第2章 第12話:写名の椀
夕暮れは、思ったより早く落ちてきた。
山の端から滲んだ藍が、雪の白を少しずつ呑み込んでいく。昼のあいだに見つけた写名の椀は、白い布へ包まれたまま、今は綾人の腕の中にあった。
三人は仮殿へ向かう細い山道を、ほとんど口を利かずに歩いていた。
千歳は自分の指先が冷えていくのを感じていた。
寒さだけではない。
今夜、試すのだ。
あの椀が本当に“供物の証”を受けられるのかどうかを。
うまくいけば、受け皿以外の道が見えるかもしれない。
うまくいかなければ――その先を、今はなるべく考えないようにしていた。
「まだ引き返せるぞ」
不意に、前を歩く冬真が言った。
振り返らないままの声だった。
千歳は少しだけ目を瞬く。
「何が」
「仮殿まで行かなくても」
「行く」
即答すると、冬真の肩がほんのわずかに揺れる。
「早いな」
「昨日から何回同じこと言ってると思ってるの」
「数えてない」
「じゃあ今から数えて」
「面倒だな」
そのやり取りを前で聞いていた綾人が、小さく息を吐いた。
「その程度の口が回るなら、まだ大丈夫そうだ」
「誰が」
「二人ともだ」
短い言葉の往復。
それだけで少しだけ呼吸が整う。
怖いままでも、こうして言葉を交わせるうちは、まだ完全には呑まれていない気がした。
山の入口にある仮殿が見えてくる。
第1章の夜に逃げ込んだときよりも、今はさらに札が増えていた。戸口、柱、屋根の四隅、石段の脇。白い紙が夜の中で鈍く浮いている。
綾人が戸を開けると、木と薬草の匂いがわずかに流れ出た。
「入れ」
言われて中へ入る。
仮殿の中央には、すでに簡単な陣が敷かれていた。
灰が細く円を描き、その四方に札が伏せられている。中心には小さな卓。その上へ、綾人がゆっくりと布包みを置いた。
写名の椀。
布が解かれる。
古びた漆の器は、昼に見たときよりもずっと不気味に見えた。小さい。両手で抱えるほどでもない。なのに、その中に人ひとりぶんの“名”を移すかもしれないと考えると、妙に息が詰まる。
「……これで、本当にできるの」
千歳が問う。
「試すまでは何とも言えん」
綾人は正直に答えた。
「ただ、少なくとも“受けるための器”として作られているのは確かだ」
冬真が椀から目を離さずに言う。
「試すって、どうやって」
「供物の証との反応を見る」
綾人は白椿の木札を懐から取り出した。
「いきなり移しきることはしない。まずは繋げて、受ける余地があるかを確かめる」
木札が卓の上へ置かれる。
それを見た瞬間、千歳の胸の奥がざわついた。
自分の“証”。
名前も血も、こんな札一枚へ押し込められてきたのだと思うと、今も吐き気に近い感覚がある。
「千歳」
綾人が低く呼ぶ。
「椀と木札のあいだに立て」
千歳は息を呑む。
「わたしが?」
「お前の気配が要る」
「危なくないの」
「危ない」
綾人は淡々と言った。
「だが本番よりは浅い。だから今試す」
千歳は一瞬だけ冬真を見る。
冬真の顔は明らかに嫌そうだった。
それでも、今は強く止めなかった。
必要なのだとわかっているのだろう。
千歳は円の中へ入る。
卓を挟んで、木札と椀のちょうど中ほどに立つ。
空気が少しだけ重い。札の匂いと灰の乾いた匂いが、鼻の奥へじわりと広がる。
「何か聞こえたらすぐ言え」
綾人が告げる。
「触るな。呼ばれても応じるな」
「うん」
「無理ならすぐやめる」
冬真が横から低く言う。
「我慢するな」
その声に、千歳は小さく頷いた。
綾人が札を一枚取り、木札の上へ重ねる。
もう一枚は椀の脇へ。
そして、低く言葉を落とした。
「名を映せ。空を受けろ」
札が淡く光る。
最初に変わったのは空気だった。
冷える、というより、薄くなる。仮殿の中だけ現実から半歩ずれたような感覚。
千歳の耳の奥で、かすかな鈴の音が鳴る。
からん。
思わず肩が強張る。
「千歳」
冬真の声。
「聞こえるか」
「……うん」
「何」
「鈴」
答えた瞬間、卓の上の木札がごく薄く赤く脈打った。
それに呼応するように、椀の内側の白椿のような文様が淡く浮かび上がる。
「受け始めてる」
綾人が低く言う。
千歳は息を止める。
胸の奥が少しだけ引っ張られる感覚があった。痛みではない。けれど、自分の何かが、目に見えない糸で木札へ繋がれているのを急に自覚したみたいな気味の悪さがある。
からん。
からん。
鈴の音が二度鳴る。
そのとき、不意に椀の内側へ黒い影が一筋、すっと落ちた。
「っ……」
千歳の喉が小さく震える。
「どうした」
冬真が声を上げる。
「今、何か」
言いかけたところで、木札が急に熱を持った。
卓の上なのに、火を近づけたみたいに赤く滲み、次の瞬間、椀の縁にぴしりと細いひびが入る。
「下がれ!」
綾人が叫ぶ。
千歳は反射で一歩下がった。
同時に、冬真が前へ出る。
「冬真、だめ!」
千歳が叫ぶ。
だが冬真は止まらない。卓へ手を伸ばし、木札と椀のあいだへ札を差し込む。
「切れ!」
赤い光が走った。
椀のひびはそれ以上広がらず、木札の赤もいったん収まる。
しかしその反動が、今度は冬真の腕へ返ったらしい。
「っ、ぁ……!」
低い息が漏れた。
左腕の包帯の下で、痣が一気に熱を持ったのが千歳にもわかった。冬真の肩が大きく揺れる。
「やめて!」
千歳が思わず駆け寄ろうとする。
綾人が鋭く制した。
「動くな!」
その一声で、千歳の足が止まる。
今ここで自分が飛び込めば、余計に流れが乱れる。頭ではわかる。
わかるのに、身体が震える。
綾人がすばやく新しい札を二枚重ね、椀の上下へ叩きつけた。
「閉じろ!」
白い閃きが走る。
卓の上の光がふっと沈み、木札も椀もただの物へ戻ったように見えた。
鈴の音が止む。
仮殿の空気が、ようやく元へ戻る。
静寂。
最初に動いたのは千歳だった。
「冬真!」
今度はもう止められない。千歳は卓を回り込み、冬真の前まで行く。
冬真は膝こそ折っていなかったが、明らかに息が乱れていた。左手を庇い、壁へ半ば寄りかかっている。
「……平気」
掠れた声。
「もうその台詞やめて」
千歳が言い返す。
冬真は何か返しかけて、途中で口を閉じた。
さすがに今の状態で“平気”を押し通すのは無理だと思ったのだろう。
綾人が卓の前に膝をつき、椀を確かめる。
縁のひびは細いままだ。完全には割れていない。
「……受ける余地はあった」
綾人が言う。
千歳は息を呑む。
「じゃあ」
「使える可能性はある」
だが綾人の声は重かった。
「ただし、そのままでは保たん。証と繋いだ瞬間に、返りの一部まで引いた」
冬真が低く言う。
「つまり、椀だけじゃ足りない」
「補助の封具が要る」
綾人は椀を見下ろしたまま答える。
「あるいは、受ける流れをもっと浅く分ける別の結界が必要だ」
千歳は唇を噛む。
希望が見えたと思った瞬間に、また別の条件が増える。
それでも完全な絶望ではない、という点だけがまだ救いだった。
「……今の」
千歳がゆっくり言う。
「椀に流れたのは、わたしの“証”だけじゃないよね」
綾人が顔を上げる。
「そうだ」
「じゃあ、最初から全部は受けられないってこと?」
「供物の証を壊す本番では、もっと強い返りが来る」
綾人ははっきり言った。
「今のでひびが入るなら、補助なしでは持たん」
冬真が壁に寄りかかったまま、低く吐く。
「結局、まだ足りない」
「だがゼロではない」
綾人は言い切る。
「少なくとも、すべてを人間一人が受けるしかない、という段階ではなくなった」
その言葉に、千歳は少しだけ目を閉じる。
救いはある。
でも、その救いもまだ不完全だ。
「……あのさ」
千歳は冬真へ向き直る。
「今、止めに入ったよね」
「……」
「わたし、動くなって言われたのに」
冬真が少しだけ顔をしかめる。
「必要だった」
「またそれ」
千歳の声に少しだけ熱が戻る。
「自分だけなら割り込んでいいの」
「そういう話じゃない」
「そういう話だよ」
綾人が小さく息を吐く。
「今それをやるのか」
「今だから言うんです」
千歳は返す。
「今の、絶対また一人で受けようとした」
冬真が何も言わない。
それだけで十分だった。
「……別に」
ようやく掠れた声が出る。
「全部を受けるつもりじゃなかった」
「一部ならいいの?」
千歳が即座に返す。
冬真は答えない。
千歳はその沈黙に、怒りより先に悲しさを感じた。
この人は本当に、そういう線引きを平気で自分の中だけでやってしまうのだ。
「勝手に決めないって」
千歳は低く言う。
「さっき言ったばっかりなのに」
冬真は目を伏せた。
「……悪い」
「謝ってほしいわけじゃない」
「知ってる」
「じゃあ」
千歳は言葉を詰まらせる。
何を言えば、この人に届くのか、まだわからない。
そのとき、綾人が椀を包み直しながら口を開いた。
「二人とも、今はそれで止めろ」
「でも」
「止めろ」
その一声には、いつになく強い疲労が混じっていた。
「今のでわかったことを整理する方が先だ」
誰もすぐには言い返せない。
綾人はゆっくりと言葉を続ける。
「写名の椀は使える可能性がある」
「ただし単独では持たない」
「補助の封具か、分散結界が要る」
「それが揃えば」
冬真が低く問う。
「返りを全部、人へ流さずに済むかもしれん」
綾人が答えた。
「“かもしれん”ですか」
千歳が言う。
「そうだ」
綾人は視線を逸らさなかった。
「だが、その“かもしれん”を拾うために、今夜ここへ来た」
その通りだった。
完全な解決ではない。
それでも、一歩だ。
少なくとも、何もないよりはずっといい。
千歳は呼吸を整え、冬真を見た。
顔色は悪いままだ。左腕も震えている。
それでも立っている。
それが腹立たしくもあり、どうしようもなく愛おしくもあった。
「……帰ろう」
千歳が言う。
冬真が少しだけ目を上げる。
「何だよ」
「その顔でこれ以上いたら、また勝手に無茶するでしょ」
「しない」
「信用ない」
即答すると、冬真はわずかに眉を寄せた。
「ひどいな」
「事実」
そこへ綾人が小さく鼻を鳴らす。
「珍しく、千歳の方が正しい」
「珍しくって何だ」
「自覚があるなら結構」
そのやり取りに、ほんの少しだけ空気がほどける。
ほんの少しだけ。
けれど、その少しが今は必要だった。
仮殿を出ると、外はすっかり夜だった。
雪はまだ降らない。静かな夜だ。
けれどその静けさの下で、明日へ向けた準備は確実に進んでいる。




