第2章 第13話:残された手順、残らないもの
仮殿を出たあとの夜道は、行きよりも静かだった。
静かすぎて、逆に足音だけがはっきり響く。雪を踏む感触、外套の裾が擦れる音、誰かが小さく息を吐く気配。そういうものばかりが、妙に耳についた。
千歳は冬真の少し後ろを歩いていた。
写名の椀は使える。
ただし、それだけでは足りない。
その結論が、胸の中で冷たい石みたいに沈んでいる。
希望がなかったわけじゃない。むしろ、第2章のここまでで初めて“受け皿以外の道”が形を持ったとも言える。
けれど同時に、まだ条件が足りないのだとはっきりしてしまった。
だから、安心できない。
「……まだ考えてるな」
前を歩く冬真が言った。
千歳は少しだけ目を瞬く。
「わかるの」
「顔見ればな」
「そんなにわかりやすい?」
「お前は昔からそうだ」
その言い方が、少しだけ懐かしい。
でも今は、その“昔から”がただ懐かしいだけでは済まなくなっている。
昨夜見た断片。
幼い頃から冬真が何かを引き受けていたらしい記憶。
それが、やり取りの端々にずっと引っかかる。
「……冬真」
「何だ」
「今夜のこと」
そこで一度、言葉を選ぶ。
「やっぱり、止めに入ったよね」
冬真の肩が、ほんのわずかに強張る。
「もう終わった話だろ」
「終わってない」
千歳は即座に返した。
「わたし、見てたし」
「……」
「また、必要だったって言うの?」
冬真は答えない。
それがもう答えみたいなものだと、千歳にもわかる。
「必要でも」
千歳は低く続ける。
「あなたが勝手に前に出るたび、わたしは後から知るしかない」
その言葉は責めるためというより、本音に近かった。
「それが、嫌」
冬真は長く息を吐いた。
曇った夜気の中に、白い息が消える。
「……知ってる」
掠れた声だった。
知ってる。
その一言だけで、千歳は少しだけ胸が詰まる。
わかっているのにやめられないのだ。この人は。
「じゃあ」
千歳は言う。
「明日は、本当に一人で決めないで」
冬真は歩きながら、ほんの少しだけ視線をこちらへ向けた。
「何回言うんだ」
「大事だから何回でも言う」
「面倒だな」
「知ってる」
そのやり取りの最後、冬真の口元がかすかに緩んだ。
本当に少しだけ。
でも千歳はそれを見逃さなかった。
◆
家へ戻ると、志乃がまだ起きて待っていた。
「遅かったわね」
そう言いながらも、その目は千歳と冬真の顔色を順番に確かめている。
冬真の顔が夜に紛れるほど悪いことにも、千歳の緊張がまだ抜けていないことにも、たぶん気づいているのだろう。
「仮殿の確認」
冬真が短く言う。
「そう」
志乃は深くは聞かなかった。
聞いても全部は返ってこないと、もう知っている顔だった。
「湯、用意してあるわ」
千歳へ向けてそう言って、それから少しだけ間を置く。
「冬真くんも飲んでいきなさい」
「いや」
冬真はすぐに首を振った。
「帰る」
「その顔で?」
今度は千歳が言ってしまう。
冬真が少しだけ眉を寄せる。
「お前まで同じこと言うな」
「だって本当だし」
「……平気だ」
「それが信用ないって何回」
途中まで言いかけて、志乃の前だったと思い出し、少しだけ声を引っ込める。
志乃はそんな二人を見て、困ったように、でも少しだけやわらかく笑った。
「帰るにしても、湯だけ飲んでいきなさい」
そこまで言われると、冬真も強くは断れないらしい。
小さく息を吐いてから頷いた。
囲炉裏のそばに三人で座る。
湯気の立つ湯呑みが手に渡る。
こんなふうに同じ場所で静かに座るだけなのに、少し前までとはまるで違う意味を持ってしまっている。
「明日」
志乃が静かに言った。
「村長たちがまた来るかもしれないわ」
綾人から聞いているのだろう。
「前清めの話も、たぶん」
千歳の指先が湯呑みに強く触れる。
前清め。
それはつまり、もう本格的に“供物として準備する”ということだ。
「……来ると思う」
千歳が答える。
「でも、返事はしない」
志乃が目を上げる。
その視線の先で、冬真がわずかに顔を向けた。
「嫌だって言う」
千歳は続ける。
「ちゃんと」
志乃は何も言わず、ゆっくりと頷いた。
それだけで、少しだけ胸が軽くなる。
母はもう、“仕方ない”の側にだけはいない。
「なら」
冬真が低く言う。
「明日、村長が来る前にもう一回集まる」
千歳が顔を向ける。
「綾人も入れて、手順を決める」
「手順」
「器、誓詞、証をどう切るか」
一拍置く。
「その前に、足りない封具が他にないか、もう一度全部洗う」
その言い方は、今までより少しだけ具体的だった。
千歳は小さく頷く。
「……うん」
「それで」
冬真は湯呑みを置きながら続ける。
「見つからなかったら、そのとき考える」
またそこだ、と思う。
でも今は、それ以上詰めても答えが変わらないこともわかっていた。
「一人で?」
千歳があえて聞く。
冬真は少しだけ顔をしかめる。
「三人で」
「……うん」
その返答に、ほんの少しだけ安堵する。
◆
冬真が帰ったあとも、千歳はしばらく眠れなかった。
布団に入っても、身体の内側だけがまだ仮殿の空気を抱えている気がする。
鈴の音は今夜も聞こえない。
その代わり、妙に静かだ。
嵐の前みたいに。
目を閉じる。
すると、また断片が浮かんだ。
小さい自分の手。
白い椀。
その向こうで、冬真が誰かに何かを言っている。
けれど声は聞こえない。
次の瞬間、その記憶は砂みたいに崩れて消えた。
「……っ」
千歳は目を開ける。
呼吸が少し浅い。
まだ全部は戻らない。
でも確実に、何かが内側で動いている。
それを思うと、怖い。
同時に、明日まで待てる気もしなかった。
冬真が本当に約束どおり話してくれるのか。
話す前に、また一人で何か決めてしまわないか。
自分でも嫌になるくらい、その可能性ばかり考えてしまう。
でも。
疑っているのではない。
怖いのだ。
この人は本当に、自分が消えるような選択肢でも、必要なら受け入れてしまう人だから。
「……明日」
小さく呟く。
返事はない。
でも、明日という言葉だけが、今夜の自分をどうにか明日へ繋いでいた。
◆
一方その頃、冬真は自宅の裏手にいた。
家の中へ入っても寝られないことはわかっていた。
だから外へ出た。冷たい空気の方が、頭の中のざわつきをまだ少しだけ鎮めてくれる。
夜空は曇っている。
星は見えない。
雪を踏む音だけが、やけに近かった。
左腕の包帯を少しだけずらす。
痣はまた広がっていた。
肘の内側から手首へ、細い黒ずみが枝分かれするように伸びている。写名の椀へ割って入った反動だ。
少し前なら、この程度で顔に出ることはなかった。
今は違う。
蓄積が、もう隠しきれないところまで来ている。
「見ていられんな」
背後から綾人の声がした。
冬真は包帯を戻しながら振り返る。
「お前、本当に気配消すの好きだな」
「消していない。お前が鈍いだけだ」
「うるさい」
綾人は冬真の腕を見て、小さく息を吐いた。
「やはり広がっている」
「見ればわかるだろ」
「わかるから言っている」
少しの沈黙。
それから綾人が低く問うた。
「明日、話すのか」
冬真の喉がわずかに動く。
「……何を」
「まだそんな顔をするか」
綾人の声は冷たい。
「千歳はもう、前から続いていたことに触れ始めている。ここまで来て、まだ“最近の異変”だけで押し通せると思うな」
冬真は目を伏せた。
わかっている。
昨夜の断片。
今夜の椀への既視感。
千歳の記憶は確実に動いている。
ここから先は、もういつ完全に繋がってもおかしくない。
「……全部は無理だ」
やっと言う。
「全部話したら」
綾人が先を促す。
「お前の何が変わる」
「千歳が変わる」
冬真は即座に返した。
「自分が守られてきた時間の長さまで知ったら、あいつは絶対に」
そこまで言って、言葉が途切れる。
綾人は続きがわかっている顔だった。
「自分を差し出す、か」
「……」
「可能性は高いな」
平然と言われて、冬真は思わず顔をしかめる。
「軽く言うな」
「軽く言ってはいない」
綾人は続ける。
「だが、それを恐れて最後まで隠した結果、お前が器の代わりになれば本末転倒だ」
胸の奥に鈍い痛みが落ちる。
正しい。
正しいからこそ腹が立つ。
「明日」
綾人が低く言う。
「少なくとも、幼い頃から続いていたことだけは話せ」
「……」
「どこまで具体にするかは選べ。だが“最近だけ”の話にするのはもう無理だ」
冬真は返事をしなかった。
できなかった。
雪の上に落ちる沈黙は、怪異の気配よりずっと重い。
「それと」
綾人が付け加える。
「写名の椀が使えたとしても、お前の負担がゼロになるとは思うな」
「知ってる」
「ならなおさらだ」
綾人の声が少しだけ低くなる。
「残らないものが増える前に、残したいものを選べ」
その言葉に、冬真はほんの一瞬だけ目を閉じた。
残らないもの。
記憶。
名。
線引き。
すでに少しずつ失っている感覚がある。
だからこそ、千歳の顔だけはまだはっきり覚えているのだと、昨夜自分で言ってしまった。
それがどれほど危うい告白だったのか、今になって少し遅れてわかる。
「……うるさいな」
冬真が低く吐く。
「聞こえているなら結構」
綾人はそう言って背を向けた。
「明日、逃げるなよ」
「お前まで同じこと言うのか」
「必要だからな」
綾人の足音が遠ざかる。
冬真は一人、雪の上に立ち尽くした。




