表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冬の底で君を呼ぶ  作者: 最後に残った形


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

32/99

第2章 第10話:明日、壊す前に


 明け方の光は、雪の白さよりも容赦がなかった。


 千歳はほとんど眠れないまま朝を迎えた。

 瞼を閉じるたび、昨夜見た断片が蘇る。雪の日。幼い自分。神社の裏。冬真の腕に絡みつく赤黒いもの。誰かの声。

 はっきりした形にはならない。けれど、あれがただの悪夢ではなく、忘れさせられていた何かだということだけは確かだった。


 ――前からなの。

 ――ずっと前から、わたしの代わりに何か受けてたの。


 あの問いに、冬真は否定しなかった。

 それがどれだけ重いことか、今はもう考えないようにしても無駄だった。


 机の上には、昨夜のまま触れていない紙がある。

 供物の証。誓詞。鏡の器。受け皿。

 そこへ新しく加わったのは、“もっと前から”という事実だった。


 戸の向こうで、静かな足音が止まる。


「千歳」

 志乃の声だった。

「起きてる?」


「うん」


 襖が開く。

 志乃は盆に湯呑みを乗せて入ってきたが、娘の顔を見るなり、少しだけ表情を曇らせた。


「眠れなかったのね」

「……少しだけ」

「嘘」

 やわらかい声で言われて、千歳は小さく息を吐く。

「うん、あんまり眠れなかった」


 志乃は机へ湯呑みを置き、その向かいへ座る。

 湯気がふわりと立ちのぼる。その温かさを見ているだけで、張り詰めていたものが少しだけほどけそうになった。


「昨夜、何かあった?」

 静かな問いだった。


 千歳はすぐには答えられなかった。

 母に隠したいわけではない。

 でも、どう言葉にしたらいいかわからない。


「……思い出したの」

 やがて小さく言う。

「昔のこと、少しだけ」

 志乃の眉が寄る。

「どんな」

「神社の裏で、冬真が……」

 喉が詰まる。

「わたしの代わりに、何か引き受けたみたいだった」


 志乃は息を呑んだまま、しばらく動かなかった。

 やがて膝の上の手を静かに組み直す。


「そう」

 それだけだった。

 否定も驚きも、表にはほとんど出さない。


「……知ってたの?」

 千歳が問うと、志乃は首を横に振った。

「そこまでは」

 一拍置く。

「でも、何となく……冬真くんがあなたのことを見てる目は、普通じゃないと思ってた」

 千歳は少しだけ俯く。

 普通じゃない。

 その言い方が正しいのかどうかはわからない。

 でも少なくとも、“ただの幼馴染の心配”ではなかったのだろうと、今は自分でも思う。


「今日、話すって言った」

 千歳が呟く。

「冬真が」

「……そう」

「でも、どこまで話してくれるのか、わからない」

 志乃は少しだけ目を細めた。

「全部でなくても、話すと約束したなら、昨日までより前へ進んでるんじゃない?」

 その慰めはやさしい。

 けれど千歳の胸の奥には、別の不安も残っていた。


 話す。

 でもその前に、何かを決めてしまうかもしれない。

 昨日まで何度もそうだったように。


「ねえ、お母さん」

「なあに」

「わたし、疑いすぎかな」

「何を?」

「冬真のこと」


 志乃は少しだけ考えてから、静かに答えた。

「疑ってるんじゃなくて、怖いのよ」

 千歳は顔を上げる。

「信じたいのに、勝手にいなくなるかもしれないって思ってしまうのが」

 その言葉は、思っていた以上に自分の胸へまっすぐ落ちた。

 怖いのだ。

 儀も、村も、怪異も。

 でも今はいちばん、冬真が何も言わずに自分を削ってしまうことが怖い。


「……うん」

 千歳は小さく頷いた。


     ◆


 朝の光が少し高くなった頃、綾人が来た。


 志乃が表へ出て、短く言葉を交わす気配がする。

 千歳はすぐに立ち上がった。胸の奥で緊張が小さく鳴る。

 今日、決めるのだ。

 壊す順番を。

 返りの逃がし方を。

 そして、おそらくは――誰がどこまで背負うかも。


 千歳が座敷へ入ると、綾人はすでにそこにいた。

 その隣に冬真もいる。


 顔色は相変わらず悪い。

 けれど昨夜よりは幾分ましに見えた。たぶん、見せようとしているのだろう。平気な顔を。

 その努力ごと見えてしまうから、余計につらい。


「おはよう」

 千歳が言うと、冬真は短く頷いた。

「ああ」

 いつも通りの短さ。

 でも、逃げるように視線を外しはしない。


 綾人が低く言った。

「全員揃ったな」

 座敷の中央には紙が広げられていた。綾人が簡易に書き出した図らしい。

 社の見取り図。

 祓殿。

 本殿。

 裏の蔵。

 そして、器・誓詞・供物の証の位置関係。


「今から話すのは」

 綾人が淡々と告げる。

「壊す順番と、その際に起きる返りをどう逃がすかだ」

 千歳は息を整え、正面を見る。

「まず、鏡の器を先に砕く」

 綾人が図の一点を指す。

「ここはすでにひびが入っている。最も断ちやすい」

「その次」

 冬真が問う。


「誓詞」

 綾人が答える。

「言葉の結びを断つ。最後に供物の証を壊す」

 千歳の指先がわずかに強張る。

「どうして最後なんですか」


 綾人は千歳を見た。

「供物の証を先に壊せば、お前自身へ返りが直に流れ込む可能性がある」

「……」

「だから最後だ」


 冬真が低く息を吐く。

「それで、返りは」

「鏡の器を壊した時点では、祓殿の封で一時留める」

 綾人は紙の上に線を引く。

「誓詞を断つ時は、本殿の結界へ流す」

「最後が問題か」

「そうだ」


 部屋の空気が少しだけ重くなる。

 千歳は膝の上で手を握った。

 最後。

 つまり、供物の証を壊したとき。

 そこがいちばん危ない。


「完全に逃がす方法は」

 千歳が聞く。


 綾人は一瞬だけ黙った。

「まだ見つかっていない」

「まだ」

「可能性はゼロではない」

 綾人はそう言ったが、その言葉の薄さは千歳にもわかった。


 ないのだ。

 少なくとも、今この時点では。


 冬真が紙を見つめたまま問う。

「人を使わずに済ませる方法は」

「試せることは試す」

 綾人は答える。

「だが、供物の証が壊れる瞬間に流れる返りは、おそらく最も濃い」

「……」

「何かしらの受け皿は必要になる可能性が高い」


 その一言が、部屋へ落ちる。

 千歳は喉の奥が冷えるのを感じた。

 でも今回は、そこで俯かなかった。


「だったら」

 静かに言う。

「その“必要になる可能性が高い”を、今ここで曖昧にしないで」


 冬真が顔を上げる。

 綾人も少しだけ目を細めた。


「昨日の続きってことか」

 綾人が言う。

「はい」

 千歳は頷く。

「わたし、昨日までみたいに、肝心なところだけ濁されたままここへ進むの嫌です」


 冬真が低く言う。

「千歳」

「聞く」

 千歳は遮った。

「だって、そこを曖昧にしたままなら、またあなたが勝手に決める」


 沈黙。

 それだけで、図星なのだとわかる。


「……お前」

 冬真が掠れた声で言う。

「今それを聞いて、どうするつもりだ」


「決めるためじゃない」

 千歳は答える。

「勝手に決めさせないため」


 冬真の眉が寄る。

 綾人がその横で、小さく息を吐いた。


「でははっきり言う」

 綾人の声は静かだった。

「今ある手の中で、人を使わず返りを逃がしきる方法は、まだ見つかっていない」

 千歳の胸がわずかに沈む。

「そして、人を使う場合」

 綾人は一度だけ視線を冬真へ向ける。

「最も適してしまうのは、千歳に流れるはずのものを長く引き受け続けてきた者だ」


 部屋が、ひどく静かになる。


 千歳は目を閉じなかった。

 逃げなかった。

 でも、指先は冷たかった。


「やっぱり」

 小さく呟く。

 やっぱり、そうなのだ。


 冬真は何も言わない。

 その沈黙が、これまでのすべての答えのようだった。


「……どれくらい」

 千歳はやっと声を出す。

「どれくらい危ないの」


 綾人は慎重に言葉を選ぶように口を開く。

「命を落とす可能性がある」

 それは昨夜聞いた話と同じだ。

 けれど今は、もっと先まで知りたい。


「それだけじゃないですよね」

 千歳が問う。

 綾人は視線を逸らさなかった。

「記憶が削れる可能性がある」

 千歳の呼吸が止まりかける。

「名や認識の境が曖昧になることもある」

「……」

「最悪は、器の代わりになる」


 そこまで言われても、今度は取り乱さなかった。

 昨夜の蔵の前で、一度触れてしまっていたからだ。

 ただ、その言葉の重みが、今改めて体の内側へ沈んでいく。


 器の代わり。

 人ではなくなるかもしれないということだ。


「それで」

 千歳はゆっくり冬真を見る。

「あなたは、それでもやるつもりだったの」


 冬真はしばらく黙っていた。

 部屋の中の誰も動かない。

 やがて、低く掠れた声が落ちる。


「……お前を行かせるよりは」


 それは前にも聞いた答えだった。

 でも、今この場で改めて聞くと、前よりずっと重い。

 命だけではない。記憶も、名も、存在そのものも削れるかもしれない。

 それでもなお、“お前を行かせるよりは”と言うのだ。


 千歳の胸が痛む。

 嬉しいのではない。

 救われるのでもない。

 ただ、苦しい。


「違うよ」

 自然に言葉が出た。

「それ、やっぱりましじゃない」

 冬真が目を閉じる。

「知ってる」

「知ってるなら」

「でも」

 冬真の声が少しだけ荒くなる。

「他に道がないなら、そうするしかないだろ」


 そこで、千歳の中で何かが切り替わった。


 これまでは、止めたい、やめてほしい、そういう感情の方が強かった。

 今もそうだ。

 でもそれだけでは足りない。

 この人は、感情だけで止まる人ではないのだから。


「じゃあ」

 千歳はまっすぐ言う。

「道を作る」


 冬真が目を開ける。

 綾人も、わずかに眉を動かした。


「何」

 冬真の声は低い。


「人を使わない方法」

 千歳は言う。

「まだ見つかってないだけなら、探す」

「昨日までの話を聞いて、それを簡単に言うな」

「簡単じゃないのは知ってる」

「なら」

「でも、ここで“仕方ない”って言う方がもっと嫌」


 部屋の空気がぴんと張る。

 千歳はそのまま続けた。


「わたし、昨日までなら」

 一度、呼吸を挟む。

「たぶん、“自分が行けば”って考えてた」

 冬真の表情が強張る。

「でも今は違う」

「……」

「わたしが行くのも嫌。あなたが壊れるのも嫌」

 一語ずつ、押し出すように言う。

「だから、その二つ以外を探す」


 綺麗事だと、自分でもわかっていた。

 でも綺麗事のままでも、そこを捨てたくなかった。

 村が何十年も繰り返してきた“どちらかを差し出すしかない”という考え方の延長に乗りたくなかった。


 綾人が小さく息を吐く。

「理屈としては正しい」

 冬真が眉を寄せる。

「お前まで」

「ただし時間がない」

 綾人は続ける。

「だからこそ、感情論だけではなく具体に落とす」

 綾人は紙を指で叩いた。

「今、残っている可能性は二つだ」

「何」

 千歳が問う。


「ひとつ」

 綾人が言う。

「返りを完全に受けるのではなく、複数の結界へ分散し、山へ返す」

 冬真が低く息を吐く。

「そんなことできるのか」

「理論の上では」

「理論ばっかりだな」

「ないよりはましだ」

 綾人は続ける。

「もう一つは、本来供物に向かうはずの流れそのものを書き換える」

 千歳が目を瞬く。

「書き換える?」

「供物の証を壊す前に、その“証明”を別の形へ移せれば、返りの向きが変わる可能性がある」

「別の形」

 冬真が低く繰り返す。

「何にだ」


 綾人はそこで、ほんの少しだけ言い淀んだ。

「まだ確定ではない」

「言え」

 冬真の声が鋭くなる。


「白椿の名代を、“人”ではなく“空の器”に移す」

 綾人が言った。

「社にある古い依代か、あるいは封具だ」


 冬真がすぐに答える。

「そんな都合のいい器が残ってるか?」

「わからん」

「結局そこか」

「だから探す」

 綾人の声も低くなる。

「まだ終わっていないと言っている」


 千歳は二人のやり取りを聞きながら、胸の奥で小さく息を整えた。

 あるのだ。

 少なくともまだ、“冬真が受け皿になる”以外の案は、完全には死んでいない。


「それを探す」

 千歳が言う。

「今日」


 冬真がすぐに顔を向ける。

「お前はだめだ」

「なんで」

「昨日、記憶が戻ったばかりだろ」

「だからって部屋で待ってるだけなのはもっとだめ」


 冬真の眉間が深く寄る。

 綾人がその間に口を挟んだ。

「今夜、千歳を本殿の奥へ連れて行く必要はない」

「なら」

「だが、文書庫と祓殿の外縁までは来させてもいい」

 冬真が露骨に嫌そうな顔をする。

「綾人」

「お前一人で抱える案は却下したはずだ」

 その一言が、冬真を黙らせた。


 千歳はその沈黙を見逃さなかった。

 まだ完全に諦めたわけではない。

 でも少なくとも、昨日までみたいに“一人で決める”には進めなくなっている。


「……勝手なことはするな」

 冬真が低く言う。


「しない」

 千歳はすぐに答える。

「本当に?」

「あなたよりは」

「ひどいな」

「事実でしょ」


 そう返したあと、ほんの少しだけ空気がやわらいだ。

 それでも次の瞬間には、皆また紙の上へ視線を戻す。

 笑って済む段階ではないのだ。


 綾人が最後に低く言った。

「今日中に、できるだけ結論に近づける」

「明日ではなく?」

 千歳が問う。


「明日は儀のための前清めが入る可能性がある」

 綾人は答える。

「村の動き次第では、こちらの自由が一気に減る」

「……じゃあ今日しかないんだね」

「そうだ」


 その現実が、改めて重くのしかかる。

 あと二日ではない。

 実質、今日が最後に近い。


 千歳は膝の上で握った手をゆっくり開いた。

 怖い。

 でも、もう立ち止まっている時間はない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ