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冬の底で君を呼ぶ  作者: 最後に残った形


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第3章 第2話:名前の抜ける朝


 朝は、静かすぎるくらい静かだった。


 雪はもう降っていない。

 けれど仮殿の外には白さが残り、山の空気は水を打ったみたいに澄んでいる。その静けさが、逆に千歳を落ち着かなくさせた。

 呼び声がない。

 鈴の音もしない。

 怪異の気配が消えたのなら、本当は喜ぶべきなのかもしれない。


 でも千歳の視線は、ずっと布団の上に向いていた。


 冬真はまだ横になっている。

 昨夜より顔色は少しだけ戻ったようにも見える。喉元の黒ずみも薄くなった。けれど、眠っている顔のままどこか遠い場所に片足を置いているみたいな危うさが消えていなかった。


 千歳は囲炉裏の火に小さく薪を足す。

 ぱち、と音がする。

 その小さな音だけで、冬真の睫毛がわずかに揺れた。


「……起こした?」

 千歳が小声で言う。


 返事はない。

 けれど次の瞬間、冬真はゆっくり目を開けた。

 焦点が合うまで、やはり少し時間がかかる。

 千歳は息を詰めたまま、それを見守る。


「……千歳」

 掠れた声。


 その一言だけで、胸の奥が少しだけ緩む。

「うん」

 千歳はすぐ答えた。

「おはよう」


 冬真は薄く息を吐き、それから天井を見上げる。

「朝か」

「うん」

「……静かだな」

「静か」

 千歳はそう返してから、少し迷う。

「今のところは」


 冬真はそこでようやく顔を向けた。

 その目の中に、昨夜より少しだけ人間らしい色が戻っている気がする。

 でも、それを見て安心しきれない自分もいた。


「水、飲む?」

 千歳が聞くと、冬真は小さく頷く。


 湯呑みに水を入れて差し出す。

 今朝は冬真も自分で受け取れた。

 ただ、受け取るまでにほんの少しだけ間がある。その一瞬の遅れに、千歳はどうしても目が行ってしまう。


 冬真は少し水を飲んでから、低く言った。

「綾人は」

「外」

「何してる」

「村の様子見に行った」

「……そうか」


 そこまで答えて、冬真は少しだけ眉を寄せる。

 湯呑みを持つ手が、わずかに止まった。


「どうしたの」

 千歳が問う。

 冬真はすぐには答えず、目を伏せる。

「……いや」

「いや、じゃなくて」

「大したことじゃない」

「それ禁止」

 思わず即答すると、冬真の口元がほんの少しだけ動いた。

「厳しいな」

「知ってる」


 少しだけ空気がやわらぐ。

 けれど次の瞬間、冬真は湯呑みを見たまま低く言った。


「今」

「何」

「名前、出てこなかった」

 千歳の呼吸が止まる。


「……え」

 声がかすれる。


「綾人」

 冬真が言う。

「呼ぼうとして、一瞬止まった」


 囲炉裏の火が、ぱち、と小さく鳴る。

 その音がやけに遠く聞こえた。


 昨夜、綾人が言っていた。

 記憶の抜けは始まっていてもおかしくない。

 でも、実際に本人の口からそう聞かされると、想像していたよりずっと重い。


「……どれくらい」

 千歳がゆっくり問う。

「一瞬」

 冬真は答える。

「今はまだ」

 今はまだ。

 その言い方が、胸の奥に刺さる。


「でも」

 千歳は言葉を探す。

「わたしは、すぐ出た」

 冬真はそこで少しだけ顔を上げた。

「……ああ」

「どうして」

 聞きながら、自分で嫌になる。

 嬉しいから聞くわけじゃない。

 ただ、そこにどんな意味があるのか知りたいだけだ。


 冬真はしばらく黙っていたが、やがてひどく小さく言った。

「残したい方から、残るのかもな」


 千歳は目を見開く。

 その言葉があまりにも静かで、何でもないふうに零されたから、余計に重かった。


「……何それ」

 やっとそれだけ言うと、冬真は少しだけ視線を逸らす。

「知らん」

「知らんって」

「ほんとにわからん」

 掠れた声。

「ただ……他のことより、先に出る」


 嬉しいと感じる前に、つらいと思った。

 自分だけが残ることが。

 この人の中で、他の何かがこぼれ始めているかもしれないのに、自分の名前だけが先に残ることが。


「そんな顔するな」

 冬真が言う。

「どんな顔」

「泣きそうな」

「泣いてない」

「そういう問題じゃない」


 返されて、千歳は少しだけ口を閉じる。

 泣きそうだったのかもしれない。

 でも泣いても仕方ない。

 ここで泣いたら、冬真はまた自分のことを後回しにする。


「……ねえ」

 千歳は静かに言う。

「確認していい?」

「何を」

「今、わたしの名前」

 冬真が少しだけ眉を寄せる。

「千歳」

「もう一回」

「お前、意外とひどいな」

「お願い」

 一拍置く。

「今のうちに、聞いておきたい」


 その言い方に、冬真は返す言葉を失ったみたいだった。

 やがて、小さく息を吐く。


「千歳」

 低い声。

「秋月千歳」

 もう一拍置く。

「俺の……」

 そこで少しだけ詰まる。

 千歳の胸が強く鳴る。

「幼馴染」


 最後は、ちゃんと言えた。

 そのことに少しだけ安堵する。

 でも、途中で言葉が止まりかけた事実は消えない。


「……うん」

 千歳は頷く。

「覚えてるならいい」

「いい顔して言うな」

「してない」

「してる」


 そのやり取りが、少しだけいつもに近い。

 でも、いつもと同じではない。

 その違いを二人とも知っていた。


     ◆


 綾人が戻ってきたのは、それからしばらくしてからだった。


 戸が開く音に、冬真がほんのわずかに顔をしかめる。

 千歳はその動きに気づき、すぐ綾人を見た。

 綾人もまた、その微妙な反応を見逃さなかったらしい。


「……どうした」

 低く問う。


 冬真は少しだけ間を置いてから答えた。

「名前が一瞬飛んだ」

 綾人の目が細くなる。

「誰の」

「お前の」

「そうか」


 綾人はそれ以上驚かなかった。

 予想の範囲内なのだろう。

 それが逆に怖い。


「村は?」

 冬真が先に問う。

 綾人は外套を払いながら答える。

「表向きは静かだ」

「表向きは、な」

「そうだ」

 綾人は頷く。

「だが社の年寄り連中は納得していない。“本当に供物の儀が不要になったのか”を確認したがっている」

「面倒だな」

「昨日と同じ感想だな」

「変わらないからな」

 その応酬のあと、綾人は視線を千歳へ向ける。

「今朝は呼び声は?」

「ない」

 千歳が答える。

「鈴も?」

「今のところ」

「……そうか」


 完全に消えた、と綾人は言わない。

 そこが今の状況をよく表していた。

 契約は断てた。

 でも、“だから全部終わった”とは誰も断言できない。


「千歳」

 綾人が言う。

「少し歩けるか」

 千歳は目を瞬く。

「どこへ」

「家へ戻すかどうか、様子を見る」

 その言葉に、千歳は一瞬だけ戸惑う。


 仮殿は怖い場所だった。

 でも、今は一周回っていちばん安全な場所にも思える。

 家へ戻る。

 その言葉が以前ほど当然に感じられない。


「……戻った方がいいんですか」

 綾人は少し考えてから答えた。

「まだ決めきれん」

「村の目もある」

 冬真が低く言う。


「そうだ」

 綾人は頷く。

「供物ではなくなった以上、いつまでも仮殿に置く理由は薄くなる」

「でも」

 千歳は言葉を探す。

「まだ終わってない感じがする」

 綾人が目を細める。

「それは正しい」

「じゃあ」

「だからこそ、外へ戻したときに何が起きるかを見る必要がある」


 つまり、反応を見るのだ。

 村の反応。怪異の反応。千歳自身の反応。

 そして、おそらく冬真の反応も。


「俺も行く」

 冬真が言う。

「当然だ」


「当然じゃない」

 千歳が思わず言った。

 二人の視線が一斉に向く。

「え、って顔しないで」

 千歳は少しだけ眉を寄せる。

「今の状態で、普通に当然みたいに言わないで」

 冬真は少しだけ困ったような顔をした。

「じゃあ何て言えばいい」

「もっと……」

「もっと何だ」

「無理してる自覚持って、ってこと」

 そう言うと、冬真はほんの少しだけ黙った。


「……自覚はある」

 やがて低く言う。

「でも行く」

「それ、最悪」

「知ってる」

「知ってるなら」

「お前を一人で返したくない」

 その一言で、千歳は続きを失った。


 綺麗な言い方じゃない。

 でも本音だ。

 そして今の自分には、それがよくわかる。


「……じゃあ」

 千歳はやっと言葉を継ぐ。

「行くなら、何か変だと思ったらすぐ言って」

「何を」

「忘れたこととか、気持ち悪さとか」

 一拍置く。

「勝手に黙らないで」


 冬真はしばらく黙っていたが、やがてほんの少しだけ頷いた。

「……善処」

「だめ」

「即答だな」

「そこは絶対」

 そこまで言うと、冬真は少しだけ息を吐いた。

「わかった」

 その返事に、千歳は小さく息を緩める。


     ◆


 昼前、三人は一度だけ千歳の家へ戻った。


 門柱の札はまだ残っている。

 軒先の結界もそのまま。

 でも、以前と違うのは、そのすべてが“供物を囲うため”ではなく、“余波を見るため”のものになっていることだった。


 庭へ入った瞬間、千歳は立ち止まる。

 鈴の音はしない。

 呼び声もない。

 でも、胸の奥にごく薄いざわつきだけがある。

 完全に何もないとは言い切れない感覚。


「どうだ」

 綾人が問う。


「……少しだけ」

 千歳は答える。

「何かある」

「近いか」

「近くはない」

 一拍置く。

「でも、消えた感じもしない」


 綾人は頷いた。

「やはりそうか」

「終わってないの?」

 千歳が問うと、綾人はすぐには答えなかった。

 その沈黙に、冬真が低く口を開く。


「終わってない、じゃなくて」

 千歳が顔を向ける。

「残ってるんだろ」

 冬真は庭の井戸の方を見る。

「切ったからって、積もってたものまで一晩で消えるわけじゃない」


 その言い方が、妙に生々しい。

 経験で言っているのだとわかるからだ。


「……詳しいね」

 千歳が小さく言うと、冬真は一瞬だけ詰まる。

「……そういうのは、わかる」

「それも、前から?」

 問いかけると、冬真は視線を逸らさないまま頷いた。


 胸の奥にまた重いものが落ちる。

 やはり、昨日まで思っていたよりずっと長い時間、この人はこういう感覚の中で生きていたのだ。


 そのとき、井戸のそばを吹いた風が一瞬だけ冷たく変わった。

 千歳が肩を強張らせる。

 同時に、冬真もぴくりと反応した。


「冬真?」

 千歳が見る。


 冬真は井戸の方を見たまま、ほんの少しだけ眉を寄せる。

「……何だっけ」

 小さな声だった。


「え」

「今」

 冬真はこめかみを押さえる。

「……何見てたか、一瞬」

 千歳の胸がひやりと冷える。


「井戸」

 即座に言う。

「井戸見てた」

 冬真は数秒だけ黙って、それからゆっくり頷いた。

「……ああ」

 その反応が遅い。

 ほんの数秒。

 でも、その数秒がひどく怖い。


 綾人もそれを見ていた。

 表情は変わらない。だが、目の奥だけが少しだけ険しくなる。


「戻るぞ」

 低い声。

「今日は長く外へ出すな」

 千歳は反論しなかった。

 今の冬真の様子を見てしまった以上、そんな気にはなれなかったからだ。


     ◆


 仮殿へ戻る道の途中、千歳はずっと無言だった。


 冬真もほとんど喋らない。

 綾人だけが時折、何かを考えるように前を向いている。


 やがて、千歳はどうしても我慢できずに口を開いた。


「……冬真」

「何だ」

「今の、怖かった」

 冬真は少しだけ目を伏せる。

「……ああ」

「わたしの名前が残るのも怖い」

 一拍置く。

「でも、井戸を見てたことが抜けるのも、すごく怖い」

 冬真は何も言わなかった。

 その沈黙が、かえって正直だった。


「だから」

 千歳は続ける。

「忘れる前に、もっと聞きたいって思う」

 冬真が視線を向ける。

「でも今は、聞いたら余計に削れそうで、それも怖い」

 喉が少し震える。

「どうしたらいいのかわかんない」


 冬真はしばらく黙ってから、低く言った。

「……わからなくていい」

 千歳は目を瞬く。

「え」

「今すぐ答え出さなくていい」

 掠れた声だった。

「俺も、わかってない」


 その返答は、今までの冬真にしては珍しく弱かった。

 でも、だからこそ本音だとわかる。


「……そっか」

 千歳は小さく言う。

「うん」

 冬真が答える。


 何も解決しない会話だった。

 でもその“わからない”を共有できたことが、少しだけ救いになった。

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