第2章 第15話:前清めの朝
座敷へ戻るころには、空気そのものが張りつめていた。
朝の光はもう十分に回っているはずなのに、千歳の家の中だけは夜の名残を引きずっているみたいだった。廊下の札、井戸の灰、奥座敷へ重ねられた封。
それらは全部、これから起きることを遅らせるためのものだ。
終わらせるためではなく。
綾人が座敷の中央へ広げた紙の上に、新しく線を書き足す。
「時間がない。繰り返すぞ」
冬真は壁際に立ったまま、腕を組んでいる。顔色は相変わらず悪い。けれど今は、誤魔化す余裕もないらしかった。
千歳はその向かいへ正座し、視線を紙へ落とす。
「鏡の器を最初に砕く」
綾人が言う。
「ここで第一の結びを断つ」
指先が紙の左端を叩く。
「次に誓詞を焼く。言葉の契約を切る」
中央へ移る。
「最後に供物の証――白椿の木札を壊す」
千歳の指先が少しだけ強張る。
白椿。
自分の家に昔からあった花の印が、こういう形で名前ごと繋がれていたのだと思うと、今もまだ気持ちが悪い。
「で」
冬真が低く言う。
「返りはどう流す」
綾人は一拍だけ黙り、それから新しい札を三枚、紙の脇へ並べた。
「第一段階、鏡の器の返りは祓殿へ留める」
「第二段階」
千歳が問う。
「誓詞の返りは本殿の結界へ流す」
綾人が答える。
「第三段階――供物の証を壊した瞬間に出る返りを」
そこで少しだけ言葉が重くなる。
「分散結界と写名の椀で受け、なお余る分を山へ返す」
千歳は唇を噛んだ。
“なお余る分”。
その曖昧な言い方の中に、まだ埋まっていない穴があるのがわかる。
「余ったら」
静かに口を開く。
「どうなるの」
冬真が視線だけをこちらへ向ける。
綾人は逸らさない。
「今ある見立てだと」
綾人が低く言う。
「写名の椀が証の名を十分に受け、分散結界が保てば、人へ直に流れる量はかなり減らせる」
「かなり、か」
冬真が吐く。
「ゼロにはならない」
「可能性は低くなる」
「ゼロじゃないなら同じだ」
冬真の声が少しだけ荒くなる。
千歳はそれを聞きながら、胸の奥がざわつくのを感じた。
同じじゃない。
でも、そう言いたくなる気持ちもわかってしまう。
「ゼロにはできない」
綾人ははっきり言った。
「今の手札ではな」
「……じゃあ」
千歳がゆっくり言う。
「やっぱり、最後の最後は誰かが受ける可能性があるんだね」
沈黙。
綾人はすぐには答えなかった。
その代わり、冬真が低く言う。
「可能性はある」
千歳は顔を上げる。
冬真は紙を見たまま続けた。
「でも、最初からそこを前提にはしない」
一拍置く。
「昨日までみたいに、最初からその話に飛ぶのはやめる」
その言葉に、千歳の胸がわずかに痛む。
昨日、自分が何を言ったかを、ちゃんと覚えているのだ。
勝手に差し出さないで。
一人で決めないで。
それを、今ここで言い換えてくれている。
「……うん」
小さく頷く。
綾人が紙の端へ別の印を書き足した。
「分散結界の補助に、もう一つ封具が要る」
冬真が眉を寄せる。
「まだ増えるのか」
「写名の椀だけではひびが入った」
「知ってる」
「だから外側から支える“返し守”を使う」
千歳が息を呑む。
「文書庫にあった名前」
「ああ」
綾人は頷く。
「本来は村へ返る厄を、一時的に外へ逃がすための守だ」
「あるの?」
千歳が問う。
綾人は少しだけ口を引き結んだ。
「記録上はある」
冬真が小さく舌打ちしそうな顔をする。
「またそれか」
「だが今回は、所在に目星もある」
「どこ」
千歳が聞く。
「本殿の床下だ」
綾人の声が低く落ちる。
「古い祭具を沈めた隙間がある。返し守はそこへ納める習わしだったらしい」
冬真が即座に言う。
「本殿の床下に今から入るのか」
「必要なら」
「必要だろ」
「そうだ」
座敷にまた沈黙が落ちる。
本殿の床下。
それはつまり、これまでよりさらに核に近い場所だ。
村の契約と、社の奥のものと、長年の穢れが絡み合って沈んでいる場所かもしれない。
「……危ない」
千歳が呟く。
「危ない」
綾人はそのまま認めた。
「だがここで返し守が見つかれば、写名の椀の負担はかなり減る」
「見つからなかったら」
冬真が問う。
「そのときは」
綾人は紙から顔を上げ、二人を順に見た。
「分散結界を増やす。ただし成功率は下がる」
「……」
「それでもやるしかない」
千歳は膝の上で手を握る。
どれを取っても危ない。
でも、危ないからといって止まれる段階でもない。
そのとき、表の方で人の気配がした。
四人、いや五人。
雪を踏む音が門の外で止まる。
座敷の空気が一瞬で変わる。
志乃の足音が廊下を急ぐ。
次いで、遠慮を装った年寄りの声がした。
「ごめんください。村長さまがお見えです」
千歳の背筋を冷たいものが走る。
前清めだ。
「早いな」
冬真が吐き捨てるように言う。
綾人は短く答えた。
「予想どおりだ」
障子の向こうで、志乃が応対する声が聞こえる。
うろたえてはいない。けれど、押し返しきれない弱さも混じっている。
千歳はそれを聞きながら、胸の奥に怒りと恐怖が混ざるのを感じた。
「千歳」
冬真が低く呼ぶ。
視線を向けると、冬真はまっすぐこちらを見ていた。
「嫌なら、ちゃんと言え」
その一言に、呼吸が少しだけ落ち着く。
「うん」
千歳は頷く。
「言う」
綾人が立ち上がる。
「私は前へ出る。冬真、お前も来い」
「千歳は?」
「ここにいろ」
冬真が即座に言う。
けれど千歳は首を振った。
「いや」
二人の視線が向く。
「わたしのことなら、わたしも出る」
「危ない」
「知ってる」
千歳は言い切る。
「でも、ここで隠れてる方が嫌」
冬真の眉が深く寄る。
止めたいのだろう。わかる。
でも今は、もう前みたいに黙って後ろへ引っ込むだけではいられなかった。
「……絶対、一人で何か言うな」
冬真が低く言う。
「綾人か俺が止める」
「うん」
「本当に?」
「本当に」
そこまで言ってから、千歳はふと気づく。
これも少し前なら、ただ“守られる側”に向けられる言葉だと感じていたかもしれない。
今は違う。
これは一緒に前へ出る前提の制止だ。
それだけで、少しだけ違う。
◆
座敷へ通された村長たちは、やはり“穏やかな顔”をしていた。
村長と、老神職と、世話役の女が二人。
昨日より数が多い。
それだけ本気なのだろう。
「千歳さん」
村長が柔らかい声で言う。
「体調はどうかな」
「……普通です」
千歳は答える。
「それはよかった」
村長は頷き、それから周囲を見た。
「綾人さまも冬真くんもお揃いで、ちょうどよかった」
ちょうどよかった。
何がだ、と冬真が言いそうになる気配が横から伝わる。
老神職が咳払いをひとつしてから口を開いた。
「明日、前清めを行う」
部屋の空気が一段冷える。
「正式な返納はその翌日。予定どおりだ」
千歳の膝の上で、指先が白くなる。
予定どおり。
まるで、本人の意思など最初から計算に入っていない言い方だった。
「嫌です」
千歳は、もう迷わず言った。
村長の目がわずかに細くなる。
だが驚いた顔はしない。昨日の時点で予想していたのだろう。
「怖いのはわかる」
村長が穏やかに言う。
「だが、これは村のためであり――」
「わたしのためじゃない」
千歳は遮った。
志乃が小さく息を呑む。
冬真の気配が、わずかに近くなる。
「村のためって言葉で」
千歳は続ける。
「わたしの嫌だを消さないでください」
老神職の眉がぴくりと動く。
「供物たる者が、己の感情を優先するな」
冷たい声だった。
その一言に、冬真がはっきりと顔を上げる。
「黙れ」
低い声。
部屋の空気がぴりつく。
「本人が嫌だって言ってる」
冬真は続ける。
「それを押し潰して“供物たる者”とか、ふざけるな」
村長が冬真を見た。
「君は感情的すぎる」
「感情で結構だ」
「村全体の安寧がかかっている」
「だからってこいつ一人を勝手に決めていい理由にはならない」
千歳はその背中を見る。
やはり、この人はそこだけは迷わない。
それが救いで、同時に怖くもある。
その迷わなさが、最後にはまた自分ごと差し出す方へ向かいかねないからだ。
綾人がそこで、意外にも村長たちへ向き直った。
「少なくとも、今すぐ前清めに入るのは得策ではない」
村長の目が細くなる。
「どういうことだ」
「供物の周辺が不安定すぎる」
綾人は淡々と言う。
「昨夜からの結界の反応を見れば、今強引に動かした場合、返りが村へ散る可能性が高い」
老神職が顔色を変える。
「そんな話は聞いておらん」
「聞かせていないからな」
綾人は平然と返す。
「前清めを急ぐなら、まず社の側の封を整える必要がある」
村長が眉を寄せる。
「それにどれだけかかる」
「今日いっぱい」
冬真がわずかに綾人を見る。
わざとだ。
時間を稼いでいる。
千歳にもわかった。
「一日で足りるのか」
村長が問う。
「足りるようにする」
綾人は言い切る。
「今ここで供物を動かせば、かえって村全体を危うくする」
その言葉は、村人たちには何より効いたらしい。
老神職の顔に迷いが出る。
村長も、すぐには押し切れない。
やがて、長い沈黙のあと、村長が低く言った。
「では、今日の日暮れまでだ」
千歳の呼吸が少し止まる。
「日暮れまでに社の側を整えよ」
「……」
「整わぬなら、明朝の前清めは予定どおり行う」
あまりにも短い猶予だった。
けれど、ないよりはずっとましだ。
今日の日暮れまで。
それが本当の期限になる。
村長たちはそれ以上長くは留まらず、やがて帰っていった。
戸が閉まる。
足音が遠ざかる。
座敷に、重い沈黙が落ちた。
「ひどい」
最初に声を出したのは千歳だった。
震えていた。でも泣いてはいない。
「ほんとに、わたしのこと、物みたいに」
志乃が俯く。
冬真が一歩近づく。
だが今は、それより先に綾人が低く言った。
「時間ができた」
千歳が顔を上げる。
「今日の日暮れまで」
綾人は紙を取り上げる。
「それまでに返し守を見つけ、分散結界を組み、椀と合わせる」
「間に合う?」
志乃がかすれた声で問う。
「間に合わせる」
綾人の返答は短かった。
冬真が低く吐く。
「やるしかないな」
「当然だ」
綾人は頷く。
「千歳」
「はい」
「お前はこれから仮殿へ移す」
その一言に、千歳は目を見開く。
「また?」
「前清めを防ぐためにも、社預かりの形を強める」
綾人は続ける。
「村長たちが勝手に手を出しにくくなる」
冬真が補うように言う。
「家より仮殿の方が、今は守りやすい」
千歳は少しだけ唇を噛んだ。
また、仮殿。
怖い場所だ。
でも、逃げる場所でもあった。
「……わかった」
小さく頷く。




