第2章 第8話:社の奥へ
その夜、村はひどく静かだった。
雪は降っていない。
風もない。
なのに、家々の戸は早くから閉ざされ、灯りはどこか怯えるように低い。まるで村全体が息を潜め、夜の奥にいる何かの機嫌を窺っているみたいだった。
千歳は部屋の中央に立ち、重ね着の襟元を指先で整えた。
外へ出るつもりは、最初はなかった。
そう決めていた。夜は一人で動かない。勝手に行かない。呼ばれても応じない。
自分で約束したことだ。
それでも今、外套を手にしている。
理由はひとつだった。
冬真がいない。
夕方から姿を見ていないわけではない。日が沈む前、門先で短く言葉を交わした。
“今夜は大人しくしてろ”
“何かあったら綾人を呼べ”
そう言って、冬真はいつもより少しだけ目を逸らした。
その瞬間に、千歳はわかってしまったのだ。
今夜、どこかへ行くのだと。
止めたかった。
問い詰めたかった。
でも第2章第7話の口論の直後だったこともあって、そこで無理に引き留めれば、また同じように感情だけが先に立つ気がした。
だからいったん引いた。
引いて、それでも、待つだけでは駄目だと思ってしまった。
机の上には、昼のうちに千歳が整理していた紙がある。
鏡の器。
誓詞。
供物の証。
受け皿。
そこへ、さっきからずっと嫌な予感が重なっていた。
胸の内側がざわつく。
呼び声とは違う。もっと人間的な、けれど確かな違和感。
冬真がまた、自分に何も言わず、危ない場所へ行っているという確信に近いもの。
「……ごめん」
誰に向けるでもなく呟く。
それから千歳は部屋の戸をそっと開けた。
◆
綾人は本殿の手前で立ち止まっていた。
手燭の火が揺れ、石段の下へ細い影を落としている。白い狩衣の袖口には新しい札が何枚も挟まれ、普段の静かな神職の姿より、今夜はずっと戦う人間に近く見えた。
その横で、冬真は息を整えている。
「本当に来ると思わなかった」
綾人が低く言う。
「来ない方が変だろ」
冬真は吐き捨てるように返す。
「今夜を逃したら、明日は村長たちが張りつく」
その通りだった。
三日後まで、もう二日もない。
向こうが待ってくれない以上、こちらも待てない。
「祓殿の器は確認した」
綾人が言う。
「今夜は誓詞の所在を絞る」
「封蔵庫か」
「ああ。社の裏手、古い祭具庫のさらに奥だ」
「面倒だな」
「面倒で済む段階ではない」
綾人はそう言いながら、本殿の裏手へ続く細い通路へ足を向ける。
冬真も後を追った。
夜の社は、昼とは別の場所だった。
建物は同じなのに、木の匂いも、石の冷たさも、全部が少しずつずれている。誰もいないはずなのに、視線だけがどこかにある。歩くたび、見えない水の上を踏んでいるような嫌な感覚が足元を這った。
社の裏手には、小さな蔵が半ば山肌へ埋まるように建っている。
正面からでは見えにくい場所だ。
村人でも、この存在を詳しく知る者は少ないだろう。
綾人が戸の前に札を置き、低く言葉を落とす。
「開け」
札の文字が赤く揺れた。
次の瞬間、古びた錠がひとりでに外れ、戸が軋みながら内側へ開く。
冷たい空気が流れ出る。
蔵の中は真っ暗だった。
「先に言っておく」
綾人が火を掲げながら言う。
「ここは記録そのものより、契約に関わる“現物”が置かれている」
「つまり」
冬真が眉を寄せる。
「見たくないものの詰め合わせか」
「だいたい合っている」
中へ入る。
壁際には木箱が積まれ、棚には巻物や古い奉納具が並んでいた。鈴、鏡、榊立て、塗りの剥げた器。
どれも時間の重さだけでは説明できない澱みをまとっている。
綾人は最奥の棚へ向かい、ひとつの箱を下ろした。
箱の蓋には、薄れた筆で
**誓文・継**
と記されている。
「これか」
冬真が問う。
「たぶんな」
綾人が答え、蓋を開けた。
中には巻物が三本。
そのうち一番古いものは布が半ば朽ち、紐も色を失っていた。
綾人が慎重に取り出し、床へ広げる。
手燭の光が揺れ、古い文字列が浮かぶ。
――山守の恩に対し
――村ひとつ、血ひとつ、名ひとつ返す
――豊穣と安寧の代として
――代を絶やさず、娘を絶やさず
――継ぐ者これを背くべからず
冬真の胸の奥に、冷たい怒りが沈んだ。
「最悪だな」
「まだ下がある」
綾人が巻物の端を押さえながら言う。
欄外。本文よりも新しい筆跡が、いくつも重なっていた。
代々の村長や神職が書き足したものだろう。
――凶年に際し、返納を前倒す
――供物不足の年、血筋より選ぶ
――器にひび入るも契約継続
――名の継承を絶やさぬこと
――返りは社にて一時留めるべし
「返り」
冬真が低く繰り返す。
「受け皿の話か」
「一部だ」
綾人は頷いた。
「見ろ、ここだ」
さらに下の、小さく追記された箇所を指す。
――器壊れし時、返りを受くる者要る
――受くる者なければ、村へ病として返る
――受くる者、血近きほど効く
その一文を見た瞬間、冬真の喉が強く詰まる。
血近きほど効く。
つまり千歳に近い者。
千歳に向かうものを長く引き受けてきた者ほど、受け皿として適してしまう可能性がある。
綾人も同じ結論に至ったらしい。
無言のまま、ゆっくり冬真を見る。
「……やめろ」
冬真が先に言う。
「何も言うな」
「言わずに済むと思うか」
綾人の声は低かった。
「お前が今までやってきたことを考えれば、最悪の形で条件を満たしている」
冬真は奥歯を噛み締める。
わかっていた。
心のどこかでは、最初からそうかもしれないと思っていた。
千歳へ向かう穢れを逸らし、引き受け、身体に蓄積してきた。
それがまさか、そのまま“受け皿”としての条件へ繋がるなら――こんな皮肉もない。
「だから何だ」
冬真は低く返す。
「使えるなら使うだけだ」
綾人の目が険しくなる。
「本気で言っているのか」
「冗談に聞こえるか」
「お前ひとりの命で済む話ではない」
「千歳は行かせない」
「その後の話をしている!」
綾人の声が、蔵の中で強く響いた。
「受ければ終わりではない」
抑えきれない感情を含んだ声だった。
「死ぬだけならまだましだ。記憶が抜ける、名が削れる、最悪は“器の代わり”になる」
冬真の背筋が冷える。
「そうなれば、お前自身が次の結び目になる可能性すらある」
その言葉は想像以上に重かった。
ただ壊れて終わるのではない。
自分が次の器になるかもしれない。
それはつまり、千歳を救うために選んだはずの行為が、別の形でまた彼女を縛る可能性があるということだ。
「……だったら」
冬真は掠れた声で言う。
「他の方法を探すしかない」
「ようやくまともなことを言ったな」
綾人が吐き捨てる。
短い沈黙。
そのときだった。
外で、からん、と鈴が鳴る。
二人の空気が一瞬で張り詰める。
遠くではない。すぐ外だ。
「誰かいる」
冬真が低く言う。
綾人が手燭の火を落とす。
蔵の中が半ば闇へ沈んだ。
戸の隙間から、外の月のない白さだけが細く差し込む。
雪を踏む音。
一歩。
また一歩。
冬真は無意識に札へ手を伸ばし――そこで、その足音の軽さに気づく。
村長でも、老神職でもない。
綾人も同じことに気づいたらしく、低く舌打ちした。
「……まさか」
次の瞬間、戸の外から声がした。
「冬真」
千歳だった。
冬真の頭が一瞬、真っ白になる。
「何してる!」
思わず怒鳴るように言ってしまう。
戸を開けると、そこに千歳が立っていた。外套を羽織り、頬を夜気で冷たくして、けれど目だけは逸らしていない。
「言ったよね」
千歳が言う。
「一人で行くなら、行くって言ってって」
冬真は返す言葉を失う。
綾人が背後で深く息を吐いた。
「来ると思ってた」
小さく言う。
「だから私は先に止めろと言ったんだ」
「綾人さんは知ってたの?」
千歳が問う。
「止めるつもりだった」
綾人は淡々と答える。
「だが、お前は思ったより早かった」
千歳はもう一度、冬真を見る。
「勝手に行かないって、約束してない」
「そういう意味じゃない」
「でも言わなかった」
その一言は静かだった。
怒鳴りも泣きもしない。だから余計に痛い。
「……戻れ」
冬真が低く言う。
「だめ」
「千歳」
「もう、そこから始めるのやめて」
蔵の前、夜の冷気の中で、千歳は一歩だけ踏み込む。
「危ないのはわかる」
「わかってない」
「わかってるよ!」
そこで初めて、声が少しだけ尖る。
「わかってるから怖いし、来たくなかった」
一拍置く。
「でも、来ない方がもっと怖かった」
冬真の胸が軋む。
その言葉は、ずっと前から彼女が抱えてきたものの延長だ。
知らないまま置いていかれる怖さ。
遠ざけられたまま、自分だけ何も知らされない怖さ。
だが今夜ここにいることは、明らかに危険だった。
「お前」
冬真は低く言う。
「何を見た」
千歳は戸の隙間から蔵の中を見た。
床に広がる巻物。
古い誓文。
綾人の顔。
冬真の強張った横顔。
「全部は見てない」
答える。
「でも、十分」
綾人が顔をしかめる。
冬真は一歩で距離を詰めようとして――そこで左腕に痛みが走り、わずかに足を止めた。
その一瞬を、千歳は見逃さなかった。
「……また」
小さく息を呑む。
「また、一人で受けるつもりだったんでしょ」
「まだ決まってない」
冬真が返す。
「完全に嘘ではない、ってやつ?」
千歳の声は静かだった。
それが逆に、どれだけ本気で怒っているかを示していた。
冬真は言葉を詰まらせる。
綾人が口を開く前に、千歳は続けた。
「聞こえた」
冬真の目が細くなる。
「……どこから」
「最後の全部じゃない」
千歳は正直に言う。
「でも、“受ければ終わりじゃない”ってところは聞こえた」
喉の奥が少し震える。
「“器の代わりになるかもしれない”って」
沈黙。
それ以上誤魔化すことはできなかった。
冬真も綾人も、誰もすぐには言葉を返せない。
「それで」
千歳はゆっくりと問う。
「まだ、一人でやるつもりだったの」
冬真はまっすぐ千歳を見る。
逃げられない問いだった。
「……お前を行かせるよりは」
そこで言葉が止まり、千歳の胸がひどく痛む。
やはりそうだ。
この人は比べている。
自分が供物になることと、自分が壊れることを。
そして勝手に、後者の方がましだと決めている。
「違う」
千歳は首を振る。
「それ、ましじゃない」
「お前は死なない」
冬真の声が低く落ちる。
「だから何」
思わず言葉を被せる。
「わたし、そのあとで平気だと思うの?」
息が熱い。
「冬真がいなくなって、何かも忘れて、別のものになって、それでも“助かっただろ”って言うつもり?」
返事はない。
「そんなの、助かったって言わないよ」
その一言に、冬真の顔がはっきりと歪んだ。
痛みか、怒りか、その両方か。
綾人が低く言う。
「二人とも落ち着け。ここで言い争っている場合ではない」
「でも」
千歳が言い返す。
「今ここで止めないと、この人また一人で決める」
その指摘に、綾人すら否定しなかった。
冬真はしばらく黙っていた。
やがて、ひどく掠れた声で言う。
「……じゃあどうする」
その問いは千歳に向けられていた。
「何」
「お前を行かせない」
冬真は一語ずつ押し出すように言う。
「俺も受け皿にならない。村は三日後に儀をやる。向こうは待たない」
一歩、千歳へ近づく。
「その全部をどうする」
それは正論だった。
綺麗事では返せない問い。
千歳もわかっている。
感情だけで道が開くわけではない。
それでも。
「一人で決めない」
千歳は言った。
「まず、それ」
冬真の眉が寄る。
「綺麗事だな」
「そうかもしれない」
千歳は頷く。
「でも、勝手に自分を差し出すのと同じくらい必要だと思う」
一拍置く。
「それに、まだ三つ全部揃ってないんでしょ」
綾人が目を細める。
「誓詞はここにある。器もある。残るのは供物の証」
「それを探す」
千歳は言う。
「受け皿の話に行く前に、まだやることがある」
冬真が何か言いかけて、止まる。
その沈黙が、少しだけ変わった。
さっきまでの“止めたい”だけではない。
考えている。
千歳の言葉を、ちゃんと考えている沈黙だった。
「……危ないぞ」
ようやく出たのは、そんな言葉。
「知ってる」
「今も十分危ない」
「知ってる」
「わかってるように見えない」
「わかってるから来た」
千歳は一歩も引かなかった。
怖い。
本当はすぐにでも帰りたいくらい怖い。
でも今、ここで引いたら、また冬真が一人で背負う方へ戻ってしまう気がした。
そのとき、蔵の奥で、かさり、と小さな音がした。
三人の視線が一斉にそちらへ向く。
巻物の箱のさらに奥、壁際に積まれた祭具の陰で、何かが光を返した。
綾人が手燭を持ち上げる。
そこには、小さな木札がひとつ、半ば落ちるように差し込まれていた。
「……何だ」
冬真が低く言う。
綾人が慎重に近づき、木札を取り上げる。
表には古びた文字で、たった一行。
――名代・白椿
千歳の胸が大きく鳴る。
白椿。
幼い頃から、自分の家の紋の脇に必ず添えられていた花の印。
冬のあいだだけ、千歳の晴れ着にも刺繍される花。
「これ」
千歳が掠れた声で言う。
「うちの印……」
綾人の顔色が変わる。
「供物の証、か」
冬真の目が鋭くなる。
「どういうことだ」
「供物本人そのものではなく」
綾人は木札を裏返す。
裏にはさらに小さな文字列が刻まれていた。
「血筋と名を代々“証”として保存していたんだろう。これがあれば、供物の身そのものを壊さずとも契約を認証できる」
千歳は息を呑む。
つまり、自分はもうただの娘ではない。
名も血も、こうして“記号”としてどこかに保管されてきたのだ。
「気持ち悪い……」
思わず漏れる。
冬真がその声を聞き、少しだけ顔をしかめた。
「触るなよ」
「触らない」
「絶対だ」
「今のは本当に触りたくない」
それは本心だった。
木札は小さいのに、見ているだけでぞっとする。
自分の存在が、こんなふうに管理され、繋がれ、差し出される前提で保管されていたのだと知ることは、文書庫の記録とはまた違う気味の悪さがあった。
「これで」
冬真が低く言う。
「三つ目も見つかった」
綾人が頷く。
「鏡の器」
「誓詞」
「供物の証」
一つ一つ数える。
「全部揃った」
その言葉に、蔵の空気が重く沈んだ。
揃った。
それは希望でもある。
同時に、次の段階へ進まなければならないという意味でもあった。
「……じゃあ」
千歳が慎重に問う。
「壊せるの」
綾人は木札を手にしたまま、ゆっくり言う。
「理屈の上ではな」
「理屈の上では、か」
冬真が呟く。
「問題は」
綾人の視線が、二人の間を一度行き来する。
「壊したあとだ」
またそこへ戻る。
受け皿。
返り。
代償。
千歳は胸の奥が冷えるのを感じながら、それでも今度は逃げなかった。
「だったら」
低く言う。
「その“あと”を、一人で決めさせない」
冬真が振り向く。
「もうそこまで来たら」
千歳は続ける。
「わたし、自分だけ部屋で待ってるの無理」
一拍置く。
「怖いままでも、ちゃんと知る」
冬真はすぐには何も返さなかった。
けれど否定もしなかった。
綾人が小さく息を吐く。
「……面倒な二人だ」
「今さらだ」
冬真が返す。
「同感」
千歳も小さく言う。
その返しに、綾人は珍しくほんの少しだけ口元を緩めた。
「なら、明日までに決める」
「何を」
冬真が問う。
「壊す順番と、返りの逃がし方だ」
綾人は言う。
「受け皿という形だけに頼らない道が、まだ残っていないかを探る」
「もしなかったら」
千歳が問う。
綾人は答えず、ただ木札を見下ろした。
その沈黙は、明確な否定より重かった。
蔵の外で、からん、と鈴が鳴る。
近い。
だが今夜は、そこへ応じる者はいない。
千歳は木札から目を離し、冬真を見た。
冬真もこちらを見ている。
前よりずっと深い場所で、同じものを見てしまった目だった。
「……帰るぞ」
冬真が低く言う。
「今夜はこれ以上長居しない」
千歳は頷いた。
怖さは消えていない。
むしろ増している。
でももう、知らないままではいられない。




