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冬の底で君を呼ぶ  作者: 最後に残った形


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第2章 第9話:明日を壊す手順


 蔵を出たあとも、夜は少しもやわらがなかった。


 社の裏手から見下ろす村は、雪の白さのせいでかえって暗く見える。家々の灯りは小さく、誰もが早く夜をやり過ごしたがっているようだった。

 千歳は外套の前を押さえながら、石段を下りる冬真の半歩後ろを歩いていた。


 今夜見たものが、頭の中で何度も繰り返される。


 誓詞。

 白椿の木札。

 供物の証。

 そして、受け皿。


 三つの結び目が揃った。

 それは前へ進んだことを意味するはずなのに、安心にはまるで繋がらない。

 むしろ、もう逃げ道のない形で“壊すための段階”へ入ってしまった実感だけが、千歳の胸に重く残っていた。


「足元」

 前を歩く冬真が低く言う。


 千歳ははっとして立ち止まる。

 石段の縁に薄く霜が張っていた。もう少しで滑るところだった。


「……ありがと」

 小さく言うと、冬真は振り返らないまま短く答えた。

「ぼーっとするな」


 その言い方がいつも通りで、少しだけ救われる。

 けれど同時に、いつも通りの顔をしていても、この人の中ではもう“受け皿”という言葉が現実に近づいているのだと思うと、胸が冷えた。


 石段を下り切ったところで、綾人が足を止めた。


「ここでいったん別れる」

 淡々とした声だった。

「千歳は家へ戻れ。今夜これ以上、外へ出るな」

「綾人さんは?」

 千歳が問うと、綾人は夜の社を振り返る。

「祓殿と本殿の結界を張り直す」

「一人で?」

「今のところはな」


 冬真が低く言う。

「俺も残る」

 綾人はすぐに首を振った。

「残っても役に立たん」

「言い方」

「事実だ」

 それから少しだけ声を落とす。

「お前は今夜、頭を使え。勢いで動くな」


 冬真は舌打ちしそうな顔をしたが、言い返さなかった。

 たぶん、綾人の言うことが正しいとわかっているのだろう。


「明日」

 綾人が二人を見て言う。

「朝のうちにもう一度集まる。そこで順番を決める」

「順番」

 千歳が繰り返す。


「器を壊す順」

 綾人は答えた。

「鏡、誓詞、供物の証。どれから断つかで返りの流れも変わる」

 そこで一拍置く。

「受け皿に頼らず逃がす道が、まだ残っているかもしれん」

 冬真がわずかに目を細める。

「かもしれない、か」

「可能性があるうちは使う」

 綾人は言い切る。

「ないと決めるのは、そのあとだ」


 その言葉は、千歳にも冬真にも向けられていた。

 一人で決めるな。

 まだ道があるうちに、自分を差し出す話に飛ぶな。

 そういう意味なのだろう。


 千歳は小さく頷いた。

「……わかりました」

「本当に?」

 冬真が横から言う。

「そこ疑う?」

「昨日の今日だからな」


 少しだけむっとする。

 でも否定しきれない自分もいるから、何も言い返せなかった。


 綾人はそれを見て、わずかに息を吐いた。

「頼むから今夜は二人とも勝手なことをするな」

「お前もな」

 冬真が返す。

「私は必要ならする」

「最悪だな」

「知っている」


 そのやり取りを最後に、綾人はまた石段を上っていった。

 残された千歳と冬真のあいだに、夜の冷気を含んだ沈黙が落ちる。


「……帰るか」

 冬真が言う。


 千歳は頷き、並んで歩き出した。


     ◆


 帰り道は、来たときより静かだった。


 呼び声もない。

 鈴の音も、今は聞こえない。

 その静けさが逆に不気味で、千歳は無意識に外套の端を握りしめる。


「寒いか」

 冬真が聞く。


「少し」

「戻ったらすぐ湯を飲め」

「うん」


 短い会話が途切れる。

 少ししてから、千歳は思い切って口を開いた。


「ねえ」

「何だ」

「明日、順番を決めるって言ってたけど」

「……」

「やっぱり、その先も考えてるよね」


 冬真はすぐには答えなかった。

 千歳はその横顔を見る。

 目は前を向いたまま。けれど顎のあたりがほんの少しだけ固い。

 考えているときの顔だ。


「当然だろ」

 やがて返ってきた声は低かった。

「壊すだけで終わる話じゃない」


「……受け皿」

 その単語を出した瞬間、冬真の歩幅がほんのわずかに乱れる。


「千歳」

「ごめん。でも」

 一拍置く。

「避けて通れないでしょ」


 冬真は目を伏せることも、否定することもなかった。

 それが余計に苦しい。


「もし」

 千歳は慎重に言葉を選ぶ。

「もし本当に、最後まで他に方法がなかったら」


 そこで声が少しだけ掠れた。

 冬真は黙っている。


「そのときも、やっぱり一人で決めるつもり?」

 問いというより、確かめるための言葉だった。


 冬真は長く息を吐いた。

「……まだ、そこまで行ってない」

「うん」

「だから今その話をしても意味がない」

「意味あるよ」

 千歳は返す。

「そこを曖昧にしたまま明日に行く方が怖い」


 冬真が足を止めた。

 千歳もつられて立ち止まる。


 村はずれの道だった。

 左右には雪を被った木立。家の灯りも遠い。

 白い地面の上で、二人の吐く息だけが淡く重なっていた。


「お前」

 冬真が低く言う。

「何でそんなに、その先を知りたがる」


 千歳は少しだけ目を見開く。

 そんなこと、決まっている。

 でも、あらためて問われると、胸の奥の柔らかいところが痛んだ。


「……置いていかれたくないから」

 静かに答える。

「また、何も知らないままにされたくないから」

 一拍置く。

「あと」

 冬真が黙って見ている。

 千歳は目を逸らさなかった。

「あなたが、そこを一人で決める顔をしてるから」


 冬真の表情が止まる。

 否定できないのだろう。

 千歳にはわかった。今の自分が図星を突いていることが。


「図星でしょ」

 小さく言うと、冬真は苦い顔をした。

「……厄介だな」

「知ってる」

「本当に」

「そっちも同じでしょ」


 短い応酬。

 けれどそこに昔みたいな軽さはない。

 むしろ、お互いに痛いところを知った上で、まだ離れずに立っている会話だった。


「……一人では決めない」

 やがて冬真が言った。


 千歳は息を呑む。

「え」


「明日、綾人も入れて決める」

 冬真は低く続ける。

「それでいいか」


 それは完全な約束ではない。

 でも、今の冬真から出る言葉としては、思った以上に大きかった。


「……うん」

 千歳はゆっくり頷く。

「それなら」

「ただし」

 冬真が被せる。

「お前が勝手に“じゃあ自分が行けば”って結論に飛んだら、全部なしだ」


 千歳の胸がちくりと痛む。

 図星を刺されたからだ。


「そんな顔するな」

 冬真が言う。

「今、考えたろ」

「……少しだけ」

「だろうな」


 吐き捨てるみたいな口調だったが、その奥にあるのは怒りだけではなかった。

 怖いのだろう。千歳が本当にそこへ行き着くことが。


「でも」

 千歳は低く返す。

「考えるのは止められない」

「結論にするな」

「努力する」

「善処じゃなくて?」

「努力」

「微妙だな」

「そっちこそ」


 ほんの少しだけ、空気がやわらぐ。

 夜の寒さの中でも、それだけは確かだった。


     ◆


 千歳の家へ着く頃には、空気がさらに冷えていた。


 門柱の札は白く浮き、綾人が打ち直した結界が薄く光を帯びているように見える。今夜は呼び声も近くない。けれどだからこそ、嵐の前みたいな静けさが不気味だった。


「入れ」

 冬真が言う。


「うん」

 千歳は頷く。

 でもすぐには門をくぐらず、少しだけ立ち止まる。


「冬真」

「何だ」

「明日」

 一拍置く。

「逃げないでね」


 冬真が小さく眉を寄せる。

「誰が」

「あなた」

「逃げてない」

「いつも肝心なところで濁すから」

「それと逃げるのは別だ」

「似たようなもの」

「ひどい言い草だな」


 そう言う声が、少しだけいつもに近い。

 千歳はそれが嬉しい。

 嬉しいと思う自分が、また少しだけ怖い。


「……でも」

 千歳は静かに続ける。

「明日はちゃんと、一緒に考えたい」

 冬真はしばらく黙っていたが、やがて短く答えた。

「わかった」


 それだけで十分だった。

 千歳はやっと門をくぐる。


 戸口へ向かいかけて、ふと振り返る。

 冬真はまだそこにいた。

 帰るつもりなのだろうに、すぐには背を向けない。

 それが妙に、この数日らしかった。


「……何」

 冬真が聞く。


「別に」

 千歳は少しだけ笑う。

「まだいるなって思っただけ」

「見届けてるだけだ」

「知ってる」


 返すと、冬真はわずかに視線を逸らす。

 千歳はそのまま戸口に手をかけた。


 その瞬間だった。


 頭の奥に、ぱき、と小さな音がした。


 木が乾いて割れるみたいな、妙に鮮明な音。


「っ……」


 思わず額を押さえる。

 視界が揺れる。


「千歳!」

 冬真の声が飛ぶ。


 次の瞬間、雪の白さが急に遠のいた。

 見えているはずの庭も門も薄れて、代わりに別の光景が頭へ流れ込んでくる。


 雪の夜。

 もっと昔の、本殿の裏。

 小さな自分が泣いている。

 目の前には、見慣れた背中――冬真だ。


 その背中の向こうで、誰かが言っている。


 ――この子は駄目だ

 ――まだ早い

 ――代わりなら、いる


 次の瞬間、冬真の腕に赤黒い何かが絡みつく。

 小さな自分はそれを見て、泣きながら何か叫んでいる。

 けれど声が聞き取れない。


 場面がぶつりと切れる。


 千歳ははっと息を呑み、現実へ引き戻された。

 膝が折れそうになる。


「千歳!」

 冬真が目の前にいた。

 気づけば、両肩を支えられている。

 近い。

 近いのに、今はそれを気にする余裕がない。


「……今の」

 千歳の声が震える。

「思い出した」


 冬真の顔色が、目に見えて変わった。

 強張る、では足りない。血の気が引くみたいに、一瞬で色が消えた。


「何を」

 低すぎる声。


「雪の日」

 千歳は荒い息を整えながら言う。

「小さい頃、本殿の裏で……」

 頭がまだ少し痛む。

「あなた、何か引き受けた」


 冬真の指先が肩に食い込む。

 痛いほどではない。けれど、それがどれだけ動揺しているかを伝えてきた。


「千歳」

 声が掠れる。


「やっぱり」

 千歳は彼の顔を見る。

 前からそうだったのだ。

 昨日今日の話じゃない。

 幼い頃から、ずっと。


「前からなの」

 喉が熱い。

「ずっと前から、わたしの代わりに何か受けてたの」


 冬真はすぐには答えなかった。

 それがもう、答えみたいなものだった。


 けれど、完全な真実まではまだ届いていない。

 どれだけ、何を、どこまで引き受けていたのか。

 そこまではまだ見えていない。

 この物語の最後で明かすべき核は、まだ残っている。


 それでも今夜、千歳は確かに一線を越えた。

 冬真の犠牲が“最近のことではない”と知ってしまったのだ。


「……帰れ」

 冬真が、やっとそれだけ言う。

 声がひどく低い。

「今は、もう寝ろ」


「そんなふうに言われて寝られるわけないでしょ」

 千歳の声も震える。

「今の、何だったの」

「……」

「冬真」


 冬真は目を閉じる。

 何かを堪えるみたいに。

 それから、ゆっくり言った。


「明日」

 千歳が息を止める。

「明日、話す」

「本当に?」

「……今夜これ以上は、だめだ」


 それが逃げなのか、限界なのか、千歳には判別できない。

 でも今の冬真の顔を見ていると、これ以上ここで言葉を重ねても、二人とも余計に壊れる気がした。


「約束」

 千歳が言う。


 冬真は一瞬だけ目を閉じ、それから低く頷く。

「約束だ」


 千歳はそれ以上言えなかった。

 戸口に手をかけたまま、ただ一度だけ深く息を吸う。


 明日。

 その言葉が、今夜はひどく重い。


 まだ全部ではない。

 でも、もう子どもの頃から続いていたものに触れてしまった。

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