第2章 第17話:本殿の床下
仮殿の戸が閉まったあと、静けさはすぐには来なかった。
千歳はしばらくその場に立ち尽くし、冬真から渡された札を手の中で握っていた。
小さな紙一枚。なのに、それを持っているだけで心の置き場が少しだけ変わる。
待つしかないことは変わらない。
でも、ただ何もできずに置いていかれるだけではないと思える。
外では風もない。
なのに、ときどき板壁の向こうで、誰かが耳を澄ませるみたいな気配がする。
呼び声はまだ近くない。
けれど近づいてきているのはわかる。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟く。
そうしなければ、今にも戸を開けて追いかけてしまいそうだった。
けれど今、千歳にできることは別にある。
呼ばれても応じないこと。
仮殿の結界を受け場として保つこと。
そして、冬真が戻ったときに、もう何も知らないままの顔をしないこと。
千歳はゆっくりと囲炉裏のそばへ座り、綾人が描いた陣をもう一度目で追った。
鏡の器。
誓詞。
供物の証。
写名の椀。
返し守。
分散結界。
どれもまだ、少し間違えば崩れる綱みたいなものだ。
でも昨日までと違うのは、少なくとも今、自分もその綱の形を知っていることだった。
◆
一方、本殿の裏手へ回る道は、昼間でも薄暗かった。
冬真は石段の脇を抜け、綾人の少し後ろを歩いていた。
本殿の裏は村人でも滅多に入らない。雪は薄く残っているのに、人の足跡がない。その不自然さがかえって嫌だった。
「本殿の床下、だったな」
冬真が低く言う。
「ああ」
綾人は振り返らずに答える。
「返し守は、昔の神職が“返り”を逃がすために一時的に沈める守だ」
「一時的に、か」
「本来は長く使うものじゃない」
「じゃあ、残ってても使い物になるとは限らない」
「そういうことだ」
最悪だな、と冬真は思う。
希望のように見えたものが、いつも少しずつ足りない。
だが足りないからといって手を止めれば、その先にあるのは供物の儀だけだ。
本殿の裏手には、小さな祠のような建物が寄り添っている。
その足元、雪を払った石敷きの一角に、古い板の継ぎ目が見えた。
「ここか」
「ああ」
綾人は膝をつき、板の端へ札を差し入れる。
「封が生きているなら、勝手には開かん」
札が淡く光る。
次の瞬間、板の継ぎ目に細い線が走り、ぎし、と鈍い音を立てて口を開けた。
冷気とは別の、湿った空気が立ちのぼる。
土と木と、古い供物の匂いが混ざったような、嫌な気配だった。
「……ひどいな」
冬真が吐き捨てる。
「床下っていうより、墓穴だ」
「大差ない」
綾人の返答は淡々としていた。
手燭の火を中へ差し入れる。
狭い空間だった。梁が低く、土の上には古い祭具箱がいくつも並んでいる。どれも半ば埋まり、長い年月そのまま放られていたのだろう。
「手分けするぞ」
綾人が言う。
「返し守とわかるものは、紐か札の形で残っているはずだ」
「“はず”ばっかりだな」
「今さら文句を言うな」
「言いたくもなる」
冬真は床下へ身を滑り込ませた。
低い。狭い。左腕の包帯が梁に擦れるたび、痣の奥が鈍く痛む。
だがそんなことに構っている暇はない。
木箱をひとつ、二つと確かめる。
古い鈴。
割れた小皿。
墨の滲んだ札束。
どれも違う。
「そっちは」
綾人が低く問う。
「外れ」
短く返す。
また別の箱へ手を伸ばしたとき、指先にざらついた布の感触が触れた。
半ば土へ埋もれた小さな包み。
紐は切れ、布は茶色く変色している。
「……これか?」
包みを引き寄せる。
中から出てきたのは、掌に乗るほどの細い木札と、それに巻きついた白い糸だった。
木札の表には、すでに半分ほど消えかけた文字。
――返 守
「綾人」
冬真が低く呼ぶ。
「見つけたか」
「たぶん」
綾人が這うように近づき、手燭を寄せる。
光に照らされ、木札の文字がようやく読めた。
「……返し守だ」
綾人が言った。
だがその声に、安堵だけではないものが混じっている。
「でも?」
冬真が問う。
綾人は木札を裏返す。
裏には細い亀裂が一本、真ん中を走っていた。
「傷んでいる」
「使えない?」
「断定はできん」
綾人は答える。
「だが完全ではない」
またそれだ。
使えるかもしれないが、万全ではない。
そういうものばかりが積み上がっていく。
「持ち帰るしかないな」
冬真が言う。
「当然だ」
綾人が頷いた、そのときだった。
床下のさらに奥、土の向こう側で、かすかに何かが擦れる音がした。
二人の空気が一瞬で張り詰める。
「……今の」
冬真が低く言う。
綾人は手燭を奥へ向けた。
火の届く範囲は狭い。だが、その向こうの闇の中で、何か白いものが一瞬だけ揺れた。
布。
いや、人の袖にも見える。
次の瞬間、からん、と鈴の音が床下で鳴った。
「ちっ……!」
綾人が舌打ちする。
「呼び寄せたか」
「ここでか」
「床下に積もった返りの残滓だ。返し守に触れたせいで起きた」
白い袖のようなものが、闇の中でゆらりと揺れる。
その向こうから、女とも男ともつかない声が、湿ったように漏れた。
「まだ」
低く、かすれた声。
「返したくないのに」
冬真の背筋に冷たいものが走る。
仮殿で聞いた怪異の声とは少し違う。もっと弱く、もっと古い。
けれど同じ場所――“返されてきたものの残り”から立ち上がる声だと直感でわかった。
「下がれ」
綾人が言う。
「狭い」
冬真が吐き捨てる。
「下がれるか」
白い影が一歩分、近づく。
土の上を滑るような動きだった。
顔は見えない。あるいは、見えない方がましなのかもしれない。
「返して」
声が言う。
「返して、返して、返して」
それはもう、言葉ではなく音の重なりだった。
床下の空気が一気に重くなる。
「札!」
綾人が叫ぶ。
冬真は右手で札を引き抜き、狭い空間の中で無理やり白い影へ叩きつけた。
「断て!」
赤い光が走る。
狭い床下で閃きが弾け、影が半身ほど焼ける。
だが完全には散らない。
むしろ焼けた向こうから、さらに細い手のようなものが伸びた。
「くそ……!」
冬真は返し守の包みを脇へ押し込み、左肩を庇いながら身を捻る。
狭いせいで避けきれない。
影の指先がかすめた瞬間、包帯の下の痣が一気に熱を持った。
「っ……!」
声が漏れる。
綾人がすぐに新しい札を差し込む。
「床を抜け! ここで相手をするな!」
その言葉で、冬真は一瞬だけ迷った。
狭い床下で札を重ねれば崩落の危険がある。
だが退かなければ返し守が持っていかれる。
「冬真!」
綾人の声が鋭くなる。
次の瞬間、床下の闇の奥から、別の声が重なった。
「――冬真」
千歳の声に聞こえた。
冬真の心臓が跳ねる。
ありえない。ここにいるはずがない。
だからこそ、怪異の誘いだとわかる。
わかるのに、一瞬だけ反応しかけたその隙を、白い手が狙った。
「しまっ――」
指先が冬真の喉元へ伸びる。
その寸前で、綾人の札が影の手首を焼き切った。
「見るな!」
綾人の怒声。
冬真は歯を食いしばり、右手で返し守を掴む。
「行くぞ!」
二人はほとんど転がり出るように床下から這い出た。
綾人が板を蹴り閉め、上から札を四枚連続で叩きつける。
「封じろ!」
白い光。
板の継ぎ目が一瞬だけ大きく震え、それから静まった。
床下の鈴の音も、そこでようやく途切れる。
冬真は石敷きに片膝をついたまま、荒く息を吐いた。
左腕が熱い。喉も焼けるように痛む。
今の一瞬、確かに誘われた。
千歳の声に。
「……最悪だな」
掠れた声で吐き出す。
「そうだな」
綾人も息を整えながら答える。
「だが返し守は取った」
冬真が右手を見る。
土にまみれた小さな包みが、まだしっかり握られていた。
「傷んでる」
「それでも使うしかない」
「本当に綱渡りだ」
「知っている」
短い沈黙。
冬真はそこで、ふと顔を上げる。
「千歳」
今、床下で聞いた声が耳の奥に残っていた。
「仮殿」
綾人もすぐに理解したらしい。
「急ぐぞ」
◆
その頃、仮殿では、千歳が札を握りしめていた。
最初は、ほんのかすかな鈴の音だった。
風もないのに、板壁の向こうでからん、と一度鳴る。
それだけなら、聞き流せたかもしれない。
でも今は違う。
冬真と綾人が本殿の床下へ入ったことを知っている。
返し守を探していることも。
だから、この音がただの偶然でないことくらい、すぐにわかった。
からん。
からん。
今度は二度。
千歳は囲炉裏のそばに座ったまま、深く息を整える。
呼び声はまだない。
でも近い。
手の中の札を強く握る。
冬真が渡してくれたもの。
持ってろ、と言った声。
なくすな、と言った不器用な言い方。
「……行かない」
小さく言う。
自分に言い聞かせるように。
そのとき、不意に板壁の向こうから、低い擦過音がした。
まるで爪で板を撫でるような、嫌な音。
千歳の肩が強張る。
でも立ち上がらない。
戸へ近づかない。
それが、今の自分にできる抵抗だ。
「千歳」
声がした。
冬真の声だった。
心臓が大きく跳ねる。
でも千歳は動かなかった。
違う。
ここにいるはずがない。
今、あの人は本殿の床下にいる。
「千歳」
もう一度。
今度は少しだけ掠れていて、本物に似ていた。
だからこそ、怖い。
似ているから引っ張られる。
でも、前の自分とは違う。
「……応じない」
千歳は息を詰めながら言う。
「来ない」
板壁の向こうで、何かがゆっくりと這う音がする。
それから、湿った声が嗤った。
「賢くなったのね」
声が変わる。
仮殿の夜に聞いた、あの優しいふりをした怪異の声だ。
「でも」
湿った声が続ける。
「向こうは、今も削れているわよ」
千歳の指先が冷たくなる。
返事をしてはいけない。
でも、言葉は勝手に胸へ刺さる。
「昔から、ずっと」
声はやわらかい。
「お前の代わりに引いてきたのに」
千歳の呼吸が止まる。
「どこまで壊れたら、あの子は終わるのかしら」
知っているのだ。
向こうも。
冬真がどれだけ自分を削ってきたかを。
「黙って」
思わず、千歳は言ってしまう。
しまった、と思う。
返事ではない。でも反応してしまった。
声が嬉しそうに揺れる。
「知りたい?」
「……」
「じゃあ来なさい」
今度ははっきり甘い。
「床の下。社の下。あの子が何をしてきたか、全部見せてあげる」
千歳の背筋を冷たいものが這う。
行かない。
でも、知りたい。
その二つが胸の中でひどくぶつかる。
その瞬間、手の中の札が熱を持った。
「っ」
びくりと肩が跳ねる。
札の文字が淡く赤く光る。
次の瞬間、仮殿の戸が外から強く開いた。
「千歳!」
今度こそ本物の冬真の声だった。
千歳が顔を上げる。
戸口に立つ冬真は息を切らし、その後ろに綾人が続いていた。二人とも雪と土にまみれている。
「……っ」
そこで初めて、千歳の身体から力が少し抜ける。
来た。
本物が来た。
それだけで、張りつめていたものが少しだけ揺らぐ。
だが冬真の顔を見ると、すぐにその安堵は別の不安へ変わった。
顔色が悪い。左腕だけではない。喉元にも、薄い黒ずみが浮いている。
「何があった」
冬真が部屋へ踏み込みながら問う。
「呼ばれた」
千歳は答える。
「でも、行ってない」
「声は」
「最初、冬真の声だった」
それを聞いた瞬間、冬真の表情が強張る。
「やっぱりか」
綾人が低く言う。
「床下の残滓と繋がったな」
千歳はその言葉の意味を飲み込むより先に、冬真の喉元の黒ずみを見てしまう。
「それ……何」
冬真は反射で首元を隠すように手をやった。
遅い。
もう見えている。
「……大したことじゃない」
「嘘」
千歳は即答した。
「またそれ言う」
冬真が目を逸らしかけて、でも逸らせなかった。
綾人が代わりに低く言う。
「床下で返りの残滓に触れた」
千歳の呼吸が止まる。
「返し守は取った」
「じゃあ成功?」
「半分」
綾人は答える。
「返し守はある。だが、あれ自体も傷んでいる」
「……」
「そして、残滓が冬真の方へ反応した」
千歳の視線が冬真へ戻る。
やはりそうだ。
昔から引いてきたから。
床下の“返されてきたもの”にも、この人は反応してしまう。
「大丈夫」
冬真が言いかける。
「それ禁止」
千歳が遮る。
ほんの一瞬、部屋が静まった。
冬真は少しだけ目を見開き、それから困ったように眉を寄せる。
「……厄介だな」
「知ってる」
千歳は言い返す。
「でも、だからもうごまかさないで」
その言葉に、冬真は返事をしなかった。
綾人が手にした包みをそっと卓へ置く。
土にまみれた小さな返し守。
これで手札は揃った。
でも同時に、残された時間も、残せるものも、ますます少なくなっていく。




