第2章 第18話:揃ってしまった手札
返し守の包みが卓に置かれたまま、仮殿の中に重い沈黙が落ちた。
土にまみれた小さな守。
傷んだ写名の椀。
供物の証である白椿の木札。
鏡の器を砕くための札。
誓詞を断つための封。
必要だったものは、ほとんど揃ってしまった。
それは希望でもある。
同時に、もう後戻りできない段階まで来たという意味でもあった。
千歳は卓の上を見つめたまま、無意識に息を詰めていた。
揃えば安心できると思っていたわけではない。
けれど、実際にこうして並ぶと、全部があまりにも現実だった。
「……これで」
千歳が小さく言う。
「ほんとに、もうやるしかないんだね」
綾人が頷く。
「日暮れまでだ」
「村長たちは」
冬真が低く問う。
「社の外で待つ気配がある」
綾人は淡々と答える。
「露骨には来ない。だが、こちらが整わないまま日を落とせば、明朝の前清めへそのまま押し切るつもりだろう」
冬真が舌打ちしそうな顔をする。
千歳はその横顔を見る。
喉元の黒ずみは、まだ薄く残っていた。
床下の残滓が反応した痕。
そこへ視線を向けるたび、胸の奥がざわつく。
「冬真」
呼ぶと、彼が顔を向ける。
「何だ」
「その首」
「何でもない」
「嘘」
即答すると、冬真は少しだけ眉を寄せた。
「お前、最近そればっかりだな」
「だって本当だし」
「本当でも今はどうにもならん」
その返しが、いつもよりずっと疲れて聞こえる。
綾人が仮殿の中央へ戻り、床の陣を見下ろした。
「整理するぞ」
低い声。
「返し守は使う」
「傷んでる」
冬真が言う。
「それでも使う」
綾人は即答した。
「外す理由がない」
「壊れたら」
「そのときは結界だけで流す」
「成功率が落ちる」
「そうだ」
綾人は認める。
「だが今は、ある手をすべて重ねるしかない」
千歳は膝の上で手を握る。
写名の椀だけでは足りない。
返し守だけでも足りない。
分散結界だけでも足りない。
全部を重ねて、ようやく“人ひとりを完全に受け皿にしない可能性”が見えてくる。
可能性。
まだその言葉から出ていない。
それが苦しい。
「順番は変わらない?」
千歳が問う。
綾人は陣の線を指で辿りながら答える。
「変わらん」
「鏡を砕いて」
「誓詞を断つ」
「最後に、証を壊す」
千歳が自分で言葉を続けると、綾人は頷いた。
「そのとき」
千歳はさらに言う。
「写名の椀で木札の名を受ける」
「返し守で返りを外へ逃がす」
綾人が補足する。
「同時に、外側の分散結界で残りを山へ返す」
「それでも残ったら」
千歳の声が少しだけ掠れる。
綾人は沈黙した。
冬真も何も言わない。
千歳は唇を噛んだ。
ここが、やはり最後の空白だ。
手札は揃った。手順もある。
でも、なお余るものがあるかもしれない。
そこだけは、まだ確定した答えがない。
「……人へ来る」
千歳が低く言った。
綾人がほんの少し目を細める。
「可能性はある」
「誰に」
その問いが落ちた瞬間、冬真が顔を上げた。
「千歳」
低い声だった。
止めたいのだろう。
でも千歳は逸らさなかった。
「だって」
静かに返す。
「そこを曖昧にしたままやるの、もう無理」
一拍置く。
「また、何も知らない方へ戻るだけだから」
冬真はしばらく黙っていた。
やがて、掠れた声で言う。
「最初に来るのは、たぶん俺だ」
千歳の呼吸が止まりかける。
「……たぶん」
それでも聞き返してしまう。
「どうして、そう言えるの」
冬真は目を伏せた。
「今まで引いてきた分がある」
短い答え。
それだけで十分すぎた。
やはりそうなのだ。
最近ではない。昨夜でもない。もっと前から積み重なったものが、この人の方へ流れやすくしている。
綾人が低く付け加える。
「だからこそ、椀と返し守で最初の流れを逸らす」
千歳は頷こうとして、うまくできなかった。
頭ではわかる。
でも、“最初に来るのはたぶん俺だ”という言葉が、胸の奥に冷たく残っている。
「ただし」
冬真が顔を上げる。
「それを前提に進めるつもりはない」
千歳が視線を向ける。
「お前が嫌がったのは、そこだろ」
その言い方が少しだけ不器用で、でもちゃんと届いた。
勝手に自分を差し出す方で話を終わらせるな。
そう言ったことを、覚えている。
「……うん」
千歳は小さく頷いた。
◆
綾人はそれから、具体的な配置をひとつずつ決めていった。
仮殿の中央に写名の椀。
その前に白椿の木札。
左右に返し守を挟み、外側へ分散結界。
鏡の器は祓殿。
誓詞は本殿へ近い封の内側。
すべてを一人で扱うのではなく、三人で役を分ける。
「俺は鏡を砕く」
冬真が言う。
「ひびはもう入ってる。俺が一番近い」
「……」
「綾人が誓詞を断つ」
綾人が頷く。
「千歳は」
そこで冬真の声が少しだけ低くなる。
「最後まで仮殿の中心から動くな」
千歳は問い返した。
「供物の証を壊すときも?」
「ああ」
「どうして」
「椀へ名を移すとき、お前自身の気配が要る」
綾人が答えた。
「だが木札には触れるな」
「触ったら」
「直に流れを受ける可能性がある」
千歳は息を呑み、静かに頷く。
「合図は?」
千歳が問う。
「綾人」
冬真が答える。
「一番冷静だからな」
「不本意だが正しい」
綾人が言った。
そのやり取りに、ほんの少しだけ空気が緩む。
こういう短い言葉の応酬が、今は妙にありがたかった。
「……でも」
千歳は紙ではなく、今度は冬真を見た。
「もし、本当に最初にあなたへ来たら」
「千歳」
「聞いて」
遮って言う。
「そのとき、わたしはどうすればいいの」
冬真はすぐには答えなかった。
綾人も黙る。
たぶん、この問いがいちばん難しいのだろう。
「助けようとするな」
やがて冬真が低く言う。
「まず椀を見ろ」
千歳は目を瞬く。
「え」
「木札と椀の方が優先だ」
冬真は続ける。
「そっちが崩れたら、俺に来るどころか全部終わる」
一語ずつ押し出すみたいな声だった。
「だから、もし俺が何かあっても、お前はまずそっちを保て」
千歳は唇を噛む。
わかる。
わかるけれど、それはあまりにも残酷な役目だった。
「……嫌だ」
思わず零れる。
冬真が少しだけ目を細める。
「知ってる」
「だって、そんなの」
喉が少し熱くなる。
「目の前であなたが苦しんでても、見てろってことでしょ」
「見てろとは言ってない」
「同じだよ」
一歩だけ、千歳は冬真へ近づく。
「そういう言い方するから嫌なんだよ」
冬真は何も言わない。
綾人が低く口を挟んだ。
「千歳」
視線を向ける。
「嫌でも、それが一番正しい可能性が高い」
千歳は目を閉じたくなる。
やはり綺麗にはいかない。
誰かを助けたい気持ちと、手順を守ることが矛盾する場面が、きっと来るのだ。
「……でも」
千歳はゆっくりと言う。
「それでも、わたしは見捨てない」
冬真の肩がわずかに揺れる。
「順番は守る」
一拍置く。
「でも、順番が終わったあと、勝手に消えようとしたら絶対許さない」
その言葉に、冬真はしばらく何も返せなかった。
やがて、ひどく小さく息を吐く。
「怖いこと言うな」
「本気だから」
「知ってる」
その返答に、千歳は少しだけ胸が詰まる。
軽口ではないと、ちゃんと伝わっている。
◆
昼はゆっくり過ぎるはずなのに、今日だけは違った。
綾人は祓殿と仮殿を何度も行き来し、鏡の器の位置を確かめる。
冬真は結界の札を打ち直し、合間に何度も咳き込んだ。
千歳は言われたとおり陣の位置を覚え、椀と木札の距離、返し守の置き場、分散結界の外周を何度も目でなぞった。
そのたびに、自分が“本番の中心”へいることを思い知らされる。
怖い。
でも、今さら逃げたいとは思わなかった。
日が少しずつ傾き始めたころ、綾人がようやく手を止めた。
「……形にはなった」
低い声。
千歳が仮殿の中央を見る。
準備された陣は、今まで見たどの結界よりも複雑だった。
白い灰の線。
札。
椀。
返し守。
木札を置く場所だけが、まだ空いている。
「本当に、やるんだね」
千歳が呟くと、冬真が低く答えた。
「ああ」
短い一言。
けれどその中に迷いはない。
迷っている暇がないのだろう。
綾人が外を見る。
「日暮れまで、あと少しだ」
「村長たちは」
冬真が問う。
「まだ動かん」
綾人が答える。
「だが、日が落ちれば来る」
つまりその前に決めるしかない。
もう猶予はない。
千歳は手の中の札をそっと握り直す。
冬真がくれた札。
呼ばれても応じないための、小さな支え。
「……ねえ」
千歳が静かに呼ぶ。
冬真が顔を向ける。
「何だ」
「終わったら」
そこまで言って、自分でも少しだけ息を詰める。
「ちゃんと全部、聞くから」
冬真の目が、ほんの少しだけ揺れた。
「昔のことも」
千歳は続ける。
「どれだけ、何を引いてきたのかも」
一拍置く。
「だから、終わる前に消えないで」
それはお願いだった。
命令ではない。
でも願うだけでもない。
これだけは譲れないと伝える言葉だった。
冬真はしばらく黙っていた。
やがて、ひどく低く、でもはっきり言う。
「……善処じゃ駄目か」
千歳は思わず少しだけ笑ってしまう。
「だめ」
「厳しいな」
「知ってる」
「……わかった」
その一言は、今までのどの約束より重く聞こえた。




