第2章 第14話:明日までに言わなければならないこと
朝は、夜より冷たかった。
千歳はほとんど眠れないまま、薄明るい部屋で目を開けた。
障子の向こうはまだ灰色で、雪に反射した朝の気配だけが静かに沁みてくる。胸の奥にある重さは、眠ったところで軽くならなかった。
明日。
その言葉が、昨夜からずっと胸の内側で鳴っている。
儀の前清めが入るかもしれない日。
手順を決めなければならない日。
そして、冬真が「話す」と約束したことを、もう避けられない日。
布団の上で膝を抱えそうになって、途中でやめる。
子どもみたいだと思ったのではない。
今その姿勢を取ったら、本当に弱くなってしまいそうだった。
昨夜の断片を思い出す。
雪の日。
幼い自分。
神社の裏。
冬真の腕に絡みつく赤黒いもの。
はっきりしないのに、そこだけは鮮明だった。
あれが始まりではなかったとしても、少なくとも“昔から”続いていた証拠にはなる。
昨日までの自分は、まだどこかで思っていた。
冬真が自分のために傷ついてきたのは、最近の異変が激しくなってからかもしれないと。
でももう違う。
もっと前からだ。
もっと長い。
「……どこまでなの」
小さく呟いても、答える声はない。
だからこそ、今日聞かなければならなかった。
戸の向こうで、足音が止まる。
「千歳」
志乃の声だった。
「起きてる?」
「うん」
襖が開く。
志乃は盆に湯呑みを乗せて入ってきて、娘の顔を見るなり少しだけ眉を下げた。
「やっぱり眠れなかったのね」
「……少しは」
「嘘」
静かな言い方でそう返されて、千歳は少しだけ肩の力を抜いた。
「うん。あんまり」
志乃は湯呑みを机へ置き、その向かいへ座る。
湯気が細く揺れる。その温かさを見ているだけで、張り詰めていたものが少しだけほどけそうになる。
「今日」
志乃が低く言った。
「村長たちが来る前に、また集まるのよね」
「うん」
「冬真くんも?」
「たぶん」
千歳はそう答えてから、自分でもその言い方に苦くなる。
たぶん、ではない。来る。
あの人はたぶん、逃げきれない。
でも、そう思いながらもどこかで“またいなくなっていたらどうしよう”という不安が消えないのだ。
「怖い?」
志乃の問いに、千歳は少しだけ目を伏せた。
「……怖い」
「何が」
「全部」
そう答えてから、小さく息を吐く。
「儀のことも。今日決めることも。冬真が何を話すのかも」
一拍置く。
「話さないかもしれないって思う自分も嫌」
志乃はすぐには何も言わなかった。
やがて、静かに頷く。
「怖いのに待つのって、つらいわよね」
「うん」
「でも」
志乃は千歳をまっすぐ見た。
「あなたはもう、何も知らないまま待っているだけじゃないでしょう」
千歳は少しだけ息を止める。
「たぶん、それが昨日までとの違いよ」
その言葉は、やわらかくて、でも芯があった。
そうだ。
ただ受け身で震えているだけではない。
文書庫へ行って、仮殿へ行って、椀も見た。
止めたいから止める、だけではなく、どう壊すかの話にも立っている。
それでもまだ怖いものは怖い。
でも、昨日までの自分よりは、少しだけ前にいる。
「……うん」
千歳は小さく頷いた。
◆
冬真は、約束の時間より少し早く来た。
門柱の札の向こうにその姿が見えた瞬間、千歳の胸の奥に溜まっていたものが少しだけほどける。
来た。
少なくとも今朝はいなくなっていない。
そのことだけで救われる自分が、少し嫌で、少し安心した。
表へ出ると、冬真は門の前で立ち止まっていた。
顔色は相変わらず悪い。けれど昨夜よりはましに見せようとしているのがわかる。
そういうところまで見えてしまう。
「おはよう」
千歳が言う。
「ああ」
短い返事。
でも視線は逸らさない。
「来ると思ってた」
「またそれか」
「本当だから」
「便利な言葉だな」
「そっちほどじゃない」
その短いやり取りだけで、少しだけ呼吸が楽になる。
だがその空気も長くは続かなかった。
千歳は、今朝の自分が何を一番聞きたいのか、もうわかっている。
「ねえ」
冬真が顔を向ける。
「何だ」
「今、少しだけ時間ある?」
その問いに、冬真は一瞬だけ黙った。
察したのだろう。
綾人が来る前に、何かを聞きたいのだと。
「少しだけなら」
低く答える。
千歳は頷き、そのまま家の裏手へ回った。
雪の残る庭。井戸の周囲には今も灰が撒かれ、札が打たれている。昨日までなら、その景色だけで胸が重くなった。
今は、それだけではない。
ここは、幼い頃の記憶の断片とも繋がる場所なのかもしれない。
柿の木の下で足を止める。
冬真も数歩遅れて立ち止まった。
「何だよ」
先に口を開いたのは冬真だった。
千歳は少しだけ息を吸う。
「約束」
「……」
「昨日、“明日話す”って言った」
冬真の表情が、ほんのわずかに強張る。
逃げたいのだろう。たぶん本音では。
でも、もう完全に背を向けることはできない。
そのこともまた、二人とも知っている。
「全部じゃなくていい」
千歳は静かに言う。
「でも、昨日の記憶のこと」
一拍置く。
「昔からだったのかだけ、ちゃんと聞きたい」
冬真は長く黙った。
その沈黙が、冬の空気よりも冷たく感じる。
「……ああ」
やがて、ひどく低い声が落ちる。
千歳の胸が強く鳴る。
否定じゃない。
最初からわかっていたのに、実際に認められると、足元が少しだけ揺らぐ。
「いつから」
問う声が掠れる。
冬真はすぐには答えなかった。
視線は千歳に向いているのに、そこよりもっと遠いものを見ている目だった。
「正確には覚えてない」
やっと出た言葉。
「でも、お前が呼ばれ始めたのは、たぶん子どもの頃からだ」
「呼ばれ始めた」
千歳は繰り返す。
「じゃあ、ずっと」
「……ずっと、少しずつだ」
その“少しずつ”が、どれほど長い時間を意味しているのか。
千歳は想像しようとして、やめる。
今全部を想像したら、たぶん立っていられない。
「昨日見たのは」
喉が少し震える。
「何だったの」
冬真は目を伏せる。
柿の木の枝先で、雪が小さく落ちた。
「神社の裏で」
冬真は低く言う。
「お前が呼ばれた」
千歳の息が止まる。
「俺が、代わりに引いた」
その一文は短い。
短いのに、千歳の胸へまっすぐ突き刺さる。
代わりに引いた。
それがどれだけ大きなことか、今はもう説明されなくても少しわかる。
わかるからこそ、喉の奥が熱くなる。
「……どうして」
口をついて出た問いは、たぶんあまりにも当たり前のものだった。
「どうして、そんなの」
冬真は少しだけ顔を上げる。
その目にあるのは、困ったような、呆れたような、でもどこか諦めきった色だった。
「どうしても何も」
一拍置く。
「目の前で、お前が持っていかれる方が嫌だった」
あまりにもまっすぐな答えに、千歳は言葉を失う。
綺麗な告白ではない。
飾った言葉でもない。
でも、それが本音だとわかる。
昔からずっと、この人の行動の芯にあったものなのだと。
「それから」
冬真は続ける。
「たまに、呼びが強くなるたびに逸らしてた」
千歳の指先が冷たくなる。
「たまに、って」
「全部じゃない」
「でも、あった」
「ああ」
千歳は目を閉じたくなった。
昨日までの自分は、知らなかった。
避けられていると思っていた。
嫌われたのかもしれないとすら思っていた。
その裏で、こんなことがあったなんて。
「……何で」
気づけば、もう一度同じ問いを繰り返していた。
「何で言ってくれなかったの」
冬真は、今度はすぐに答えた。
「言ったら、お前が変わるからだ」
千歳の呼吸が止まる。
「変わる」
「お前、自分が我慢すればいいって考えるだろ」
低く、静かな声。
「昔からそういうところある」
痛いほど図星だった。
「だから、最後まで言いたくなかった」
千歳は何も言えなかった。
悔しい。
悲しい。
でも、否定しきれない。
自分はたしかに、“誰かが助かるなら”の方へ寄りやすい。
昨日までの自分は、間違いなくそうだった。
「……でも」
千歳はやっと声を出す。
「それで、わたしが何も知らないまま傷つくのは、いいって思ったの」
冬真が黙る。
「避けられてるって思って」
「……」
「嫌われたのかなって思って」
喉が熱い。
「そっちは平気だったの」
冬真の顔がわずかに歪む。
怪異の痛みではない、別の痛みの顔だった。
「平気じゃない」
掠れた声。
「でも」
そこで言葉が詰まる。
「でも、お前がそっちで傷つく方が、まだましだと思ってた」
千歳は目を見開く。
残酷なくらい正直な答えだった。
平気じゃない。
でも、もっと悪いものから守るために、あえてそこを選んでいた。
ひどい。
でも、ひどいだけで終わらない。
それがわかるから苦しい。
「……最低」
思わず零す。
「知ってる」
冬真が返す。
「でも、たぶん同じことをもう一回やる」
その一言に、千歳の胸がぎゅっと縮む。
「やめて」
思わず言う。
「そういうの、ほんとにやめて」
冬真は何も言わない。
それが答えになってしまっている。
「だって」
千歳は続ける。
「今みたいに聞かされたら、もう前みたいに何も知らないふりして待てない」
一歩だけ近づく。
「それでもまだ、一人でやるつもりなの?」
冬真は視線を逸らさなかった。
その目の奥に、ひどく強いものがある。
何年も変わっていない意地みたいなものが。
「……一人で全部はやらない」
やがて言う。
千歳は少しだけ息を止める。
それは大きな譲歩だった。
「全部は、って何」
「そこに食いつくな」
「食いつくよ」
返すと、冬真は少しだけ困ったように眉を寄せた。
その顔が妙に近く感じて、千歳の胸がまた痛む。
「少なくとも」
冬真は低く続ける。
「今日の手順は、お前と綾人も入れて決める」
千歳は黙って聞いている。
「それで、最後まで他の道がないなら」
そこで言葉が一度切れた。
「そのときは、ちゃんと話す」
千歳はゆっくり呼吸をする。
完全ではない。
でも、これ以上を今ここで求めても、たぶんこの人は閉じる。
「……約束」
千歳が言う。
冬真は少しだけ目を細め、それから低く頷く。
「ああ」
そのとき、庭の向こうで足音がした。
「いると思った」
綾人の声だった。
二人が同時に振り向く。
綾人は外套の裾を払うようにしながら、こちらを見ている。呆れているようでいて、どこか少しだけ安堵している顔だった。
「逃げてはいないようだな」
その一言に、冬真が顔をしかめる。
「お前まで言うな」
「必要だからな」
綾人はそう返し、二人のあいだの空気をひと目で察したらしく、少しだけ目を細めた。
「……どこまで話した」
「昔からだったことまで」
千歳が答える。
綾人は冬真を見る。
「よくやったな」
「褒めるな」
「褒めてはいない」
その短い応酬のあと、綾人は低く告げた。
「村長たちが昼前に動く。前清めの話を正式に持ってくるらしい」
千歳の胸がひやりとする。
「だからその前に決める」
綾人は続ける。
「写名の椀を使うか、他の封具を足すか、どこまで分散結界を組めるか」
「時間、ある?」
千歳が問う。
「ない」
綾人はきっぱり言った。
「だから急ぐ」
その言葉で、空気がまた現実へ戻る。
話すべきことはまだ残っている。
でも、立ち止まっている時間もない。
千歳は一度だけ冬真を見る。
冬真もこちらを見る。
昨日より少し多く知ってしまった。
それでも、まだ全部ではない。
最後の最後で露見する核は、まだ胸の奥に沈んでいる。




