第2章 第10話:明日、壊す前に
明け方の光は、雪の白さよりも容赦がなかった。
千歳はほとんど眠れないまま朝を迎えた。
瞼を閉じるたび、昨夜見た断片が蘇る。雪の日。幼い自分。神社の裏。冬真の腕に絡みつく赤黒いもの。誰かの声。
はっきりした形にはならない。けれど、あれがただの悪夢ではなく、忘れさせられていた何かだということだけは確かだった。
――前からなの。
――ずっと前から、わたしの代わりに何か受けてたの。
あの問いに、冬真は否定しなかった。
それがどれだけ重いことか、今はもう考えないようにしても無駄だった。
机の上には、昨夜のまま触れていない紙がある。
供物の証。誓詞。鏡の器。受け皿。
そこへ新しく加わったのは、“もっと前から”という事実だった。
戸の向こうで、静かな足音が止まる。
「千歳」
志乃の声だった。
「起きてる?」
「うん」
襖が開く。
志乃は盆に湯呑みを乗せて入ってきたが、娘の顔を見るなり、少しだけ表情を曇らせた。
「眠れなかったのね」
「……少しだけ」
「嘘」
やわらかい声で言われて、千歳は小さく息を吐く。
「うん、あんまり眠れなかった」
志乃は机へ湯呑みを置き、その向かいへ座る。
湯気がふわりと立ちのぼる。その温かさを見ているだけで、張り詰めていたものが少しだけほどけそうになった。
「昨夜、何かあった?」
静かな問いだった。
千歳はすぐには答えられなかった。
母に隠したいわけではない。
でも、どう言葉にしたらいいかわからない。
「……思い出したの」
やがて小さく言う。
「昔のこと、少しだけ」
志乃の眉が寄る。
「どんな」
「神社の裏で、冬真が……」
喉が詰まる。
「わたしの代わりに、何か引き受けたみたいだった」
志乃は息を呑んだまま、しばらく動かなかった。
やがて膝の上の手を静かに組み直す。
「そう」
それだけだった。
否定も驚きも、表にはほとんど出さない。
「……知ってたの?」
千歳が問うと、志乃は首を横に振った。
「そこまでは」
一拍置く。
「でも、何となく……冬真くんがあなたのことを見てる目は、普通じゃないと思ってた」
千歳は少しだけ俯く。
普通じゃない。
その言い方が正しいのかどうかはわからない。
でも少なくとも、“ただの幼馴染の心配”ではなかったのだろうと、今は自分でも思う。
「今日、話すって言った」
千歳が呟く。
「冬真が」
「……そう」
「でも、どこまで話してくれるのか、わからない」
志乃は少しだけ目を細めた。
「全部でなくても、話すと約束したなら、昨日までより前へ進んでるんじゃない?」
その慰めはやさしい。
けれど千歳の胸の奥には、別の不安も残っていた。
話す。
でもその前に、何かを決めてしまうかもしれない。
昨日まで何度もそうだったように。
「ねえ、お母さん」
「なあに」
「わたし、疑いすぎかな」
「何を?」
「冬真のこと」
志乃は少しだけ考えてから、静かに答えた。
「疑ってるんじゃなくて、怖いのよ」
千歳は顔を上げる。
「信じたいのに、勝手にいなくなるかもしれないって思ってしまうのが」
その言葉は、思っていた以上に自分の胸へまっすぐ落ちた。
怖いのだ。
儀も、村も、怪異も。
でも今はいちばん、冬真が何も言わずに自分を削ってしまうことが怖い。
「……うん」
千歳は小さく頷いた。
◆
朝の光が少し高くなった頃、綾人が来た。
志乃が表へ出て、短く言葉を交わす気配がする。
千歳はすぐに立ち上がった。胸の奥で緊張が小さく鳴る。
今日、決めるのだ。
壊す順番を。
返りの逃がし方を。
そして、おそらくは――誰がどこまで背負うかも。
千歳が座敷へ入ると、綾人はすでにそこにいた。
その隣に冬真もいる。
顔色は相変わらず悪い。
けれど昨夜よりは幾分ましに見えた。たぶん、見せようとしているのだろう。平気な顔を。
その努力ごと見えてしまうから、余計につらい。
「おはよう」
千歳が言うと、冬真は短く頷いた。
「ああ」
いつも通りの短さ。
でも、逃げるように視線を外しはしない。
綾人が低く言った。
「全員揃ったな」
座敷の中央には紙が広げられていた。綾人が簡易に書き出した図らしい。
社の見取り図。
祓殿。
本殿。
裏の蔵。
そして、器・誓詞・供物の証の位置関係。
「今から話すのは」
綾人が淡々と告げる。
「壊す順番と、その際に起きる返りをどう逃がすかだ」
千歳は息を整え、正面を見る。
「まず、鏡の器を先に砕く」
綾人が図の一点を指す。
「ここはすでにひびが入っている。最も断ちやすい」
「その次」
冬真が問う。
「誓詞」
綾人が答える。
「言葉の結びを断つ。最後に供物の証を壊す」
千歳の指先がわずかに強張る。
「どうして最後なんですか」
綾人は千歳を見た。
「供物の証を先に壊せば、お前自身へ返りが直に流れ込む可能性がある」
「……」
「だから最後だ」
冬真が低く息を吐く。
「それで、返りは」
「鏡の器を壊した時点では、祓殿の封で一時留める」
綾人は紙の上に線を引く。
「誓詞を断つ時は、本殿の結界へ流す」
「最後が問題か」
「そうだ」
部屋の空気が少しだけ重くなる。
千歳は膝の上で手を握った。
最後。
つまり、供物の証を壊したとき。
そこがいちばん危ない。
「完全に逃がす方法は」
千歳が聞く。
綾人は一瞬だけ黙った。
「まだ見つかっていない」
「まだ」
「可能性はゼロではない」
綾人はそう言ったが、その言葉の薄さは千歳にもわかった。
ないのだ。
少なくとも、今この時点では。
冬真が紙を見つめたまま問う。
「人を使わずに済ませる方法は」
「試せることは試す」
綾人は答える。
「だが、供物の証が壊れる瞬間に流れる返りは、おそらく最も濃い」
「……」
「何かしらの受け皿は必要になる可能性が高い」
その一言が、部屋へ落ちる。
千歳は喉の奥が冷えるのを感じた。
でも今回は、そこで俯かなかった。
「だったら」
静かに言う。
「その“必要になる可能性が高い”を、今ここで曖昧にしないで」
冬真が顔を上げる。
綾人も少しだけ目を細めた。
「昨日の続きってことか」
綾人が言う。
「はい」
千歳は頷く。
「わたし、昨日までみたいに、肝心なところだけ濁されたままここへ進むの嫌です」
冬真が低く言う。
「千歳」
「聞く」
千歳は遮った。
「だって、そこを曖昧にしたままなら、またあなたが勝手に決める」
沈黙。
それだけで、図星なのだとわかる。
「……お前」
冬真が掠れた声で言う。
「今それを聞いて、どうするつもりだ」
「決めるためじゃない」
千歳は答える。
「勝手に決めさせないため」
冬真の眉が寄る。
綾人がその横で、小さく息を吐いた。
「でははっきり言う」
綾人の声は静かだった。
「今ある手の中で、人を使わず返りを逃がしきる方法は、まだ見つかっていない」
千歳の胸がわずかに沈む。
「そして、人を使う場合」
綾人は一度だけ視線を冬真へ向ける。
「最も適してしまうのは、千歳に流れるはずのものを長く引き受け続けてきた者だ」
部屋が、ひどく静かになる。
千歳は目を閉じなかった。
逃げなかった。
でも、指先は冷たかった。
「やっぱり」
小さく呟く。
やっぱり、そうなのだ。
冬真は何も言わない。
その沈黙が、これまでのすべての答えのようだった。
「……どれくらい」
千歳はやっと声を出す。
「どれくらい危ないの」
綾人は慎重に言葉を選ぶように口を開く。
「命を落とす可能性がある」
それは昨夜聞いた話と同じだ。
けれど今は、もっと先まで知りたい。
「それだけじゃないですよね」
千歳が問う。
綾人は視線を逸らさなかった。
「記憶が削れる可能性がある」
千歳の呼吸が止まりかける。
「名や認識の境が曖昧になることもある」
「……」
「最悪は、器の代わりになる」
そこまで言われても、今度は取り乱さなかった。
昨夜の蔵の前で、一度触れてしまっていたからだ。
ただ、その言葉の重みが、今改めて体の内側へ沈んでいく。
器の代わり。
人ではなくなるかもしれないということだ。
「それで」
千歳はゆっくり冬真を見る。
「あなたは、それでもやるつもりだったの」
冬真はしばらく黙っていた。
部屋の中の誰も動かない。
やがて、低く掠れた声が落ちる。
「……お前を行かせるよりは」
それは前にも聞いた答えだった。
でも、今この場で改めて聞くと、前よりずっと重い。
命だけではない。記憶も、名も、存在そのものも削れるかもしれない。
それでもなお、“お前を行かせるよりは”と言うのだ。
千歳の胸が痛む。
嬉しいのではない。
救われるのでもない。
ただ、苦しい。
「違うよ」
自然に言葉が出た。
「それ、やっぱりましじゃない」
冬真が目を閉じる。
「知ってる」
「知ってるなら」
「でも」
冬真の声が少しだけ荒くなる。
「他に道がないなら、そうするしかないだろ」
そこで、千歳の中で何かが切り替わった。
これまでは、止めたい、やめてほしい、そういう感情の方が強かった。
今もそうだ。
でもそれだけでは足りない。
この人は、感情だけで止まる人ではないのだから。
「じゃあ」
千歳はまっすぐ言う。
「道を作る」
冬真が目を開ける。
綾人も、わずかに眉を動かした。
「何」
冬真の声は低い。
「人を使わない方法」
千歳は言う。
「まだ見つかってないだけなら、探す」
「昨日までの話を聞いて、それを簡単に言うな」
「簡単じゃないのは知ってる」
「なら」
「でも、ここで“仕方ない”って言う方がもっと嫌」
部屋の空気がぴんと張る。
千歳はそのまま続けた。
「わたし、昨日までなら」
一度、呼吸を挟む。
「たぶん、“自分が行けば”って考えてた」
冬真の表情が強張る。
「でも今は違う」
「……」
「わたしが行くのも嫌。あなたが壊れるのも嫌」
一語ずつ、押し出すように言う。
「だから、その二つ以外を探す」
綺麗事だと、自分でもわかっていた。
でも綺麗事のままでも、そこを捨てたくなかった。
村が何十年も繰り返してきた“どちらかを差し出すしかない”という考え方の延長に乗りたくなかった。
綾人が小さく息を吐く。
「理屈としては正しい」
冬真が眉を寄せる。
「お前まで」
「ただし時間がない」
綾人は続ける。
「だからこそ、感情論だけではなく具体に落とす」
綾人は紙を指で叩いた。
「今、残っている可能性は二つだ」
「何」
千歳が問う。
「ひとつ」
綾人が言う。
「返りを完全に受けるのではなく、複数の結界へ分散し、山へ返す」
冬真が低く息を吐く。
「そんなことできるのか」
「理論の上では」
「理論ばっかりだな」
「ないよりはましだ」
綾人は続ける。
「もう一つは、本来供物に向かうはずの流れそのものを書き換える」
千歳が目を瞬く。
「書き換える?」
「供物の証を壊す前に、その“証明”を別の形へ移せれば、返りの向きが変わる可能性がある」
「別の形」
冬真が低く繰り返す。
「何にだ」
綾人はそこで、ほんの少しだけ言い淀んだ。
「まだ確定ではない」
「言え」
冬真の声が鋭くなる。
「白椿の名代を、“人”ではなく“空の器”に移す」
綾人が言った。
「社にある古い依代か、あるいは封具だ」
冬真がすぐに答える。
「そんな都合のいい器が残ってるか?」
「わからん」
「結局そこか」
「だから探す」
綾人の声も低くなる。
「まだ終わっていないと言っている」
千歳は二人のやり取りを聞きながら、胸の奥で小さく息を整えた。
あるのだ。
少なくともまだ、“冬真が受け皿になる”以外の案は、完全には死んでいない。
「それを探す」
千歳が言う。
「今日」
冬真がすぐに顔を向ける。
「お前はだめだ」
「なんで」
「昨日、記憶が戻ったばかりだろ」
「だからって部屋で待ってるだけなのはもっとだめ」
冬真の眉間が深く寄る。
綾人がその間に口を挟んだ。
「今夜、千歳を本殿の奥へ連れて行く必要はない」
「なら」
「だが、文書庫と祓殿の外縁までは来させてもいい」
冬真が露骨に嫌そうな顔をする。
「綾人」
「お前一人で抱える案は却下したはずだ」
その一言が、冬真を黙らせた。
千歳はその沈黙を見逃さなかった。
まだ完全に諦めたわけではない。
でも少なくとも、昨日までみたいに“一人で決める”には進めなくなっている。
「……勝手なことはするな」
冬真が低く言う。
「しない」
千歳はすぐに答える。
「本当に?」
「あなたよりは」
「ひどいな」
「事実でしょ」
そう返したあと、ほんの少しだけ空気がやわらいだ。
それでも次の瞬間には、皆また紙の上へ視線を戻す。
笑って済む段階ではないのだ。
綾人が最後に低く言った。
「今日中に、できるだけ結論に近づける」
「明日ではなく?」
千歳が問う。
「明日は儀のための前清めが入る可能性がある」
綾人は答える。
「村の動き次第では、こちらの自由が一気に減る」
「……じゃあ今日しかないんだね」
「そうだ」
その現実が、改めて重くのしかかる。
あと二日ではない。
実質、今日が最後に近い。
千歳は膝の上で握った手をゆっくり開いた。
怖い。
でも、もう立ち止まっている時間はない。




