第2章 第20話:証を壊す夜
綾人が白椿の木札を卓へ置いた瞬間、仮殿の空気は明らかに変わった。
鈴の音が、外ではなく内側から鳴っているみたいに響く。
からん。
からん。
細く、近く、逃げ場のない音だった。
千歳は写名の椀と木札のあいだに立ったまま、浅く息を吸う。
怖い。
怖いのに、足は逃げなかった。
ここで動けば終わる。
それだけは、もう身体が知っている。
「千歳」
冬真が低く呼ぶ。
視線を向ける。
喉元の黒ずみはさっきより濃い。左腕の包帯の下も、きっともう限界に近いのだろう。それでも目だけは逸れていなかった。
「何が見えても、今は木札から目を離すな」
千歳は頷く。
「うん」
「呼ばれても」
「行かない」
「……よし」
そのたった一言が、千歳にはひどく大きかった。
綾人が仮殿の外縁へ札を打つ。
最後の分散結界。
白い紙が一斉に淡く光り、灰の線の上を細い光が走る。
「始める」
低い声。
「冬真、位置」
「わかってる」
冬真が卓の右へ回る。
綾人は左。
千歳は中心。
白椿の木札。
写名の椀。
返し守。
全部が、今この一瞬のために揃えられていた。
「名を切る」
綾人の声が落ちる。
「映せ」
冬真が札を木札へ差し込む。
次の瞬間、木札が赤く燃えるみたいに光った。
「っ……!」
千歳の胸の奥が、強く引かれる。
目に見えない糸で心臓を引っ張られたみたいな感覚だった。
痛い。
でも怪我の痛みとは違う。
もっと深いところ――名前とか、境目とか、そういうものが剥がされるような感覚。
写名の椀の内側の文様が、白く浮かぶ。
返し守の木札がかすかに震えた。
分散結界の札が一斉に鳴る。
からん。
からん。
からん。
鈴の音ではない。
札が軋む音だ。
それだけ、流れが強いのだとわかる。
「千歳!」
冬真の声。
「立てるか」
「……立てる」
声は掠れたが、嘘ではなかった。
木札の白椿の印が、じわじわと薄れていく。
代わりに、椀の内側へ赤い線が流れ込む。
名が移っている。
少なくとも途中までは、うまくいっている。
「返し守、開くぞ」
綾人が言う。
包みが解かれる。
古びた木札へ巻きついた白糸がほどけた瞬間、仮殿の空気が一気に冷えた。
黒いものが、木札から噴き上がる。
「っ!」
千歳の視界の端が暗く染まる。
それは影ではなく、もっと液体に近い黒だった。
返り。
長いあいだ村へ返されず、契約の底へ沈められてきたもの。
返し守がそれを受ける。
だが完全ではない。
黒い流れの一部が、なおも仮殿の中へこぼれ落ちる。
「分散結界、保て!」
綾人が叫ぶ。
外周の札が白く燃える。
黒い流れの半分がそこで外へ弾かれ、山の方角へ逃げていく。
けれど残りは止まらない。
それが、冬真へ向かった。
「……っ、ぅ!」
冬真の身体が大きく揺れる。
左腕の痣が、包帯の下から黒く浮き上がるみたいに広がった。
喉元の黒ずみも濃くなり、首筋へまで伸びる。
「冬真!」
千歳の声が震える。
「見るな!」
冬真が返す。
「木札見ろ!」
その声が、本物だから余計につらい。
でも千歳は目を逸らさなかった。
逸らせなかった。
順番を守ると決めたからだ。
木札の印はもうほとんど消えかけている。
椀の内側には、白椿の文様とは別に、赤い筋が細く浮かび始めていた。
移っている。
あと少しだ。
そのとき、黒い流れがさらに一段強く噴き上がった。
返し守の木札に走っていた亀裂が、ぴしりと音を立てる。
「まずい!」
綾人が叫ぶ。
次の瞬間、返し守の半分が割れた。
仮殿の中へ、行き場を失った返りが溢れる。
千歳の視界が黒く染まりかける。
耳の奥で無数の声が重なる。
――返して
――返して
――返して
――あの子を
――今度こそ
足が動きそうになる。
膝が笑う。
でもその瞬間、手の中の札が熱を持った。
冬真がくれた札だ。
掌が焼けるように熱い。
でもその痛みが、千歳を現実へ引き戻す。
「……行かない!」
千歳は叫んだ。
自分の声だった。
怪異への返事ではない。
拒絶だ。
その瞬間、椀の中の赤い筋が一気に白へ変わる。
白椿の印が、木札から消えた。
「移った!」
綾人が叫ぶ。
同時に、木札が真ん中から割れた。
ぱきん、と乾いた音。
供物の証が壊れたのだ。
仮殿全体が大きく震える。
黒い返りが最後にうねり、椀へ、結界へ、そしてそれでもなお余る分が冬真へ叩きつけられる。
「っ、あ……!」
冬真が初めて、明確に膝をついた。
「冬真!」
千歳は思わず一歩踏み出す。
「動くな!」
綾人が鋭く叫ぶ。
「まだ終わっていない!」
その一声で、千歳はぎりぎりで止まる。
今ここで飛び込めば、最後の流れが乱れる。
わかる。
わかるから、涙が出そうなくらい苦しい。
冬真は片膝をついたまま、右手で床を押さえ、どうにか意識を繋いでいる。
包帯の下から、黒い痣が肘を越えて肩へ伸びていた。
それだけじゃない。
左のこめかみのあたりまで、薄く黒い筋が浮いている。
綾人が最後の札を外周へ叩きつける。
「散れ!」
白い閃き。
仮殿の外で風もないのに雪が舞い上がる。
残った黒い流れが一気に外へ弾かれ、山の方角へ消えていく。
静寂。
鈴の音も、声も、もう聞こえない。
ただ、仮殿の中に荒い呼吸だけが残る。
最初に動いたのは千歳だった。
今度は綾人も止めない。
千歳はそのまま冬真のそばへ駆け寄る。
「冬真!」
肩へ触れる。
身体は熱いのに、指先だけひどく冷たい。
「……おい」
呼ぶ。
「聞こえてる?」
冬真はすぐには答えなかった。
ほんの数秒。
でも千歳には、その沈黙が永遠みたいに長かった。
やがて、掠れた声が落ちる。
「……聞こえてる」
それだけで、胸の奥が少しだけ緩む。
でも安心にはほど遠い。
「どこが平気なの」
思わず言うと、冬真は目を開けかけて、少しだけ口元を動かした。
「平気とは……言ってない」
「今それ言えるならまだ大丈夫、って言いたいところだけど全然よくない」
「厳しいな」
「当たり前でしょ」
そのやり取りの途中で、冬真の視線が少し揺れる。
焦点が合っていないように見えた。
「冬真?」
千歳が顔を覗き込む。
冬真は一度だけ目を閉じ、それからゆっくり開いた。
「……千歳」
「うん」
「終わった、か」
その問いに、千歳の胸が少しだけ痛む。
自分でも確信を持ちたかったのだろう。
綾人が卓の前から答える。
「証は壊れた」
低い声。
「椀も保った。契約の結びは切れている」
千歳が息を呑む。
「じゃあ」
「供物としての繋がりは、少なくとも今この瞬間は断てた」
綾人は振り向く。
その顔にも疲労は濃かったが、目ははっきりしていた。
「……終わった」
その言葉を聞いても、千歳はすぐには信じられなかった。
あまりにも長く、自分を縛っていたものだったから。
でも少なくとも今、鈴の音はしない。
呼び声もない。
仮殿の空気から、あの湿った気配が消えている。
「……そっか」
小さく呟いた瞬間、ようやく身体の力が少し抜けた。
同時に、涙が出そうになる。
けれど泣かなかった。
今はまだ、その前に確認しなければならないことがある。
「綾人さん」
千歳が顔を上げる。
「冬真は」
綾人は数秒だけ黙った。
それから、正直に言う。
「無事とは言えん」
千歳の胸が強く締まる。
「ただ」
綾人は続ける。
「最悪の流れにはならなかった。椀と結界でかなり持っていった」
「……」
「それでも残りは入った」
その言葉が重い。
千歳はもう一度、冬真を見る。
喉元の黒ずみ。広がった痣。揺れる焦点。
たしかに“無事”ではない。
でも、消えてはいない。
まだここにいる。
「……冬真」
小さく呼ぶ。
「何だ」
返事は遅い。けれど返ってくる。
「約束」
喉が少し震える。
「終わったら、全部聞くって言った」
冬真の目が、わずかに揺れる。
「……今かよ」
「今じゃない」
千歳は首を振る。
「でも、逃げないで」
その言葉に、冬真はしばらく黙っていた。
やがて、ほんの少しだけ目を細める。
「……善処」
「だめ」
「即答だな」
「当たり前」
冬真の口元が、本当にわずかだけ動いた。
「厳しい」
「知ってる」
その小さなやり取りだけで、千歳はどうにか呼吸を保てた。
綾人が仮殿の外を見たまま言う。
「村長たちには、前清めは不要になったと伝える」
冬真が低く問う。
「通るか」
「通す」
綾人は短く答えた。
「供物の証が消えた以上、形の上でも前提は崩れた」
「……そうか」
冬真が息を吐く。
千歳はその言葉を聞きながら、ようやく胸の奥でひとつ理解する。
もう“供物”ではない。
少なくとも、昨日までの意味では。




