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冬の底で君を呼ぶ  作者: 最後に残った形


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第2章 第16話:日暮れまでの仮殿


 仮殿へ戻る道は、朝よりずっと短く感じられた。


 日暮れまで。

 その言葉が決まった瞬間から、時間はゆっくりではなく、むしろ早くなった気がする。雪道を踏むたび、白い地面の上に残る足跡がそのまま残り時間を削っていくみたいだった。


 千歳は外套の合わせ目を指で押さえながら歩く。

 前を行く綾人はもう、頭の中で必要な手順を組み替えているのだろう。ほとんど振り返らない。

 冬真だけが、少し前を歩いたかと思えば、ときどき歩幅を緩めて千歳の位置を確かめる。


 その癖が、今は少しだけ痛かった。

 昔からそうだったのだと思ってしまうからだ。

 意識していなかった頃から、たぶんこの人はこうやって自分の歩幅を見ていた。


「……何だよ」

 不意に冬真が言う。


 千歳ははっとする。

「何が」

「さっきから、変な顔で見てる」


 思わず少しだけ笑いそうになる。

「変な顔ってひどい」

「事実だ」

「最近それ多いね」

「お前もだろ」


 短い応酬。

 それだけで、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。

 でも、すぐにまた胸の奥は重くなる。

 日暮れまでに返し守を見つける。

 分散結界を組む。

 写名の椀と合わせて、本当に受け皿以外の道を作る。

 どれも、少しでも噛み合わなければ終わる。


 仮殿が見えたとき、千歳は無意識に少しだけ息を止めた。

 第1章のあの夜、怪異に追われて逃げ込んだ場所。

 今は逃げ込むためではなく、戦う準備のために戻ってきた。

 それだけの違いなのに、仮殿の見え方はまるで別だった。


     ◆


 中へ入ると、綾人はすぐに動いた。


 札を新しく貼り直し、床の灰を一度払って、別の陣を引き始める。

 今朝の紙の上にあった構想を、そのまま現物に起こしていくみたいだった。


「千歳」

 綾人が低く呼ぶ。

「そこの卓を寄せろ」

「うん」

 千歳はすぐに動く。


 冬真が何か言いかけたが、やめた。

 危ないから触るな、と言いそうになって、でも今はそれを言う段階ではないと思い直した顔だった。


 仮殿の中央には、三重の円が作られていく。

 外側が分散結界。

 内側が写名の椀と返し守を置く封。

 そして中心に、最後に供物の証を置く場所。


 千歳は卓を動かしながら、その配置を目で追った。


「返し守が見つかれば」

 千歳が言う。

「椀のひび、保つかもしれないんだよね」


「かもしれない、な」

 綾人は答える。

「ひびが入ったのは、名だけでなく返りの一部まで引いたからだ」

「それを返し守で逃がす」

「そうだ」

 綾人は札を並べながら続ける。

「ただし返し守自体が古い。今も機能する保証はない」

 千歳は小さく唇を噛む。

 やはりそこだ。

 いつも、保証はない。


「……本当に綱渡りだね」

 思わずそう漏らすと、冬真が壁際から低く言った。

「今さらだろ」

「そうだけど」

「だから落ちるな」

「脅し?」

「念押しだ」

 その言い方が少しだけいつもに近くて、千歳は小さく息を吐いた。


 綾人は作業の手を止めずに言う。

「返し守は、今日の正午を過ぎる前に取ってくる」

「本殿の床下」

 千歳が確認すると、綾人は頷いた。

「ああ」

「誰が行くの」

「私と冬真だ」

 その答えに、千歳はすぐに顔を上げた。


「わたしは?」

「残る」

 冬真が即答する。

「どうして」

「仮殿の結界の芯は、お前がいた方が安定する」

「でも、それだけ?」

「それだけで十分だ」


 千歳は眉を寄せる。

「またそうやって」

「また何だ」

「危ないところは外す」

 冬真は視線を逸らさずに返した。

「危ないからな」

「知ってる」

「なら」

「でも」

 千歳は言葉を探す。

「残るなら残るで、ちゃんと意味が知りたい」

 その言い方に、冬真の表情が少しだけ止まる。


 綾人が代わりに口を開いた。

「仮殿に誰もいなければ、ここを結界の受け場に使えなくなる」

 千歳がそちらを見る。

「お前の気配が、今は必要だ」

「……」

「供物の証を最後に壊すなら、その前段階で“供物がここにいる”という形を保つ方が、返りの向きを読みやすい」

 千歳は小さく息を呑む。

 なるほどと思う。

 同時に、自分がただ守られて残されるのではなく、ちゃんと手順の一部として置かれるのだとわかる。

 それは少しだけ、救いだった。


「わかった」

 千歳は頷く。

「じゃあ残る」


 冬真がわずかに肩の力を抜く。

 それを見てしまうと、やはりこの人は千歳が本殿の床下へ行くことを本気で嫌がっていたのだとわかる。

 怒る気にはなれなかった。

 それくらいは、もうわかるからだ。


     ◆


 仮殿の準備が一段落すると、短い沈黙が落ちた。


 綾人は札の枚数を数え、必要なものを脇へ寄せている。

 冬真は戸口に近い柱へ背を預けたまま、じっと床の陣を見ていた。


 千歳はその横顔を見る。

 昨夜から今朝にかけて話したことが、まだ胸の奥に残っている。


 子どもの頃からだった。

 神社の裏で、自分の代わりに引いた。

 少しずつ、ずっと。


 そこまでしかまだ聞いていない。

 でも、その“少しずつ”がどれだけ長く、どれだけ深かったのかを考え始めると、息が詰まる。


「……冬真」

 静かに呼ぶ。


「何だ」

「さっきの話」

 冬真の目がわずかに細くなる。

「どれだよ」

「子どもの頃からってやつ」

 千歳は一拍置いて続ける。

「わたし、まだちゃんと実感できてない」


 冬真は返事をしなかった。

 だから千歳は、そのまま言葉を足す。


「でも」

 自分の指先を見つめながら。

「今ここで、こうやって仮殿の準備をしてるのも」

「……」

「返し守とか、写名の椀とか、そういう話が出てるのも」

「……」

「全部、あなたが昔から引き延ばしてきた時間の上にあるんだよね」


 冬真が小さく息を止めたのがわかった。

 否定しない。

 否定できないのだろう。


「……千歳」

 低い声。


「何」

「今はあんまり考えるな」

 それはいつもの逃がし方にも聞こえる。

 でも今日は、それだけではない気もした。

 本当に今それを掘れば、千歳の方が保たないと思っているのかもしれない。


「考えるよ」

 千歳は静かに返す。

「だって、知らなかった時間が長すぎる」

 一歩だけ近づきかけて、思いとどまる。

 その動きを冬真が見たのがわかる。

「でも」

 千歳は続ける。

「今は全部聞かない」

 冬真の目が少しだけ動く。

「……どうして」

「日暮れまでの方が先だから」

 答えると、冬真はほんの少しだけ眉を下げた。

 困ったような、でも救われたような、曖昧な顔だった。


「成長したな」

 低く言う。


「何それ」

「前なら今ここで全部聞くって言ってただろ」

「今も聞きたいよ」

 千歳は少しだけ笑う。

「でも、それで今日が崩れるのはもっと嫌」

 冬真は何も言わなかった。

 ただ、ほんの少しだけ口元が緩んだ気がした。


 綾人がその空気を切るように言う。

「感傷はそこまでだ」

 二人が同時にそちらを見る。

「そろそろ行く」

 綾人は札束と手燭を取る。

「返し守があるとすれば、本殿の床下だ。時間を食う」

「わかった」

 冬真が答える。


 千歳の胸が少しだけ強く鳴る。

 本殿の床下。

 今までよりさらに危険な場所だ。

 何も言わずにはいられなかった。


「冬真」

 呼ぶと、彼が振り返る。

「何だ」

「……無茶しないで」

 冬真は一瞬だけ黙った。

「難しいこと言うな」

「難しいのは知ってる」

 一拍置く。

「でも、しないでほしい」


 その言葉に、冬真は何か返そうとして、少しだけ言葉を探した。

 やがて低く言う。


「できるだけ、しない」

 綺麗な約束ではない。

 でも今の彼には、それが限界なのだろう。


「微妙」

 思わず言うと、冬真は少しだけ呆れたように息を吐く。

「お前な」

「でも、前よりはまし」

「そうかよ」

「うん」


 そのやり取りが、妙に胸に残る。

 完全ではない。

 でも、ここまで来るのにも時間がかかった。


「千歳」

 今度は冬真が呼ぶ。

「何」

「何かあったら、すぐ綾人を呼ぶとか思うな」

「え?」

「近くにいないときでも、まず仮殿の札を使え」

 そう言って、懐から小さく折った札を一枚取り出す。

「これ」

 千歳は目を瞬く。

「持ってろ」

「……いいの?」

「よくない」

 冬真は即答した。

「でも、持ってない方がもっとよくない」

 その言い方が、いかにも冬真らしい。


 千歳は札を受け取る。

 紙は冷たいのに、どこか体温みたいなものが残っている気がした。


「ありがと」

 小さく言うと、冬真は視線を逸らした。

「なくすなよ」

「なくさない」

「本当に?」

「本当に」


 そのあと、綾人と冬真は仮殿を出ていった。


     ◆


 戸が閉まると、仮殿の中は急に広くなった気がした。


 千歳はしばらくその場に立ち尽くし、それから手の中の札を見下ろす。

 小さな紙一枚。

 なのに、それを持っているだけで、ほんの少しだけ心の置き場ができるのが不思議だった。


 炉の火は弱い。

 外では風もないのに、板壁の向こうで何かがじっと耳を澄ませているような感じがする。


 千歳はゆっくり座り、綾人が描いた陣の線をもう一度目で追った。

 鏡の器。

 誓詞。

 供物の証。

 返し守。

 写名の椀。

 分散結界。


 残された手順は、少しずつ具体になっている。

 でも同時に、残らないかもしれないものも増えている。

 記憶。

 名前。

 冬真の、何か。


「……絶対に」


 小さく呟く。

 供物になるのも嫌だ。

 冬真が器の代わりになるのも嫌だ。

 その両方を嫌だと言い続けることが、今の自分にできるせめてもの抵抗なのかもしれない。


 そのとき、仮殿の板壁の向こうで、かすかに音がした。


 からん。


 千歳の肩が跳ねる。

 鈴の音。

 昼間には聞こえなかったはずの、あの音だ。


 けれど今日は、呼び声は続かない。

 千歳は手の中の札を強く握り、息を整える。

 応じない。

 呼ばれても行かない。

 そして、ただ待つだけでもいない。

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