第3章 第4話:供物のいない村
昼を過ぎたころ、綾人は仮殿の戸口で短く言った。
「千歳」
「うん」
「一度、家へ戻る」
その一言に、千歳はすぐには返事をしなかった。
仮殿の中は静かだった。
囲炉裏の火は弱く、薬草の匂いが薄く残っている。怖い場所だったはずなのに、今は逆にここを出る方が落ち着かない。
契約は切れた。
でも、何もかもが終わったわけではない。
冬真の記憶も、身体も、まだ揺れている。
怪異の残り香も、完全に消えたとは言い切れない。
「戻る理由は」
千歳が問うと、綾人は平坦に答えた。
「村の空気を見るためだ」
「空気」
「供物がいなくなった村が、お前をどう扱うか」
一拍置く。
「それを見ないまま仮殿に隠し続ける方が危うい」
千歳は小さく唇を噛んだ。
わかる。
たしかにそうだ。
村の因習は契約だけでできていたわけではない。儀が止まったからといって、人の目や考え方まで一晩で変わるはずがない。
なら、向き合わなければいけない。
「俺も行く」
冬真が言った。
千歳はそちらを見る。
仮殿の壁へ背を預けていた冬真は、朝より顔色が戻っていた。だが、それはあくまで見た目の話だ。記憶の揺らぎが消えたわけではない。
だから、反射的に口が出た。
「ほんとに大丈夫なの」
「その質問、好きだな」
「好きで聞いてるんじゃない」
「知ってる」
冬真はそう言って、ゆっくり立ち上がった。
ほんの一瞬だけ動作が遅れる。
そのわずかな遅れを、千歳は見逃さなかった。
「……無理なら言って」
「無理なら座ってる」
「信用ない」
「ひどいな」
「事実でしょ」
そう返すと、冬真は少しだけ口元を動かした。
「最近、容赦ないな」
「前からです」
綾人がそのやり取りを聞いて、小さく息を吐く。
「二人とも歩けるうちに行くぞ」
「歩けるうちにって何」
千歳が言うと、綾人は真顔のまま返した。
「そのままだ」
「それ説明になってない」
「感覚で理解しろ」
「理不尽」
「今さらだ」
いつも通りみたいなやり取りだった。
でもその“いつも通り”が、どこか必死に繋ぎ止めたものだということも、千歳にはわかっていた。
◆
山を下り、村へ入る。
雪はだいぶ踏み固められていた。
道の脇には薄く灰色の泥が見え、煙突から上がる煙が低い空へ滲んでいく。一見すれば、冬の静かな村だ。
けれど中へ足を踏み入れた瞬間、千歳は空気の違いを感じた。
視線。
それも、前と違う種類の。
供物として遠巻きにされる視線ではない。
何が起きたのかを測る視線。
まだ終わっていないのではないかと探る視線。
そして、少しだけ責める色を含んだ視線。
道の向こうで薪を運んでいた男が、千歳を見る。
次いで、冬真を見る。
綾人にはすぐ目を逸らし、しかし千歳にはもう一度だけ視線を戻した。
ひそ、と小さな声が流れる。
『あれが』
『でも、前清めは止まったんだろ』
『本当に大丈夫なのかね』
『村の厄が残ったら、どうするんだ』
全部がはっきり聞こえるわけではない。
でも、聞こえなくても意味はわかる。
千歳の足がわずかに止まりかける。
その瞬間、半歩前を歩いていた冬真が、少しだけ歩幅を落とした。
振り返らない。
でも、合わせてくれているのがわかる。
「行くぞ」
低い声。
「……うん」
千歳は小さく返し、また歩き出した。
家の前に近づくにつれ、さらに視線は増えた。
門柱に残る札。
庭の井戸の周りに撒かれた灰。
それらが“何かあった家”であることを、まだはっきり村へ示している。
志乃が戸口まで出てきた。
千歳の顔を見るなり、ほっと息を吐く。
「戻ったのね」
「うん」
千歳が答えると、志乃の視線がすぐに冬真へ向かった。
「冬真くんも……」
「ついで」
冬真が短く言う。
その言い方に、千歳は少しだけ呆れた。
誰が見ても、ついでの顔ではない。
「上がって」
志乃が言う。
だが、その声の直後、門の外で誰かが立ち止まる気配がした。
村の女が二人。
近所の顔見知りだった。
片方は千歳が小さい頃から知っているおばさんで、昔は干し柿をくれたりもした人だ。
その人が、今は妙に曖昧な笑みを浮かべて言う。
「千歳ちゃん」
「……こんにちは」
千歳が返すと、女は少しだけ間を置いた。
「体は、もう平気なの?」
「はい」
「そう。よかったわ」
その“よかった”に、本心がどれだけ入っているのかはわからない。
「でもねえ」
もう一人の女が言う。
「前清めが止まったって聞いて、みんな少し不安で」
志乃の表情が固くなる。
冬真の肩のあたりの空気も、ぴんと張る。
「不安?」
千歳は自分でも驚くほど静かに聞き返した。
「だって、ほら」
女は困ったように笑う。
「こういうのって、ちゃんと順番通りにやらないと、かえってよくないこともあるじゃない」
「順番通りって」
千歳の声はまだ静かだった。
「供物になる順番ってことですか」
女の笑みが少し引きつる。
「いや、そういう言い方すると」
「でもそうですよね」
千歳は言う。
自分でも、胸の奥が少しずつ熱を持っていくのがわかる。
「わたしが行かなかったから、村が不安なんですか」
女たちはすぐには答えない。
その沈黙だけで十分だった。
千歳はそこで、やっとはっきり理解した。
供物でなくなったからといって、村が自分を“ただの娘”へ戻してくれるわけではない。
今度はむしろ、“儀を止めた中心”として見られるのだ。
「千歳」
冬真が低く呼ぶ。
その声で、千歳は少しだけ呼吸を戻した。
言いすぎるな、という意味ではない。
たぶん、今のまま一人で受け止めるな、という声だった。
「……わたし」
千歳は二人の女を見て言う。
「村のためって言葉で、わたしが怖いとか嫌だとか、そういうの全部なかったことにされるの、もう嫌です」
女たちは目を見開く。
以前の千歳なら、こんなふうに正面から言葉を返さなかっただろう。
「でも」
もう一人の女が言いかける。
「でもじゃないです」
千歳は遮った。
「わたし、供物じゃありません」
一拍置く。
「少なくとも、もうそのつもりで扱われるのは嫌です」
静けさが落ちる。
女たちは困った顔をして、しかしそれ以上何も言えなかった。
綾人が一歩だけ前へ出たからだ。
「聞こえただろう」
淡々とした声。
「これ以上、この家の前で不用意なことを言うな」
女たちは小さく頭を下げ、曖昧な言葉を残して去っていった。
足音が遠ざかる。
ようやく、張りつめていた空気が少しだけ緩んだ。
「……大丈夫か」
志乃が小さく聞く。
「大丈夫じゃない」
千歳は正直に答えた。
「でも、言えてよかった」
その言葉に、志乃は少しだけ目を潤ませながら頷いた。
◆
家へ入ったあとも、空気はすぐには落ち着かなかった。
千歳は居間の座布団へ座り、しばらく湯呑みを両手で包んでいた。温かいはずなのに、指先はなかなか解けない。
志乃は台所の方で、必要以上に物音を立てないよう気を遣っているのがわかる。
綾人は戸口近くで外の様子を見ていた。
冬真だけが、少し離れた柱に背を預けて黙っている。
「……最悪」
千歳がぽつりと零す。
「何が」
冬真が聞く。
「供物じゃなくなっても」
千歳は湯呑みを見たまま言う。
「今度は“止めた方の人”として見られるんだって、思った」
冬真は何も言わない。
でも、その沈黙が否定でないことはわかる。
「助かったから終わり、じゃないんだね」
言ってから、自分でその重さに少しだけ苦くなる。
「村ってそういうものだ」
綾人が低く言う。
「個人の終わりと、共同体の納得は別だ」
「嫌な言い方」
千歳が返すと、綾人は少しだけ肩を竦めた。
「事実だ」
「そればっかり」
「大抵、それで説明がつく」
「ついてほしくない」
「同感だがな」
綾人はそう言いながらも、視線は外へ向けたままだった。
「……千歳」
不意に冬真が呼ぶ。
「何」
「さっき」
少し言い淀む。
「ちゃんと言えてた」
その一言に、千歳は思わず顔を上げた。
「え」
「村のやつらに」
冬真は続ける。
「前なら、ああいう言い方しなかっただろ」
千歳は少しだけ息を止める。
褒められたのかもしれない。
でも、それを素直に受け取るには今の胸の中が複雑すぎた。
「……怒ってたから」
小さく言う。
「それでいい」
冬真はあっさり返した。
「嫌なことに怒るのは、別に悪くない」
その言い方が、妙に真っ直ぐだった。
千歳は少しだけ視線を落とす。
「そういうこと、ちゃんと言うんだ」
「最近ちょいちょい言ってるだろ」
「そうだけど」
思わず少しだけ笑ってしまう。
「慣れない」
「俺もだ」
その小さなやり取りが、張りつめた空気をわずかにほどいた。
でも次の瞬間、冬真がふっと眉を寄せる。
「……どうした」
千歳が聞く。
「いや」
冬真はこめかみを押さえた。
「少し」
「また?」
千歳の胸がひやりと冷える。
冬真はすぐに否定しなかった。
そのことが、答えみたいで怖い。
「今、何か飛んだ?」
千歳が慎重に問うと、冬真は目を伏せる。
「……会話の端」
掠れた声。
「どこから、お前が怒ってる話になったのか、一瞬」
千歳は息を呑む。
ほんの少し。
でも、それが続いている。
「綾人さん」
思わず助けを求めるように呼ぶ。
綾人は振り返り、冬真を見た。
「増えているな」
「……そうか」
冬真が小さく言う。
「そうか、じゃない」
千歳は思わず声を強めた。
冬真が顔を上げる。
「増えてるなら、もっとちゃんと」
「千歳」
綾人が制するように言う。
でも千歳は止まれなかった。
「だって、今ここで普通に話してる途中なのに」
喉が熱い。
「それが抜けるって、普通じゃない」
冬真は黙って聞いている。
言い返さない。
それが余計に苦しかった。
「……怖いんだよ」
千歳は低く言う。
「名前が残るとか、そういうのも」
一拍置く。
「でも、それ以外が少しずつ抜けてくの見てるの、すごく嫌」
居間が静かになる。
志乃も台所の奥で手を止めている気配がした。
「……悪い」
冬真がぽつりと言う。
「謝ってほしいんじゃない」
千歳はすぐに返す。
「知ってる」
「じゃあ」
「でも、何て言えばいいかわからない」
その弱い本音に、千歳は一瞬言葉を失った。
わからない。
それはたぶん、本当にそうなのだろう。
「……じゃあ」
千歳は少しだけ息を整える。
「わからないなら、せめて隠さないで」
冬真が目を向ける。
「抜けたときも」
「……」
「思い出せないときも」
一拍置く。
「その場で言って」
冬真は少しだけ黙ってから、低く言った。
「わかった」
「ほんとに?」
「今は、な」
「そこ濁すな」
思わず返すと、冬真は本当にわずかだけ口元を緩めた。
「厳しい」
「知ってる」
◆
家を出るころには、空はもう夕方の色へ傾き始めていた。
村の中を歩く視線は、帰りも消えなかった。
それでも行きよりは、千歳は少しだけ背筋を伸ばして歩けた。
何も変わっていないのではない。
変わったからこそ、周囲も揺れているのだとわかったからだ。
「……ねえ」
仮殿へ戻る道で、千歳が静かに言う。
「何だ」
冬真が返す。
「供物のいない村って」
一拍置く。
「こんなに落ち着かないんだね」
冬真は少しだけ考えてから答えた。
「今まで、誰かが飲み込んで終わってたんだろ」
「……」
「今回は、それが表に出ただけだ」
その言葉は冷たい。
でも、たぶん正しい。
「じゃあ」
千歳は前を向いたまま言う。
「わたしが供物じゃなくなったことって」
「何だ」
「村にとっては、まだ終わりじゃないんだ」
冬真はすぐには答えなかった。
少ししてから、低く言う。
「たぶんな」
「そっか」
千歳は小さく息を吐く。
「でも、わたしにとっても、まだ終わりじゃない」
冬真が視線を向ける。
「あなたのこと」
一拍置く。
「まだ何も終わってないから」
冬真は何も言わなかった。
でも、その沈黙は拒絶ではなかった。




