

「……何を」

 聞き返す前から、あまり良い話ではないとわかった。


 綾人は一拍置いてから言った。

「冬真のことだ」

 胸の奥が、静かに冷える。


 仮殿の奥では、冬真が壁に背を預けて座っていた。

 眠っているわけではない。目は開いている。けれど、話題が自分へ向くとわかった瞬間、少しだけ眉を寄せた。


「何だよ」

 低い声。

「今さら改めて聞くまでもないだろ」

「聞かせる必要がある」

 綾人は淡々と返した。

「特に千歳には」


 千歳は息を詰める。

 綾人がわざわざこういう言い方をするときは、たいてい、聞きたくなかった真実が混じっている。


「……何ですか」

 千歳はゆっくり問う。


 綾人は冬真へ一度だけ視線を向け、それから静かに口を開いた。


「契約を切ったことで、千歳を供物として繋ぐ道は断てた」

「うん」

「だがその代わりに、今まで千歳へ流れるはずだったものを引き受け続けた痕跡は、冬真の中に残っている」

 そこまでは、もう知っている。

 痣。記憶の抜け。喉元の黒ずみ。

 全部、その延長だ。


「それが」

 千歳は少しだけ喉を鳴らす。

「残ってるだけじゃなくて、何か別のことになってるってことですか」


 綾人は頷いた。

「可能性の話だ」

「可能性でもいいです」

 千歳は言う。

「聞く」


 綾人は火を見つめたまま言った。

「長く肩代わりしすぎた」

 その一文は短い。

 短いのに、ひどく重かった。

「普通なら、一時的な穢れや返りで済む」

「……」

「だが冬真は、幼い頃から“千歳へ向かう流れ”を少しずつ引いてきた」

「知ってる」

 千歳は小さく言う。

 今日、それを聞いたばかりだ。


「問題は量ではない」

 綾人は続ける。

「“形”だ」

「形?」

「流れを何度も受けると、身体だけではなく、器の側がその流れに馴染み始める」

 千歳の指先が冷たくなる。

 器。

 その単語が嫌だった。

 第2章でも何度も出てきた言葉だ。

 でも今、その対象が冬真へ向くのは、もっと嫌だった。


「……つまり」

 千歳は言葉を絞り出す。

「冬真が」

 喉が少し震える。

「怪異の“器”に近づいてるってことですか」


 仮殿の中が、ひどく静かになった。

 囲炉裏の火の音だけがやけに大きく聞こえる。


 綾人ははっきりと頷かなかった。

 けれど、否定もしなかった。


「前段階だ」

 やがて言う。

「まだそこまで断定はしない」

「でも」

「放っておけば、近づく可能性がある」


 千歳は目を閉じたくなった。

 契約を壊した。

 供物にはならなかった。

 それで終わりだと思いたかったのに、今度は冬真の方が“器”に近づいているかもしれない。


「……ふざけないでよ」

 気づけば、そんな言葉が零れていた。


 綾人も冬真も、何も言わない。


「助かったと思ったのに」

 千歳は火を見たまま続ける。

「今度はそっちがそうなるかもしれないって」

 喉の奥が熱い。

「そんなの、全然終わってない」


「終わってない」

 答えたのは冬真だった。

 低く、掠れた声。

 千歳が顔を上げると、冬真は壁にもたれたままこちらを見ている。


「だから、最初からそう言ってる」

 冬真は続ける。

「契約を切っただけで、全部消えるわけじゃない」

「そういうことじゃない」

 千歳は即座に返す。

「わたしが言ってるの、そこじゃない」


 冬真が少しだけ眉を寄せる。

 千歳はその目を逸らさなかった。


「わたしが嫌なのは」

 一語ずつ、押し出すように言う。

「あなたが、そういう話も“仕方ないこと”の中に入れてそうなこと」


 冬真は黙る。

 その沈黙が、また図星みたいで腹が立つ。


「また」

 千歳は続ける。

「自分のことだけ後回しにしてるでしょ」

「してない」

「してる」

 即答した。

「してないなら、そんな顔しない」


 冬真は一瞬だけ目を伏せる。

 それが答えみたいで、千歳の胸の奥がきつくなる。


「……千歳」

 綾人が低く呼ぶ。

「責めるだけでは進まん」

「責めたいわけじゃないです」

 千歳は言う。

「でも、言わないとまた勝手に飲み込むから」

 それはもう、何度も見てきた。

 この人は本当に、必要だと思えば自分が壊れる側を先に選ぶ。


「今のところ」

 綾人が言葉を継ぐ。

「器に“なっている”わけではない」

「……」

「ただ、器に“近づく条件”を持ちすぎている」

「条件」

 千歳が繰り返す。


「流れに慣れている」

 綾人が指を折る。

「千歳へ向かうはずだったものを長く引いている」

「……」

「契約を切る最後の返りも受けた」

 その一つ一つが、鈍い石みたいに胸へ落ちる。


「だから」

 綾人は言った。

「怪異が次に繋がり直すなら、冬真は最も近い候補になる」

 その一言で、仮殿の空気がさらに重くなる。


 千歳はゆっくりと息を吸った。

 冷たい。

 胸の中まで冷えていく。


「……そんなの」

 ようやく出た声は小さかった。

「そんなの、今までやってきたこと全部が、次の呪いの準備みたいじゃない」


 綾人は少しだけ目を伏せる。

「残酷だが、近い」

 千歳は目を見開く。

「でも」

 綾人は続ける。

「だからこそ、ここで止める必要がある」

「止める?」

「冬真が次の核に近づく前に」

 その言葉は理屈として正しい。

 でも理屈だからこそ、余計に冷たい。


 千歳はそこで、ようやくわかった。

 第3章の敵は、もう“自分を供物として取りに来る怪異”だけではない。

 冬真がここまでやってきたこと、そのものが次の危機へ変わるかもしれないのだ。


     ◆


 しばらく誰も口を開かなかった。


 囲炉裏の火がぱち、と鳴る。

 その音だけが妙に鮮明だった。


「……どうやって止めるの」

 千歳がようやく問う。


 綾人は答える。

「まずは、冬真へ残っている流れをこれ以上濃くしない」

「具体的には」

「社の奥へ近づけすぎない」

「……」

「千歳を狙う残滓が再び動いたとしても、冬真が単独で受けない」

 そこで綾人は冬真を見た。

「聞いているな」

「聞いてる」

 冬真は低く返す。

「守るためでも、もう昔みたいに勝手に引くな」

「……」

「今度こそ器に寄る」


 冬真は答えなかった。

 その沈黙が、千歳には腹立たしくもあり、怖くもあった。

 この人は、理屈ではわかっていても、実際その場になったらまた同じことをしかねない。


「……無理」

 思わず千歳が言う。


 二人の視線が向く。


「そんなの」

 千歳は続ける。

「目の前で何かあったら、絶対またやる」

 冬真は少しだけ眉を寄せた。

「俺を何だと思ってる」

「そういう人」

 即答すると、冬真は言葉を詰まらせる。

 綾人が小さく息を吐いた。

「正しいな」

「お前まで」

「事実だ」


 冬真は壁にもたれたまま、少しだけ天井を見た。

「……わかってる」

 掠れた声。

「でも、そうしないと間に合わないこともある」

「今まではな」

 綾人が返す。

「今は違う」

「何が」

「千歳が知っている」

 その一言に、冬真の視線が止まる。

「もう、“何も知らないまま守る”は成立しない」

 綾人は続ける。

「それでも同じやり方を続ければ、今度はお前が壊れるだけだ」

 冬真は何も言わなかった。

 けれど、否定もできない顔だった。


 千歳はその横顔を見ながら、胸の奥で何かが静かに切り替わっていくのを感じた。


 ずっと守られてきた。

 それは痛いくらいわかった。

 でもここでまだ“守ってもらう側”のままでは、本当にこの人は止まらない。


「……綾人さん」

 千歳が静かに呼ぶ。


「何だ」

「止める方法、わたしにも教えて」

 冬真が顔を上げる。

「千歳」

「今度はわたしも知る」

 千歳ははっきり言った。

「呼ばれたとき、何が危ないのか」

「……」

「どうしたら冬真が引かなくて済むのか」

 一拍置く。

「もう、守られるだけの方にいたくない」


 その言葉は、前から心の中にあったものだ。

 でも今、初めてこんなにはっきり形になった。


「あなたが」

 今度は冬真を見る。

「昔からそうやってきたなら、今度はわたしも知らないと」

 冬真はすぐには何も言わない。

 その目の奥に、戸惑いと、わずかな痛みと、でも否定しきれない何かが揺れている。


「……危ないぞ」

 ようやく出た言葉は、やっぱりそれだった。


「知ってる」

 千歳は頷く。

「怖いし、たぶん向いてないこともいっぱいある」

 それでも続ける。

「でも、あなた一人が器に近づいていくのを見てるだけの方が、もっと嫌」


 その一言で、仮殿の空気が変わる。

 綾人は黙っていた。

 冬真も、もうすぐには否定しなかった。


「……難儀だな」

 やがて冬真が低く言う。


「そっちがね」

 千歳が返すと、冬真の口元がかすかに動いた。

 ほんの少しだけ。

 でもその小さな変化が、今は救いみたいに感じられる。


「教える」

 綾人がそこで口を開く。

「全部ではない。段階を踏む」

 千歳が綾人を見る。

「まずは、残滓と呼び声の見分け方」

「うん」

「次に、引き込みの前兆」

「うん」

「そして、冬真が“危ない方向へ寄っている”ときの兆候だ」

 千歳の喉が少しだけ鳴る。

 怖い内容だ。

 でも、必要なことだともわかる。


「わかりました」

 はっきり答えると、綾人は小さく頷いた。


「おい」

 冬真が少しだけ不満そうに言う。

「勝手に決めるな」

「お前が言うな」

 綾人が即答した。

「……それは」

 冬真が言葉を詰まらせる。

「図星だな」

「うるさい」


 その短いやり取りに、千歳は少しだけ息を吐いた。

 完全に笑える空気ではない。

 でも、ここで初めて何かが変わった気がした。


 守る側と守られる側、というだけではない場所へ、少しだけ踏み出したのだ。


     ◆


 夜が深くなるころ、千歳は一人で仮殿の戸口に立っていた。


 外は静かだ。

 鈴の音もない。

 でも、その静けさをもう無邪気に信じることはできない。


 冬真は仮殿の奥で休んでいる。

 綾人は外周の札を見に出ていた。

 囲炉裏の火が背後で小さく鳴る。


 千歳は薄暗い雪景色を見ながら、小さく息を吐いた。


「守られる側では終われない」

 自分の中で、はっきりそう言葉になる。


 供物になるのも嫌だ。

 冬真が次の器に近づくのも嫌だ。

 なら、そのどちらにも抗う場所へ行くしかない。

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