第2章 第7話:勝手に差し出さないで
夕方の空は、雪より先に冷えていた。
千歳は縁側の障子を細く開け、外の色を見ていた。
昼のうちはまだ曇り空の向こうに白さがあったのに、日が傾き始めると村は急に暗くなる。家々の屋根の影が長く伸び、山の端だけが鈍く沈んで見えた。
三日後まで、あと二日。
その現実が、朝よりも夕方の方が重く感じられる。
夜が近づくたび、呼び声も、儀も、契約も、全部こちらへ歩み寄ってくる気がするからだ。
机の上には、文書庫で見た内容を自分なりに書き留めた紙があった。
返納録。
供物の記録。
器。
誓詞。
受け皿。
知らないままでいるのが怖くて、少しでも整理したくて、綾人に聞いた断片や自分が覚えていることを並べてみた。
だが紙の上に言葉を置けば置くほど、逆にひとつの考えへ引っ張られていく。
契約を壊すには代償がいる。
壊したあとに流れ込むものを、何かが受けなければならない。
それはつまり、誰かが引き受けるということだ。
誰か。
そう書きながら、千歳の頭には最初から一人しか浮かばなかった。
「……やだな」
小さく呟く。
嫌なのに、そこへ考えが戻ってしまう。
冬真が何も言わないほど、それはきっと当たっている気がしてしまうからだ。
障子の外で、雪を踏む音がした。
千歳は反射的に立ち上がる。
戸を開けると、思った通り冬真がいた。外套を羽織り、少しだけ肩を落としている。顔色は昨日よりさらに悪い気がした。
「……来ると思った」
千歳が言う。
冬真は少しだけ眉を寄せる。
「それ、最近よく言うな」
「本当だから」
「便利な言葉だな」
「そっちが言う?」
少しだけ、いつものやり取りになる。
けれど冬真の呼吸がわずかに浅いことに気づいた瞬間、千歳の胸はすぐに重く沈んだ。
「入って」
千歳が言うと、冬真は素直に頷いた。
◆
部屋に入っても、冬真はすぐには座らなかった。
まず窓の札を見て、戸口を見て、机の上の紙に視線を止める。
その瞬間、千歳はしまった、と思った。
「何書いてる」
冬真の声が低く落ちる。
「……整理してただけ」
「何を」
「文書庫で見たこととか」
千歳は机の前へ半歩寄る。
隠すには遅い。紙の上には“受け皿”の文字がはっきり残っている。
冬真がそれを見て、顔をしかめた。
「余計なことするな」
「余計じゃないよ」
千歳はすぐに言い返す。
「わたしのことなんだから」
「それと一人で考え込むのは別だ」
「考えない方が無理でしょ」
冬真は机の紙を取ろうとした。
千歳は反射でその手を押さえる。
触れた瞬間、冬真の肩が小さく強張った。
その反応に千歳の胸が痛む。けれど手は離せなかった。
「待って」
「離せ」
「いや」
「千歳」
「今、隠そうとした」
冬真の目が細くなる。
千歳はその目を逸らさないまま言った。
「また、何も考えるなって言うつもりでしょ」
「そうじゃない」
「そうだよ」
千歳の声が少しずつ熱を持つ。
「何回もそうだった。危ないから、まだだ、今は無理だって」
一拍置く。
「でもそのたびに、あなた一人で先に進む」
冬真は何も言わない。
沈黙が、肯定みたいで腹が立つ。
「文書庫でも」
千歳は続ける。
「昨日の夜も、今日もそう」
「必要なことだ」
冬真が低く返す。
「必要なら何でもしていいの?」
「そうは言ってない」
「言ってるのと同じ」
千歳は手を離さないまま、もう一歩だけ近づく。
「受け皿のこと、やっぱりそうなんでしょ」
冬真の指先がぴくりと動く。
その反応だけで、千歳には十分だった。
「……何が」
掠れた声。
「あなたが受けるつもりなんでしょ」
はっきり言った途端、部屋の空気が変わった。
冬真の顔から、ほんのわずかに色が抜ける。
否定しない。
その沈黙だけで、千歳の背筋が冷える。
「やっぱり」
声が震える。
「やっぱり、そう考えてる」
「千歳」
「違うって言わないんだ」
「今は」
「今は、じゃない!」
千歳は思わず声を上げた。
障子がかすかに震える。
けれどもう、抑えられなかった。
「わたしに一人で決めるなって言ったくせに」
喉の奥が熱い。
「あなたの方が、ずっと勝手に決めてる」
「……」
「守るって言いながら、自分のことは勝手に差し出してるじゃない!」
その言葉が落ちた瞬間、冬真の表情がはっきり変わった。
「差し出してない」
低い声だった。
「してるよ」
千歳は返す。
「死ぬかもしれないこと、自分だけで受けるつもりなら、それは同じだよ」
「同じじゃない」
「何が違うの」
「お前を行かせるよりましだ」
吐き出されたその一言に、千歳は一瞬言葉を失う。
それが本音だ。
飾らない、冬真の本音。
だからこそ、余計に苦しかった。
「……それで」
千歳はやっとのことで声を出す。
「あなたがいなくなったら、わたしは平気なの?」
冬真が黙る。
「平気じゃないよ」
千歳は言った。
「全然ましじゃない」
一歩分だけ、さらに近づく。
「わたしが行くのも嫌。あなたがいなくなるのも嫌」
視界の端が少し熱い。
「なんでそれを、勝手に比べて片方だけ選ぶの」
冬真の呼吸が乱れる。
怒っているのか、痛みのせいか、千歳にはもう判別がつかなかった。
「じゃあどうしろって言うんだ」
冬真の声が少しだけ荒くなる。
「何もしないで、三日後を待てって?」
「そんなこと言ってない!」
「他に道がないなら、俺が受けるしかないだろ」
「だから」
千歳の声も鋭くなる。
「その“しかない”を、一人で決めるなって言ってるの!」
はっとするほど大きな声だった。
その反響のあと、部屋に急な静けさが落ちる。
冬真は何も言わない。
千歳も、肩で息をしていた。
言いすぎたかもしれない。
でも引っ込めたくなかった。
ここで飲み込んだら、本当にこの人は何も言わずに全部決めてしまう気がした。
「……わたし」
千歳は少しだけ声を落とす。
「怖いんだよ」
冬真の目が、ほんの少しだけ揺れる。
「儀も怖い」
千歳は続ける。
「呼ばれるのも、記録を見るのも、三日後も、全部怖い」
膝がわずかに震える。
「でも、今いちばん怖いのは、あなたが何も言わないままいなくなること」
その言葉に、冬真は目を伏せた。
沈黙が長い。
それだけで、千歳の胸はまた痛む。
「……いなくならない」
やがて、冬真が低く言う。
「信じたい」
千歳はすぐに返した。
「でも信じきれない」
一拍置く。
「だって、あなた、自分がどこまで壊れてるかもちゃんと言わない」
冬真はわずかに奥歯を噛んだ。
左腕の包帯の下で、痣が熱を持つ。
その反応が目に見えるようで、千歳は息を呑む。
「冬真」
「……何だ」
「お願いだから」
千歳はまっすぐ言う。
「自分を差し出す方で、話を終わらせないで」
それは懇願だった。
でも、懇願だけではなく、拒絶でもあった。
自分が供物になることを拒むのと同じくらい、冬真が勝手に犠牲になることも拒みたい。
冬真は長く、長く黙った。
その間、千歳は逃げずに見つめ続けた。
「……お前は」
ようやく出た声は、ひどく掠れていた。
「本当に面倒だな」
千歳は少しだけ目を見開く。
「何それ」
「簡単に諦めてくれない」
「諦めてほしいの?」
「してほしくない」
間髪入れず返ってきて、今度は千歳が言葉を失う。
冬真は視線を逸らさないまま続けた。
「でも、諦めないくせに、自分から差し出そうともする」
「……」
「そういうところが面倒だ」
責めているはずなのに、そこに混じる熱は責めるだけのものではなかった。
千歳は胸の奥がぎゅっと縮むのを感じる。
「そっちも同じでしょ」
やっと返すと、冬真はほんの少しだけ口元を歪めた。
「知ってる」
「知ってるなら」
「簡単には直らない」
その返答が、ひどく冬真らしくて、千歳は泣きそうになりながら少しだけ笑ってしまう。
けれど笑った次の瞬間、冬真の肩が大きく揺れた。
「……っ」
低い息。
身体がぐらつく。
「冬真!」
千歳は反射で手を伸ばす。
今度は止めなかった。止められなかった。
肩を支えた瞬間、冬真の全身がびくりと強張る。
近づけば痛む。
その事実が、触れた途端に現実になる。
「離れろ」
冬真が低く言う。
「いや」
「千歳」
「今はいや」
千歳は肩を支えたまま言い切った。
腕を通して、冬真の熱と震えが伝わってくる。平気だと言っていた身体の、どこが平気なのかと思う。
それでも、ここで離れたらまた同じだと思った。
「ちょっとだけ」
千歳は息を詰めながら言う。
「ちょっとだけだから」
「……」
「こういうときくらい、支えさせて」
冬真は何も言わなかった。
拒絶もしない。
ただ、苦しそうに目を閉じて呼吸を整えようとしている。
千歳はその横顔を見て、胸の奥がひどく痛んだ。
守られているのに。
守られてきたのに。
この人は、こんな顔をどれだけ一人でしてきたのだろう。
「……ごめん」
思わず零れる。
冬真が目を開ける。
「だから謝るな」
「でも」
「お前が謝ると、余計に腹立つ」
「ひどい」
「事実だ」
その短いやり取りのあと、冬真はようやく自分で姿勢を立て直した。
千歳はゆっくり手を離す。
離す瞬間、指先に少しだけ名残惜しさのようなものが残って、自分で驚く。
「……今の」
冬真が掠れた声で言う。
「反則だろ」
「何が」
「そうやって、泣きそうな顔で言うの」
「泣いてない」
「泣きそうだった」
「そっちがひどい顔してるからでしょ」
冬真は答えず、壁に背を預ける。
そのまましばらく呼吸を整え、それからゆっくりと言った。
「受け皿のことは」
千歳の心臓が跳ねる。
「今は、まだ決めてない」
それが本当かどうか、千歳にはわからなかった。
でも少なくとも、“もう自分で決めた”と言われるよりずっとましだった。
「……ほんとに?」
問うと、冬真は少しだけ目を細める。
「完全に嘘ではない」
「その答え方ずるい」
「知ってる」
小さなやり取りが、また少しだけ空気を戻す。
完全には戻らない。
でも、壊れたままでもない。
「じゃあ」
千歳はゆっくり言う。
「決める前に、言って」
冬真が黙る。
「勝手に決めないで」
「……」
「お願い」
冬真は長く沈黙した。
そのあと、ようやくほんの少しだけ頷く。
「……善処する」
千歳は思わず目を細める。
「微妙」
「これが限界だ」
「でも、前よりはちょっとだけ進歩」
「うるさい」
そのやり取りの奥で、行灯の火が小さく揺れた。
外では風もないのに、札が一枚だけかすかに鳴る。
勝手に差し出さないで。
その言葉は、まだ冬真の中で完全に受け止められてはいないだろう。
でも、もう前みたいに一人で決めきれる段階でもない。
千歳がそれを拒んだからだ。
怒って、泣きそうになって、それでも離れずに言葉を投げたからだ。
部屋の空気はまだ重い。
儀は近い。
契約も、代償も、何一つ解決していない。
それでもこの夜、二人は初めて、同じ“拒絶”を口にした。
千歳は供物になることを。
冬真は千歳を行かせることを。
そして千歳は、冬真が勝手に犠牲になることまで拒んだ。
それは前へ進んだ一歩であり、同時に、もっと大きな衝突の始まりでもあった。




