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冬の底で君を呼ぶ  作者: 最後に残った形


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第2章 第11話:壊す手前の静けさ


 昼は、驚くほど静かに進んだ。


 それがかえって不気味だった。


 村ではもう、誰も大きな声で供物の話をしない。井戸端の女たちも、道で出会う老人たちも、千歳の家の前を通るときだけ視線を外す。

 何も知らない顔をしているのに、みんな知っている。

 明日には“前清め”が入るかもしれないことも。

 三日後という日取りが、もうほとんど動かないことも。


 千歳は座敷の隅で、綾人が広げた紙を見つめていた。


 器。

 誓詞。

 供物の証。

 返りの流れ。

 分散結界。

 依代への書き換え。


 並べられた言葉はどれも難しい。けれど難しいまま放っておけば、結局また“誰かが勝手に決める”方へ戻ってしまう気がして、千歳は何度も文字を追った。


「難しい顔してるな」

 不意に冬真が言う。


 顔を上げると、彼は障子のそばにもたれかかるように立っていた。

 午前中の話し合いのあと、一度家へ戻っていたはずだが、やはり長くは離れていられなかったらしい。


「難しいから」

 千歳は正直に返す。

「わかるような、わからないような」

「十分だろ」

「十分じゃないよ」

 紙の上を指先でなぞる。

「だって、ここでわからないままだと、また肝心なとこだけ先に決められる」


 冬真は返事をしなかった。

 否定しないのは、図星だからだろう。


 綾人は紙の向こうで、結界に使う札へ何かを書き込んでいた。

「なら一つずつ整理しろ」

 淡々とした声。

「鏡の器を砕く」

 紙の左端を叩く。

「誓詞を断つ」

 中央へ指を移す。

「供物の証を壊す」

 最後に、白椿の印の横へ指を置く。

「この順だ」


「それはわかる」

 千歳は言う。

「でも、最後のときに流れる返りをどうするかが、まだ曖昧」


 綾人が少しだけ目を上げた。

「よく見ているな」

「見ないと、またわたしだけ何も知らないままになるから」


 その返しに、綾人は何も言わずに札へ視線を戻した。

 代わりに冬真が低く言う。

「今はまだ探してる」

「依代のこと?」

「ああ」


 午前中に綾人が言った“別の形へ移す”案。

 本来、供物として認証される白椿の名代を、“人”ではなく“空の器”へ移すことができれば、返りの向きが変わる可能性がある。

 理論の上では。

 いつも通り、その言葉には不安定な綱の細さがある。


「それ、見つかるの」

 千歳が問うと、綾人は短く答えた。

「わからん」

「……」

「だが、昔の封具の中に“空の名を受ける器”が存在した記録はある」

「記録」

 千歳が繰り返す。

「実物は?」

「見つかっていない」

 やはりそこだ。

 理屈はある。だが現物がない。

 この村の話は、いつもその綱渡りの上にある。


 冬真が壁にもたれたまま言う。

「封蔵庫の奥をもう一度見れば、何か残ってるかもしれない」

「夜になる前だ」

 綾人が返す。

「日が落ちれば、探すより先に防ぐ方へ回らねばならん」


 千歳はその会話を聞きながら、膝の上で指を組み直す。

 今日のうち。

 実質、動けるのは今日しかない。

 それが何度も何度も頭へ戻ってくる。


「ねえ」

 静かに口を開く。

「もし、その器が見つからなかったら」


 部屋が一瞬静かになった。

 綾人の筆が止まる。

 冬真の呼吸がわずかに変わる。


「……その話はまだ早い」

 冬真が言う。


「でも現実にはあるでしょ」

 千歳は引かなかった。

「見つからない可能性」

「ある」

 答えたのは綾人だった。

 冬真がそちらを見る。

「綾人」

「今さらそこを外しても意味がない」

 綾人は紙の上へ筆を置き、千歳を見る。

「見つからなければ、残る手はかなり限られる」

「受け皿」

 千歳が低く言う。


 綾人は頷かなかった。

 だが否定もしなかった。


 冬真が舌打ちしそうな顔をする。

「だから今はまだ、その話じゃない」

「じゃあいつならいいの」

 千歳の声も少しだけ熱を持つ。

「全部終わって、もうそれしかないってなってから?」

「千歳」

「そのときに初めて聞かされる方が、もっと嫌」


 冬真は黙る。

 その沈黙はもう何度目かわからない。

 でも前とは少し違う。今は完全に閉ざしているのではなく、どう返せばいいか詰まっている沈黙だ。


「……見つからなければ」

 やがて冬真が低く言う。

「そのとき改めて決める」

「誰が」

「三人で」

 千歳の呼吸が少しだけ緩む。

 曖昧だ。けれど、昨日までの“俺が決める”よりはずっとましだった。


「本当に?」

 思わず聞くと、冬真は少しだけ眉を寄せる。

「何回確認するんだ」

「大事だから」

「……本当に、だ」


 その返答を聞いても、完全には安心できない。

 でも、それでも前よりは少しだけ信じられる気がした。


     ◆


 昼を少し過ぎた頃、綾人は再び文書庫と封蔵庫へ向かった。


 今回は千歳も同行することになった。

 本殿の奥には入らない。結界の内側に勝手に触れない。何かあればすぐ言う。

 条件は多い。けれど“来るな”と切り捨てられるより、ずっとよかった。


 山へ続く道は昼でも薄暗い。

 雪の白さが光を返しているはずなのに、木立の影が深すぎるのだ。


 冬真は千歳の半歩前を歩く。

 前に出すぎず、けれど振り返ればすぐ届く距離。

 その距離の取り方に、千歳は少しだけ胸が痛む。

 優しさだ。

 でも、近づけば痛むと知っているからこその優しさでもある。


「……ねえ」

 千歳が小さく呼ぶ。


「何だ」

「今、平気?」

 冬真が一瞬だけ肩越しにこちらを見る。

「何が」

「腕とか」

「平気」

「嘘」

「……少し痛い」

 素直に言い直されて、千歳は少しだけ目を瞬く。

「直した」

「お前がうるさいからな」

「よかった」

 思わずそう返すと、冬真の歩幅がほんの少しだけ揺れた。


 前を行く綾人が、それを聞いていたのか小さく息を吐く。

「進歩だな」

「うるさい」

「褒めている」

「なおさら腹立つ」


 短いやり取り。

 それだけなのに、千歳の胸の奥は少しだけ温かくなる。

 全部は変わらない。何も解決していない。

 でも、こういう小さなところでしか戻れないものもある。


 文書庫へ入る。

 古い紙と木の匂い。

 前回来たときより、空気が重く感じられるのは気のせいではないだろう。

 綾人が奥の棚から別の木箱を下ろした。


「これが封具の記録」

 蓋を開けると、中には薄い帳面と、布で包まれた小さな祭具がいくつか入っている。

「空の名を受ける器は、古い祭具の一つとして保管されていたらしい」

「“らしい”」

 千歳が繰り返すと、綾人は頷く。

「記録だけ残って実物が消えることは、この村では珍しくない」


 帳面を開く。

 古い筆で、祭具の目録が並んでいた。


 ――写名の椀

 ――白代の鏡

 ――空札筒

 ――返し守


「どれ」

 冬真が問う。


「候補は二つ」

 綾人が頁を指で押さえる。

「写名の椀か、空札筒」

「どう違うの」

 千歳が聞く。


「写名の椀は、名を一時的に受ける器だ」

 綾人が答える。

「空札筒は、名前のない依代を封じるための筒」

 千歳は眉を寄せる。

「どっちも使えそうに聞こえる」

「ただし、供物の証ほど重い“名”を本当に受けきれるかは別だ」


 またそこだ。

 理屈では可能。

 だが実際に持つかはわからない。


 綾人がさらに頁をめくる。

「……あった」

 低い声。

「写名の椀は、祓殿の器が割れた年に一緒に移されたとある」

「じゃあ封蔵庫」

 冬真が言う。


 綾人が頷く。

「空札筒は記録が古すぎる。まず椀だ」


 そのとき、千歳の頭が急にずきりと痛んだ。


「……っ」

 思わず机へ手をつく。


「千歳?」

 冬真が即座に振り向く。


 視界が少し揺れる。

 文書庫の薄暗さが一瞬だけ別の光へ変わりかけた。


 木の椀。

 白い布。

 誰かの手が、それを抱えている。

 その向こうで、子どもの自分が泣いている。

 でも顔は見えない。

 場面はすぐに消えた。


「……大丈夫」

 そう言っても、声は少し掠れていた。


「今、何だ」

 冬真が低く聞く。


「少しだけ」

 千歳は息を整えながら答える。

「また、見えた」

「何が」

「椀みたいなもの」

 綾人の目が細くなる。

「記憶の断片か」

「たぶん」

 千歳はこめかみを押さえる。

「白い布に包まれてた」


 綾人と冬真の視線が一瞬だけ交わる。

 冬真の表情ははっきりと強張っていた。


「……やっぱり」

 千歳が小さく言う。

「昔から、何かあったんだね」


 冬真はすぐには答えない。

 それでも、今は前より完全に閉ざしはしなかった。


「今は」

 低く言う。

「その記憶を追うより、椀を探す」

 それはいつもの“誤魔化し”だけではなく、本当に優先順位の問題でもあるのだろう。

 千歳もそれはわかる。

 だから今回は、追及をそこで止めた。


「……うん」

 頷く。


     ◆


 封蔵庫で椀は見つかった。


 祓殿の奥、小さな祭具箱の底に、白い布へ何重にも包まれて残されていた。

 漆の剥げた小ぶりの椀。内側には薄く白椿の花弁のような文様が刻まれている。


「これが」

 千歳が息を呑む。


「写名の椀」

 綾人が答える。

「おそらくな」


 冬真は近づき、しかし触れようとはしなかった。

「本当に使えるのか」

「試すしかない」

「壊れたら」

「そのときは次を考える」


 淡々とした会話のはずなのに、空気は張り詰めていた。

 千歳はその椀を見つめながら、自分の中に奇妙な感覚があることに気づく。

 怖い。

 でもそれだけじゃない。

 どこか懐かしいような、嫌な既視感。


「……前に見たことある」

 小さく呟く。


 冬真が振り向く。

「何」

「たぶん」

 千歳はゆっくり言う。

「昨日の断片と同じ。これかはわからないけど、似た椀」

 綾人が低く言った。

「記憶が戻り始めている」


 冬真の表情が曇る。

 千歳はそれを見て、胸の奥がまた少し痛んだ。

 この人は、記憶が戻ることを喜んでいない。

 何がそこまで怖いのか、まだ全部は知らない。

 でも、たぶん“自分がしてきたこと”の輪郭が見えてしまうからだ。


「持って帰る」

 綾人が椀を包み直しながら言う。

「今夜、仮殿で試す」

「千歳も?」

 冬真が問う。


「立ち会わせる」

 綾人は即答した。

「ここまで来て外す意味がない」

 冬真は露骨に嫌そうな顔をしたが、否定はしなかった。


 千歳はそのやり取りを見ながら、小さく息を吐いた。

 怖いままでも、外されない。

 それが今はありがたかった。


     ◆


 家へ戻る途中、空はもう夕方の色になり始めていた。


 今日のうちに、試す。

 うまくいけば、受け皿以外の道がひとつ開く。

 うまくいかなければ、もっと切迫する。


「ねえ」

 千歳が静かに言う。


「何だ」

 冬真が答える。


「もし、椀が使えたら」

 一拍置く。

「少しは、ましになる?」


 冬真は少しだけ黙ってから答えた。

「少なくとも、お前をそのまま差し出す形ではなくなる」

「……そっか」

「ただし」

 まただ、と千歳は少しだけ思う。

「それで全部終わるとも限らない」

「うん」

「だから期待しすぎるな」

「難しい」

「知ってる」


 短い会話。

 でもその“知ってる”に、以前より温度がある。


 千歳は横顔を見る。

 冬真はまだ、すべてを話してはいない。

 たぶん今夜も全部は話さない。

 それでも、昨日よりは前へ出ている。


 そして自分もまた、昨日までの自分ではない。

 ただ守られるだけでも、ただ差し出されるだけでもなく、少なくとも隣で“どう壊すか”を考える側へ来てしまった。

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