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冬の底で君を呼ぶ  作者: 最後に残った形


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第3章 第1話:壊れたあとに残る痛み


 契約が壊れた夜は、思ったより静かに終わった。


 鈴の音も、呼び声も、あの湿った気配も、仮殿の外からはもう聞こえない。雪を照らす夜の色だけが残り、長く村を縛っていたものが本当に一度は途切れたのだと、頭ではわかる。

 でも、千歳の胸の奥には、安堵だけが残ったわけではなかった。


 囲炉裏の火は弱く、仮殿の中には薬草の匂いが漂っている。

 千歳はその火のそばに膝をつき、少し離れた布団の上を見ていた。


 冬真が横になっている。


 眠っているようにも見える。

 けれど、ただ眠っているだけの顔ではない。呼吸は浅く、額には細い汗が滲み、左腕の包帯の下から覗く痣は肩口近くまで広がっていた。

 喉元の黒ずみも、仮殿へ戻ってすぐよりは薄れたが、完全には消えていない。


「……無事とは言えん、か」


 綾人の言葉が、まだ耳に残っていた。


 最悪の流れではなかった。

 写名の椀と分散結界が働き、返し守もどうにか最後まで崩れきらなかった。

 契約の証も壊れた。

 供物としての結びは断たれた。


 それでも、冬真に残ったものは消えていない。


「千歳」


 低い声で呼ばれて顔を上げる。

 綾人が仮殿の戸口に立っていた。さっきまで村長たちへの説明に行っていたはずだ。


「……どうでした」

 千歳が問うと、綾人は戸を閉めながら答える。

「前清めは止まった」

 千歳の胸が少しだけ緩む。

「村長は納得したんですか」

「納得はしていない」

 綾人は即答した。

「だが、供物の証が消えた以上、“予定どおり返納する”理屈は使えん」

 一拍置く。

「少なくとも、今夜は押し切れない」


 今夜は。

 その言い方が少しだけ引っかかる。

 終わったわけではなく、止まっただけなのだと伝わるからだ。


「村は?」

「混乱している」

 綾人は囲炉裏の向こうへ腰を下ろした。

「供物の儀が前提だった連中にとっては、足場が急に崩れたようなものだ」

「……そうですよね」

「だが今はそちらよりこっちだ」


 綾人の視線が、布団の上の冬真へ向く。

 千歳の胸がまた重くなる。


「起きないんですか」

「さっき一度だけ意識は戻った」

「本当に?」

 思わず身を乗り出す。

「何か言ってました?」


 綾人は少しだけ黙った。

「自分がまだ生きているか確認した」

「……何それ」

 千歳の声がかすれる。


「お前なら、そう言うと思った」

 綾人は淡々と返した。

「だが今のあいつには、それを確かめる意味がある」

 意味。

 その言葉が嫌だった。

 そんな確認が必要な状態なのだと、改めて突きつけられるからだ。


「どこまで……」

 千歳は自分でも気づかないうちに、膝の上で手を握っていた。

「どこまで悪いんですか」


 綾人はすぐには答えなかった。

 囲炉裏の火が、ぱち、と小さく鳴る。


「身体の反動だけなら、時間を置けば多少は戻る」

 やがて、綾人が言う。

「問題は、それ以外だ」

 千歳は息を止める。

 やはり、来る。

 痣や熱だけではない話が。


「記憶」

 綾人は短く言った。


 千歳の胸が強く縮む。

「やっぱり」

「まだ断定はできん」

「でも」

「抜け始めていてもおかしくない」

 その言い方は、あまりにも淡々としていた。

 だからこそ、怖かった。


「……どこが」

 千歳の声が小さく震える。

「どこからなくなるんですか」


「それはわからん」

 綾人は答える。

「新しい記憶から薄れる場合もあれば、古い層から崩れることもある」

「そんな」

「だが」

 綾人は少しだけ声を落とす。

「今のところ、お前のことはまだ繋がっている」


 千歳は目を瞬く。

「わかるんですか」

「さっき起きたとき」

 綾人は冬真を見たまま続ける。

「最初に、お前がどこにいるかを聞いた」

 胸の奥が痛む。

 安堵ではなく、別の何かが混ざった痛みだった。


 嬉しい、だけではない。

 自分だけが残ることの重さを、もう知っているからだ。


「……そうですか」

 それだけ返すのが精一杯だった。


     ◆


 冬真が次に目を覚ましたのは、夜がさらに深くなってからだった。


 仮殿の外にはもう人の気配がない。

 村も社も、ひとまずこの夜だけは静かに沈んでいるらしい。

 囲炉裏の火も弱くなり、薬草を煎じた匂いだけが残っていた。


 千歳は布団の脇でうとうとしかけていて、微かな衣擦れの音に顔を上げた。


「……冬真」


 彼はゆっくり目を開いていた。

 焦点が合うまで少し時間がかかる。

 その数秒が、千歳にはやけに長く感じられた。


「……千歳」

 掠れた声。


「うん」

 千歳はすぐに返した。

「いるよ」


 その一言に、冬真の目の奥の緊張がほんの少しだけほどける。

 それを見ただけで、千歳の胸がきつくなる。


「水」

 冬真が小さく言う。


「待って」

 千歳は急いで湯呑みに水を注ぎ、そっと差し出した。

 冬真は右手でそれを受け取ろうとして、途中で少しだけ動きを止める。力が入らないのだろう。

 千歳は迷った末、湯呑みの底を支えたまま口元へ近づけた。


 触れたらまた痛むかもしれない。

 そう思った。

 でも今は、それを気にしていられなかった。


 冬真は少しだけ水を飲み、深く息を吐く。

「……悪い」

「そういうとこだけ律儀」

 千歳が言うと、冬真の口元がかすかに動く。

「うるさい」


 その返しに、千歳は少しだけ肩の力を抜いた。

 まだ大丈夫だと思いたかった。

 少なくとも今、このやり取りができるなら。


「綾人さんが」

 千歳は静かに言う。

「前清めは止まったって」

 冬真は目を閉じかけて、また開く。

「……そうか」

「うん。だから、今夜はもう来ないって」

「今夜は、か」

 そこだけはきちんと拾う。

 やっぱりそういう人だ。

「そう。今夜は」


 少しだけ沈黙が落ちる。

 千歳はその間に、冬真の顔を見た。

 汗は引いたが、顔色はまだ悪い。

 何より、視線がときどきほんの少しだけ揺れる。


「……ねえ」

 千歳が呼ぶ。


「何だ」

「わたし、誰?」

 口をついて出た問いだった。


 冬真が、今度こそはっきりとこちらを見る。

 怪訝そうに眉が寄る。

「何言ってんだ」

「いいから」

 千歳は少しだけ声を落とした。

「答えて」


 数秒の沈黙。

 それから冬真は、掠れた声で言う。


「千歳」

 一拍置く。

「俺の、幼馴染」


 その言葉に、胸の奥がきゅっと縮む。

 まだ覚えている。

 それが嬉しいはずなのに、どうしてか泣きそうになる。


「……そっか」

 やっとそれだけ言うと、冬真が少しだけ眉を寄せた。

「何だよ」

「ううん」

 首を振る。

「確認しただけ」


 冬真は何か言いたげだったが、結局口を閉じた。

 たぶん今の自分に、何が起きているかを薄く自覚しているのだろう。

 だからこそ、千歳の確認の意図もなんとなく察している顔だった。


「千歳」

 今度は冬真が呼ぶ。


「何」

「……終わったんだよな」

 その問いは、さっき綾人にもしていた。

 契約が壊れたことを、何度でも確認したいのだろう。


「うん」

 千歳ははっきり頷く。

「綾人さんが、結びは切れたって」

 冬真はそこでようやく、長く息を吐いた。

「そうか」


 その“そうか”の中には、安堵だけじゃないものも滲んでいた。

 終わった。

 でも、それと引き換えに何かが残った。

 そのことまで、たぶんもう感じ始めているのだ。


     ◆


 綾人が仮殿へ戻ってきたのは、その少しあとだった。


 戸が開く音に、千歳は振り返る。

 綾人は外套へ雪を少しだけつけたまま入ってきて、冬真が起きているのを見て小さく目を細めた。


「意識は戻ったか」

「見ればわかるだろ」

 冬真が返す。

「口も戻っているな」

「嫌味もな」


 短い応酬。

 けれど、その軽口の奥に疲労があるのは隠しきれていなかった。


「村は」

 冬真が問う。


「今夜は動かない」

 綾人が答える。

「だが明日以降は別だ」

「やっぱり」

 千歳が小さく言う。


「供物の儀が止まったところで」

 綾人は囲炉裏の向こうへ座る。

「村の不安まで消えたわけではない。次は“本当に終わったのか”の確認に向かう」

「面倒だな」

 冬真が低く吐く。

「同感だ」


 千歳は二人の会話を聞きながら、胸の奥にまだ重いものが残っているのを感じていた。

 村のこともそうだ。

 でも、それ以上に。

 今いちばん知りたいのは別だった。


「……綾人さん」

 低く呼ぶ。


 綾人が顔を上げる。

「何だ」


「冬真の記憶」

 一語ずつ、慎重に言う。

「どこまで大丈夫なのか、調べられますか」


 冬真がわずかに顔をしかめる。

「おい」

「だって」

 千歳はそちらを見る。

「また、なくなってから気づくの嫌だから」

 冬真は目を逸らさなかった。

 それが少し意外だった。


 綾人は短く息を吐く。

「今夜すぐに全部は無理だ」

「でも?」

「簡単な確認くらいはできる」

 その返答に、千歳は少しだけ息を詰める。


「嫌ならやらない」

 綾人は冬真に向けて言った。

「……やれ」

 返答は短かった。


 綾人がいくつか簡単な問いを投げる。

 今日は何日か。

 ここがどこか。

 村長の名。

 志乃の名。

 綾人自身の名。


 冬真は少し遅れながらも答えていく。

 完全ではないが、致命的ではない。

 千歳の胸が少しだけ緩みかけた、そのとき。


「昨日、千歳が何と言った」

 綾人の問い。


 冬真が少しだけ黙る。


 千歳の呼吸も止まる。

 昨日。

 契約を切る前の最後のやり取り。

 終わったら全部聞く、と言った。

 消えないで、と言った。

 あの時間だ。


 冬真は眉を寄せ、目を伏せる。

「……」

「冬真」

 綾人が低く促す。


「……約束、だった」

 掠れた声。

「何の」

「終わったら……」

 そこで言葉が途切れる。

 千歳の胸が、ひやりと冷えた。


 覚えている。

 でも全部ではない。

 輪郭だけが残っている。


「……全部聞くって」

 やっとその先が零れる。


 千歳はそこで、安堵と恐怖が同時に胸へ広がるのを感じた。

 残っている。

 でも、少しずつ曖昧になっている。


 綾人もその反応で十分だったのだろう。

 問いをそこで止めた。


「重い抜け方ではない」

 綾人が言う。

「少なくとも今はな」

「少なくとも、か」

 千歳が小さく繰り返す。

「そうだ」

 綾人は正直だった。

「今後どう動くかは、まだわからん」


 その一言が、仮殿の中へ重く落ちる。

 契約は切れた。

 でも、これで全部終わりではない。

 むしろここから、本当の後遺症と向き合わなければならない。


     ◆


 夜はさらに深くなっていく。


 仮殿の外は静かだ。

 呼び声はない。

 でも、その静けさがもう完全な平穏を意味しないことを、千歳は知ってしまっていた。


 囲炉裏の火が小さく鳴る。

 冬真は再び横になったが、今度は完全に眠り込まず、薄く目を閉じているだけだった。

 綾人は戸口のそばで札の焼け具合を確かめている。


 千歳は布団のそばに座ったまま、小さく息を吐いた。


「終わったら全部聞く」

 自分で言った言葉が、今は重く戻ってくる。

 契約は壊れた。

 でも、本当に聞かなければいけないのはこれからなのだ。


 子どもの頃から、どれだけ。

 何を。

 どこまで。

 何を失いながら、守っていたのか。


 その全部はまだ知らない。

 でも、もう知らないままではいられない。

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