第3章 第3話:あなたが覚えているうちに
午後の光は薄く、仮殿の板壁に淡い影を落としていた。
雪は止んだままなのに、空は晴れきらない。白さの上に灰色が一枚かかっていて、村の山も遠くぼやけて見える。
千歳は仮殿の戸口近くに座り、外を見ているふりをしていた。
本当は、何も見ていない。
頭の中は、朝から同じことばかり巡っていた。
冬真の記憶が一瞬抜けたこと。
自分の名前だけは、まだすぐに出たこと。
井戸を見ていたことが、数秒だけ飛んだこと。
数秒。
たったそれだけ。
でも、たったそれだけで、今までの全部が崩れ始めるには十分だった。
「千歳」
低い声に振り向く。
冬真が、仮殿の奥の壁へ背を預けて座っていた。
起きてから少し時間が経ち、顔色は朝よりましに見える。けれど、それは“戻った”のではなく、“少し持ち直して見えるだけ”だと、もう千歳にもわかっていた。
「何」
千歳が返す。
「さっきから黙りすぎ」
「そう?」
「そうだ」
一拍置いて続ける。
「考え事してる顔」
図星だった。
でも今は、誤魔化す気にもなれない。
「……してる」
素直に答えると、冬真は少しだけ目を細めた。
「何を」
聞かなくてもわかっているくせに、と少し思う。
でも、それを口にしないでいてくれるだけ、今はありがたかった。
「忘れる前に」
千歳はゆっくり言う。
「聞かなきゃいけないこと、あるなって」
冬真の表情が、そこでほんのわずかに止まる。
それだけで、たぶん伝わった。
「……今か」
低い声。
「今がいい」
千歳は言う。
「今なら、まだ聞ける」
「聞けなくなったらどうする」
「だからその前にって言ってるの」
冬真は少しだけ視線を伏せた。
囲炉裏の火は弱く、二人のあいだの空気だけが妙に熱を持つ。
「全部は無理だ」
やがて、冬真が言った。
「全部じゃなくていい」
千歳は即座に返す。
「でも、また“最近のことだけ”にしないで」
冬真が目を上げる。
「子どもの頃からだったって、昨日言った」
「……ああ」
「それを、もうちょっとだけ」
一拍置く。
「あなたが覚えてるうちに、聞きたい」
その言い方に、自分でも少し胸が痛んだ。
覚えてるうちに。
そんなふうに言わなければならないこと自体が、もう十分に苦しい。
冬真はしばらく黙っていた。
逃げるような沈黙ではない。どこまで言っていいか、自分の中で線を引いている沈黙だと、今の千歳にはわかる。
「……最初は」
やがて、掠れた声が落ちる。
「俺も、ちゃんとわかってたわけじゃない」
千歳は黙って聞く。
「お前が変な熱出したり」
冬真は言葉を選ぶように続ける。
「夜に一人で社の方へ行きかけたり、井戸の前でぼーっとしてたり」
千歳の胸がわずかに痛む。
「小さい頃?」
「ああ」
「……そんなこと、あったんだ」
「お前はあんまり覚えてないだろうな」
冬真は淡々と言う。
「最初は、ただ体が弱いとか、寝ぼけてるとか、そういう扱いだった」
千歳は視線を落とした。
覚えていない。
でも、記憶の底には確かに湿った夜の空気や、暗い井戸の縁の冷たさみたいなものが薄く残っている。
「で」
千歳が促す。
「いつ変わったの」
冬真は少しだけ息を吐いた。
「神社の裏」
その一言で、千歳の背筋がわずかに冷える。
「昨日、お前が断片で見た夜だ」
やはり、あの夜だ。
断片でしかなかった記憶が、少しずつ輪郭を持ち始める。
「何があったの」
千歳の声は、思ったより静かだった。
「お前が呼ばれた」
冬真は低く言う。
「夜中にいなくなって、俺が追いかけた」
千歳の呼吸が止まりそうになる。
「社の裏で、お前……」
そこで一瞬だけ言葉が切れた。
「井戸の方へ行こうとしてた」
井戸。
またそこへ繋がる。
千歳は膝の上で手を握った。
「止めようとしたら」
冬真は続ける。
「お前、こっち見てなかった」
一拍置く。
「俺のこと、ちゃんと認識してなかった」
胸の奥が冷たくなる。
千歳は唇を噛みしめた。
どんな顔をしていたのだろう。そのときの自分は。
「それで?」
喉の奥が少し乾く。
でも止めたくなかった。
「そこで、先代に見つかった」
千歳が目を瞬く。
「先代って」
「綾人の前の神職」
冬真は答える。
「今の綾人みたいに、全部は教えなかったけど、あの人はあの人でわかってた」
「……」
「お前をそのまま連れて行かせるか、別のところへ引くか」
その言い方に、千歳の胸がきつく縮む。
「そんな言い方」
「実際そうだった」
あまりにも冷たい現実だった。
子どもだった。
それなのに、その場ではもう“誰へ流すか”の話がされていたのだ。
「先代が」
冬真は低く続ける。
「全部は無理だって言った」
千歳は息を呑む。
「でも、少しずつなら引けるかもしれないって」
頭の奥で、昼に見た記憶断片の言葉が重なる。
――まだ全部は引けない
――なら少しずつならどうだ
「……やっぱり」
小さく漏れる。
「で」
冬真は続けた。
「俺が、やるって言った」
千歳は顔を上げる。
「何で」
問いはもう、何度目かわからない。
でも聞かずにいられない。
冬真は少しだけ眉を寄せる。
「お前、それ前にも聞いた」
「何回でも聞く」
「面倒だな」
「知ってる」
一拍の沈黙のあと、冬真は低く言った。
「お前が行くのが嫌だった」
やっぱり、そこへ戻る。
それがずっと、この人の答えなのだ。
「それで」
千歳は小さく続ける。
「少しずつ引いてきたの」
「ああ」
「どんなふうに」
冬真はわずかに目を伏せた。
「お前が呼ばれた夜に、代わりに俺が社へ行ったり」
千歳の指先が冷える。
「夢で引きずられた分を、起きてからこっちで受けたり」
「……」
「井戸とか奥座敷とか、そういう“近い場所”にお前がいたとき、流れが変わることもあった」
言葉は淡々としている。
でも、その一つ一つがどれだけ異常なことか、千歳にはもうわかる。
「そんなの」
やっと声を出す。
「そんなの、ずっと一人でやってたの」
冬真はそこで少しだけ困ったように息を吐いた。
「最初は一人じゃない」
千歳が顔を上げる。
「先代が封じ方くらいは教えた」
「綾人さんは」
「途中から、気づいてた」
その返答に、千歳の胸の奥で何かが沈む。
やっぱり。
綾人も全部ではなくても、知っていたのだ。
知らなかったのは自分だけだった。
「……何で」
また同じ問いが出る。
「何でみんな、わたしには」
「言ったら、お前がそっちへ行く」
冬真が即座に返す。
「昨日も言っただろ」
図星だった。
その答えを、もう否定しきれない自分がいる。
「でも」
千歳は言葉を絞り出す。
「何も知らないまま遠ざけられるの、苦しかった」
「……」
「避けられてるって思った」
「知ってる」
「それでも?」
「それでもだ」
冬真は言い切った。
「お前が全部知って、勝手に自分から行く方が嫌だった」
あまりにもまっすぐで、ひどい答えだった。
でも、嘘じゃない。
そのことだけは、もうわかってしまう。
千歳は少しだけ目を閉じる。
怒りたい。
泣きたい。
でも、そのどっちだけでも足りない。
「……じゃあ」
やっとのことで声を出す。
「今は?」
冬真が眉を寄せる。
「何が」
「今は、わたし、前より知ってる」
一拍置く。
「それでもまだ、全部言ったらわたしが行くって思う?」
その問いに、冬真はすぐには答えられなかった。
長い沈黙。
それがかえって正直だった。
「……思う」
やがて、掠れた声が落ちる。
千歳は少しだけ息を止める。
やっぱりか、とも思う。
でもその一方で、少しだけ悔しかった。
自分はここまで来ても、まだ“そういう人間”に見えているのだと。
「でも」
冬真は続けた。
「前よりは、止まるかもしれないとも思ってる」
千歳は顔を上げる。
「それ、進歩?」
「たぶんな」
「微妙」
「知ってる」
その小さなやり取りが、どうしようもなく痛くて、少しだけ救いだった。
◆
そこへ、戸が軽く叩かれた。
綾人だろうとわかる。
千歳が返事をすると、戸が開いた。
「邪魔したか」
綾人が言う。
「少し」
千歳が返すと、綾人は小さく息を吐いた。
「正直で結構」
そう言いながら入ってくる。
手には薄い帳面が一冊あった。
「何ですか、それ」
千歳が問うと、綾人は囲炉裏のそばに座った。
「先代の走り書きだ」
千歳の胸が少しだけざわつく。
「神社裏の夜に関する記述がある」
冬真の表情がわずかに固くなる。
「持ってたのか」
「全部ではないがな」
綾人は帳面を開く。
「お前が話したところまで、補強にはなる」
千歳は喉を鳴らす。
聞きたい。
でも、聞くのが怖い。
それでも今は、止めたくなかった。
綾人が静かに読み上げる。
――白椿の娘、夜半に引かる
――完全には早し
――代の近き子、流れを割る
――以後、段を分けて肩代わりの形を試す
千歳は目を閉じたくなった。
記録として書かれると、なおさら現実味が増す。
「代の近き子」
千歳が小さく言う。
「それが冬真」
「そうだろう」
綾人は答える。
「血の繋がりではなく、“近さ”だ」
「近さ」
「幼少から白椿の娘のそばにいた者」
綾人の声は淡々としている。
「流れは、近いものへ寄る」
千歳の胸の奥が強く痛む。
そばにいたから。
幼馴染だったから。
その“近さ”そのものが、守る理由であり、巻き込まれる理由でもあったのだ。
「ひどい」
思わず漏れる。
綾人は否定しない。
「そうだな」
冬真が低く言う。
「だから言いたくなかった」
千歳は顔を向ける。
「俺が近くにいたから、って形になる」
「……」
「お前、たぶん気にするだろ」
その言葉に、千歳は返事ができなかった。
気にする。
たぶん、とても。
もし自分が近くにいなければ、この人はこんなふうに引き続けなかったのではないかと、きっと考えてしまう。
「でも」
冬真は続けた。
「それを俺が嫌だと思ったことは一回もない」
千歳が目を見開く。
「そばにいたのは、お前のせいじゃない」
低い声。
「俺がそうしたかっただけだ」
綺麗に言い換えようとしていない。
飾らない言葉。
だからこそ、余計に胸へ入る。
「……ずるい」
千歳は小さく言う。
「何が」
「そういうの」
視線を落とす。
「そういう言い方されると、責めきれない」
冬真は少しだけ息を吐いた。
「責めていい」
「無理」
「だろうな」
その返答があまりに当然みたいで、千歳は少しだけ泣きそうになりながら笑ってしまう。
◆
話が切れたあと、仮殿の中にはしばらく静かな空気が残った。
囲炉裏の火。
板壁の向こうの白い昼。
薄い薬草の匂い。
怪異の気配は今のところない。
でも、その代わりに今は、もっと別の痛みがここにある。
「……ねえ」
千歳が静かに言う。
二人の視線が向く。
「今のうちに聞けてよかった」
そう言った瞬間、胸の奥が少しだけ震える。
「怖いけど」
一拍置く。
「知らないまま、抜けていく方がもっと怖いから」
冬真は何も言わなかった。
綾人も口を挟まない。
だから千歳は、そのまま続けた。
「でも」
冬真を見る。
「まだ、隠してるでしょ」
冬真の目がわずかに細くなる。
「何を」
「どれだけ、ってところ」
一歩踏み込むように言う。
「少しずつ、じゃ足りない」
胸の奥が痛い。
「何回とか、どこまでとか」
「……」
「そこ、まだ言ってない」
冬真は答えなかった。
その沈黙が、もう答えだった。
「……やっぱり」
千歳は小さく息を吐く。
でも今は、そこで詰めるのをやめた。
今ここで全部を引きずり出そうとしても、たぶん崩れるだけだとわかるからだ。
「今日はそこまでにしてやれ」
綾人が低く言う。
「こいつ、思ったより話した方だ」
「褒めないで」
冬真が言う。
「褒めてはいない」
綾人はいつも通りに返した。




