第2章 第19話:壊すための合図
日が、ゆっくりと傾いていく。
仮殿の中に差し込む光は、もう白ではなく薄い橙を帯びていた。札の白さも、灰の線も、写名の椀の古びた漆も、その光の中では妙に現実味を持つ。
準備は整っている。
少なくとも、できる限りの形では。
千歳は仮殿の中央に立ち、何度目かもわからない呼吸を整えていた。
目の前には白椿の木札を置く場所。
少し離れて、写名の椀。
その左右に返し守。
外側を囲むように分散結界。
綾人が描いた線を、もう頭ではなく身体が覚え始めている。
「動くな」
冬真が言う。
「まだ何もしてない」
千歳が返すと、冬真は少しだけ眉を寄せた。
「そういう問題じゃない」
「わかってる」
「本当に?」
「その確認、何回目」
「必要な回数だ」
短い応酬。
でもその声の奥にある緊張は、もう隠しきれていない。
冬真の左腕の包帯の下では、痣がまた熱を持っているのだろう。喉元の黒ずみも、昼より少し濃い気がした。
それを見ているだけで、千歳の胸はざわつく。
でも今は、そのざわつきごと押し込めるしかない。
綾人が仮殿の戸口から外を一瞥して戻る。
「まだ来ない」
「村長たちか」
冬真が問う。
「ああ。だが、日が完全に落ちる前には動く」
綾人は淡々と言う。
「こちらが先だ」
その一言で、空気がまた一段締まる。
先にやる。
つまり今、この日暮れの手前で始めるのだ。
「最後に確認する」
綾人が低く言った。
千歳も冬真も、黙ってそちらを見る。
「最初に祓殿で鏡の器を砕く」
綾人が指を折る。
「冬真、お前が行け」
「わかってる」
「その返りは祓殿の封へ留める」
「次に誓詞」
千歳が言う。
綾人が頷く。
「本殿の封の中で焼く。これは私がやる」
「最後」
冬真の声が低くなる。
「供物の証を壊す」
綾人が言い切る。
「その瞬間、写名の椀へ名を移す。返し守を開き、分散結界を起こす」
「わたしは」
千歳が確認するように言う。
「中心から動くな」
冬真が先に答えた。
「何が起きても、まず椀と木札を見る」
「順番は守る」
千歳は言った。
昨日から何度も自分に言い聞かせている言葉だ。
「でも」
一拍置く。
「終わったあと、もし何かあったら、今度は止めないから」
冬真が少しだけ目を細める。
「脅しか」
「約束」
「怖いな」
「知ってる」
その短いやり取りを、綾人が小さく息を吐いて切る。
「そこまでにしておけ」
そして少しだけ声を落とす。
「本番の前に感情を使い切るな」
そう言われて、千歳は小さく唇を結ぶ。
たしかにその通りだった。
怒りも、怖さも、不安も、今ここで全部表へ出してしまえば、本番で足元を掬われる。
だから、息を整える。
目の前の線を見る。
白椿の木札を見る。
写名の椀を見る。
自分が守るべき順番を、頭へ入れ直す。
◆
最初の異変は、日が山の端へ半分沈んだ頃に来た。
からん。
仮殿の外で、鈴の音がひとつ鳴る。
三人の空気が変わる。
来た。
今までは遠くから探るようだった音が、今度ははっきり近い。
「……早いな」
冬真が吐く。
「待ってはくれないと言った」
綾人が返す。
「始めるぞ」
その一言が、仮殿の中へ重く落ちる。
千歳の心臓が大きく鳴った。
でも、逃げたいとは思わなかった。
怖い。
それでもここまで来て、今さら目を逸らす方がもっと怖い。
綾人が札を二枚取り、仮殿の中央の陣へ置く。
「千歳、位置」
「うん」
千歳は椀と木札の中ほどへ立つ。
昼にも何度か確かめた位置だ。
けれど今は、線の一本一本がまるで刃物みたいに鋭く感じられる。
冬真は戸口へ向かい、そこで一度だけ振り返った。
視線が千歳へ向く。
「呼ばれても返事するな」
低い声。
「しない」
「本当に」
「本当に」
千歳は頷いた。
冬真はほんの一瞬だけ黙り、それから低く言う。
「……終わるまで、そこにいろ」
「うん」
それだけを確認して、冬真は仮殿を出る。
綾人もその後を追うが、完全には外へ出ない。本殿と仮殿を繋ぐ役として、出入りできる位置へ止まるつもりなのだろう。
戸が閉まる。
千歳は一人、陣の中心に残る。
囲炉裏の火は落としてある。
札の淡い光だけが、仮殿の空気を薄く照らしていた。
鈴の音が、また鳴る。
からん。
からん。
今度は、仮殿の周囲を回るように。
「……行かない」
千歳は小さく言う。
それは怪異への返事ではなく、自分への言い聞かせだった。
手の中には、冬真から渡された札。
それを強く握る。
札の角が掌へ食い込む。
痛みがある方がよかった。現実へ繋がっていられるからだ。
◆
祓殿では、鏡の器がすでに床の中央へ置かれていた。
ひびの入った古い鏡片。
今まで村とあれを結び続けてきた最初の器だ。
冬真はその前に立ち、右手に札を挟む。
左腕の奥が、もう熱い。
仮殿の中心に千歳が立った瞬間から、何かがこちらを認識し始めたのだろう。
「行けるか」
綾人が低く問う。
「今さらだろ」
冬真は答える。
「聞いただけだ」
「行ける」
一言で返す。
綾人はそれ以上何も言わなかった。
代わりに札を一枚、祓殿の封へ差し込む。
「砕け」
低い声。
冬真が鏡へ札を叩きつけた。
「断て!」
赤い光が走る。
ひびの入った鏡片が、今度は完全に割れた。
祓殿の空気が一瞬でひっくり返る。冷たさではない。もっと内臓へ直接触れるような重い反動。
割れた鏡から黒い靄が噴き上がり、祓殿の封へぶつかる。
「留めろ!」
綾人が叫ぶ。
札が白く燃える。
黒い靄は封へ吸い込まれるように沈み、その場へ留まった。
だが完全に静まったわけではない。
封の内側で、何かが蠢くような気配が残る。
「一つ」
綾人が低く言う。
冬真は短く息を吐いた。
腕が痛い。だがまだ立てる。
「次だ」
◆
本殿の脇では、誓詞が広げられていた。
古い文面。
村と怪異を結ぶ言葉。
供物を返すことを代々継いできた、呪いに近い約束。
綾人が火を灯す。
誓詞の端へ札を添える。
「言葉を返す」
低く落ちる声。
「継ぎを絶て」
火が走った。
誓詞はすぐには燃えない。
ただの紙ではないのだろう。黒く焦げ、文字の列が赤く浮かび上がり、まるで自分で拒むように震える。
次の瞬間、文字が一斉に浮き上がり、焼けた言葉の形のまま空中へ散った。
それが綾人へ向かって降りかかる。
「っ……!」
綾人が札を切る。
白い光が、文字の群れを受け止める。
それでも何文字かは頬をかすめ、袖を焦がした。
「綾人!」
冬真が声を上げる。
「構うな!」
綾人は即座に返す。
「まだだ!」
誓詞の最後の行が、ようやく火に呑まれて崩れる。
その瞬間、本殿の封が大きく震え、低いうなりのような音を立てた。
だが崩れない。
どうにか持ったのだ。
綾人は荒い息を吐き、焼け残った紙片を踏み潰すように押さえた。
「二つ」
冬真は仮殿の方を見る。
残るは最後。
供物の証だけだ。
◆
仮殿の中では、鈴の音がさらに近くなっていた。
からん。
からん。
今度は外を回るだけではない。
板壁のすぐ向こう、戸口の真前、窓の外。
呼び声はまだ来ない。
だが、その沈黙が逆に怖い。
千歳は札を握り、椀と木札のあいだに立ち続ける。
怖い。
脚が少し震える。
でも、逃げない。
そのとき、不意に頭の奥で、また小さく何かが弾けた。
雪の日。
白い椀。
幼い冬真の横顔。
誰かが言う。
――まだ全部は引けない
――なら少しずつならどうだ
――その子が持つよりはましだ
「……っ」
千歳の呼吸が乱れる。
記憶。
今のは、たしかに記憶だ。
少しずつならどうだ。
その言葉の意味が、胸の奥へ重く沈む。
昔から。
本当に昔から、冬真はそうやって引いてきたのだ。
からん。
鈴がひときわ近く鳴る。
次の瞬間、戸の外で声がした。
「千歳」
冬真の声だった。
千歳は目を閉じる。
違う。
今はまだ、二つ目を切っている最中だ。
ここへ来られるはずがない。
「千歳」
もう一度。
今度は苦しそうな声。
「助けて」
その一言に、胸が大きく揺れる。
助けて。
そんな言葉、本物の冬真はたぶん簡単には言わない。
だからこそ、怪異はそこを使う。
「……行かない」
千歳は息を詰めながら言う。
「行かない」
声が低く嗤った。
次の瞬間、戸の向こうの気配が変わる。
優しいふりをした怪異の声ではない。
もっと湿った、床下の残滓に近い声が滲む。
「じゃあ見ていて」
その声が言う。
「あの子が壊れるところ」
同時に、仮殿の戸が外から大きく震えた。
どん、と鈍い音。
札が三枚、同時に焦げる。
千歳の心臓が跳ねる。
でも動かない。
今ここで戸へ行ったら終わる。
「千歳!」
今度こそ本物の冬真の声だった。
戸が開く。
冬真と綾人が飛び込んでくる。
二人の顔色を見た瞬間、千歳は悟る。
二つ目まで終わったのだ。
「誓詞は?」
千歳が掠れた声で問う。
「切れた」
綾人が即答する。
「残るは証だけだ」
その言葉と同時に、仮殿の外で風もないのに雪が舞い上がる。
白いものが戸口の前を横切り、鈴の音が一斉に重なる。
からん。
からん。
からん。
もう待ってはくれない。
ここまでだ、と向こうもわかっているのだろう。
綾人が白椿の木札を卓へ置く。
千歳の呼吸が浅くなる。
冬真は喉元の黒ずみがさらに濃くなっていた。祓殿と本殿を連続で切った反動が、見えないところまで回っているのだろう。
「始める」
綾人が低く告げる。
千歳は頷いた。
怖い。
でも、もう次の一歩しかない。




