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冬の底で君を呼ぶ  作者: 最後に残った形


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第2章 第6話:見えないところで壊れていく


 朝は、曇りのまま明けた。


 千歳はほとんど眠れないまま布団を出た。

 夜のあいだ、何度も目を閉じては開けた。呼び声は前ほど近くなかった。けれど完全に消えたわけでもない。耳の奥に、湿った気配だけがずっと残っていた。


 それでも昨夜は、応じなかった。

 ちゃんと踏みとどまった。

 そのことだけが、今の自分をぎりぎり支えている。


 障子を少しだけ開ける。

 外の空気は冷たい。灰色の空の下、門柱の札が白く浮いて見えた。朝の村は一見いつも通りだ。煙突から細い煙が立ち、道では誰かが雪を払っている。

 けれど、もう以前の“いつも通り”ではないことを、千歳は知っている。


 自分の家の周囲だけ、どこか空気が違う。

 人の視線が一瞬長く留まる。

 戸口の前を通るときだけ、声が少しだけ潜む。

 そういう細かい違和感が、全部、自分の立場を教えてくる。


「千歳」

 背後から志乃の声がした。


 振り返ると、母は盆に湯呑みを二つ乗せて立っている。

「起きてたのね」

「うん」


 志乃は部屋へ入り、湯呑みを机へ置いた。

 湯気が静かに立ちのぼる。温かい匂いがして、それだけで少しだけ胸がゆるむ。


「眠れた?」

 問われて、千歳は少し迷う。

「……あんまり」

「そうよね」


 否定されない答えが、今はありがたかった。


 志乃は机の向こうへ座り、しばらく湯呑みを見つめていた。

 その横顔にも、昨日までより深い影がある。

 千歳は胸の奥に小さな痛みを感じた。


「ねえ、お母さん」

「なあに」

「冬真、今日来るかな」


 聞いてから、自分で少しだけ顔が熱くなる。

 こんなときに何を聞いているのだろうと思う。けれど、聞かずにいられなかった。


 志乃は少し目を丸くして、それから困ったように笑った。

「来るんじゃないかしら」

「なんで」

「だって、昨日からのあの子、来ない方が無理そうだったもの」


 千歳は何も言えなくなる。

 たしかにそうだった。

 来るつもりが顔に出る人だ。隠し事はするのに、心配していることだけは妙に滲む。


「……そういうとこ、昔から変わらないね」

 小さく零すと、志乃は頷く。

「変わらないわね」

 それから少しだけ言葉を選ぶように間を置く。

「でも、変わったところもある」


「何が?」

「ずっと、無理の仕方がひどくなった」

 その言い方に、千歳の指先がわずかに強張る。

「小さい頃は、怪我しても転んでも、まだ子どもの無茶だったのよ。でも今は……」

 志乃は視線を伏せる。

「自分を削ることに、慣れすぎてる顔をしてる」


 胸の奥に冷たいものが落ちる。

 自分だけじゃない。母も同じものを見ていたのだ。


 冬真の腕の痣。

 平気だと言う声。

 でも、少しでもこちらが近づけばすぐに崩れそうな気配。


 千歳は思わず湯呑みへ手を伸ばした。

 温かさが、冷えた指にゆっくり移る。


「わたし」

 ぽつりと言う。

「昨日、文書庫に行ってよかったって思ってる」

 志乃が顔を上げる。

「怖かったけど、知らないままの方がもっと怖かった」

 一拍置く。

「でも、知ったからって楽になるわけじゃないんだね」


 志乃は静かに頷いた。

「そうね」

「むしろ苦しくなることもある」

「あるわ」


 その一つ一つが、柔らかくて痛い。

 今まで曖昧にされてきたものを、母は今、きちんと曖昧にせず返してくれている。


「冬真くんのことも?」

 静かに問われて、千歳の呼吸が止まりかける。


「……うん」

 否定する意味はなかった。


「何も知らないよりは、今の方が本当は近いのかもしれない」

 千歳は自分の気持ちを探るみたいに、ゆっくり言葉を置く。

「でも、知った分だけ、あの人がどこまで壊れてるのか考えちゃう」


 志乃はすぐには返さなかった。

 やがて、小さく息を吐く。

「それを考える相手がいるって、つらいわよね」


 つらい。

 その一言が、妙にしっくりきた。

 怖いとか、心配とか、そういう名前もある。けれど今の感情は、たしかにそれだけでは足りない。


     ◆


 昼前、冬真は本当に来た。


 門の向こうに立つ姿を障子越しに見つけたとき、千歳は自分でも驚くほど早く立ち上がっていた。

 そのあとで、慌てて歩みを少しだけ抑える。

 そんなふうに急いだところを見られたくなくて。


 けれど障子を開けた瞬間、そんな見栄はあまり意味がないとわかった。

 冬真の顔色が、昨夜より悪い。


「……何その顔」

 思わず出たのはそれだった。


 冬真は少しだけ眉を寄せる。

「お前に言われたくない」

「そういうことじゃなくて」


 千歳は思わず一歩出て、それからはっとして足を止める。

 近づけば痛むかもしれない。

 そのことが、もう反射みたいに身体へ染みついていた。


 冬真もその動きを見たらしく、わずかに目を細めた。

「何だよ」

「……何でもない」

「嘘」

「そっちこそ」


 少しの沈黙。

 それから冬真が門の内側へ入り、視線だけで家の周囲を確かめる。

 札の位置、井戸の方角、窓の閉まり。

 それが済んでからようやく、千歳を見た。


「異常は」

「今のところない」

「呼び声は」

「夜に少しだけ」

「応じたか」

「してない」

 千歳が言うと、冬真は短く頷いた。

「ならいい」


 その“ならいい”が、少しだけ嬉しくて、少しだけ苦しい。

 褒められたいわけではない。

 でも、あの人にとって意味のあることができたと思うと、胸の奥が微かに温かくなる。


「入る?」

 昨日と同じように尋ねると、冬真は少しだけ視線を逸らした。

「少しだけ」


 部屋へ通す。

 千歳は先に入り、冬真はその後を追う。

 以前よりずっと気を遣った距離で、二人は向かい合うように座った。


「……顔色、本当に悪いよ」

 千歳が言う。


「平気だ」

「もうその台詞、信用ないって何回言わせるの」

 少し強く返すと、冬真はわずかに息を吐いた。

「寝てないだけだ」

「昨日もそんなこと言ってた」

「事実だ」

「じゃあ、なんで寝てないの」


 問うた瞬間、答えは半分わかっていた。

 怪異のせい。

 調査のせい。

 自分のせい。

 たぶん、その全部だ。


 冬真はしばらく黙っていたが、やがて低く言う。

「……夜に動いた」

「綾人さんと?」

「ああ」

「何を見たの」

「千歳」

「全部は無理でも、って言った」

 千歳は遮る。

「そこ、もう何回も言わせないで」


 冬真は一瞬だけ目を閉じる。

 それは苛立ちではなく、諦めに近い仕草だった。

 やがてゆっくり言う。


「契約を切るための器の一つを見た」

 千歳の背筋が伸びる。

「本当にあるんだ」

「ああ」

「壊せば終わるの?」

「終わらない」

 その答えは、文書庫のときと同じだった。

「少なくとも三つ結び目がある」


「そのうちの一つ」

「昨日の空洞で、ひびが入った」

「……ひび」

「それで向こうも焦ってる」


 千歳は息を呑む。

 自分の知らないところで、そんな危険な場所へ行っていたのだ。

 昨夜、自分に“一人で行かない”ようなことを言いながら。


「冬真」

 低く呼ぶ。


「何だ」

「昨日の夜、また一人で行ったんだね」

 冬真は何も言わない。

 その沈黙で十分だった。


「ねえ」

 千歳の声が少しだけ強くなる。

「わたしに一人で動くなって言うのに、自分はやるんだ」


「必要だった」

「それ、答えになってない」

「答えてる」

「答えてないよ!」


 思った以上に声が大きくなって、千歳は自分でも驚いた。

 けれど止まらなかった。


「必要だったら何してもいいの?」

「そんなこと言ってない」

「言ってるのと同じ」

 呼吸が少し乱れる。

「昨日だって、文書庫で何か隠してた」

「……」

「今も、たぶん全部は言ってない」


 冬真は視線を逸らさない。

 それが余計につらい。

 見つめたまま、でも全部は渡さないのだとわかるから。


「千歳」

 低く名前を呼ばれる。


「何」

「お前を危ない場所に連れていけないこともある」

「それはわかる」

「なら」

「でも、それと勝手に消耗することは別でしょ」


 その一言に、冬真の表情が少しだけ止まった。


 千歳は胸の奥が熱くなるのを感じる。

 怒っている。

 怖さだけじゃない。ちゃんと怒っている。

 隠されたことにも、置いていかれたことにも、何よりこの人が自分の傷を軽く扱うことに。


「わたし」

 言葉を探しながら続ける。

「全部を知りたいって言ってるわけじゃない」

 一拍置く。

「でも、あなたが黙ったまま壊れていくのを見てるだけなのは嫌だって、昨日言った」


 冬真は黙る。

 千歳の方も、そこから先の言葉が少しだけ詰まった。


「置いて行きたくないって」

 やっと絞り出す。

「言ったのに」


 その一言が落ちた途端、部屋の空気が変わった。


 冬真の指先が、膝の上でわずかに強張る。

 表情そのものは大きく変わらない。けれど、ほんの少しだけ息の仕方が変わったのがわかった。


「……置いていってない」

 かすれた声。


「行った」

 千歳は言い切る。

「昨日の夜、わたしに言わずに」


 静かだった。

 怒鳴ってはいない。

 けれどだからこそ、言葉の端が鋭くなる。


「必要だった」

 冬真が繰り返す。

「向こうが待ってくれない」

「それはわかる」

「なら」

「だからって、自分が先に壊れることまで含めて勝手に決めないでって言ってるの!」


 言い切った瞬間、喉が少しだけ熱くなる。

 泣きそうではない。悔しさに近い熱だった。


 冬真は数秒、何も言わなかった。

 やがて低く息を吐く。


「……悪い」

「それも違う」

 千歳はすぐに首を振る。

「謝ってほしいんじゃない」

「わかってる」

「わかってないよ」


 言葉が重なる。

 冬真はそこで、ほんの少しだけ口を閉ざした。


「じゃあ何だ」

 やがて掠れた声で問う。


 千歳は答えに詰まる。

 何を求めているのか。

 全部話してほしいのか。

 無茶をやめてほしいのか。

 そばにいてほしいのか。

 どれも本当で、どれも一度には叶わない気がした。


「……せめて」

 千歳は小さく言う。

「行くなら、行くって言って」


 それはとても小さな要求だった。

 でも今の千歳には、たぶんそれが限界だった。


「止められても行くんだろうなって、わかる」

 自分で言いながら、胸が痛くなる。

「でも、何も言わずにいなくなるよりは、ずっといい」


 冬真は顔を上げた。

 千歳を見たまま、しばらく黙る。


「……約束はできない」

 やがて、いつものように不器用な答えが返ってくる。


 千歳は思わず目を伏せた。

 やっぱり。

 そう思ってしまう自分が嫌だった。


「でも」

 冬真が続ける。


 千歳は顔を上げる。


「できるだけ、言う」

 それは綺麗な約束ではなかった。

 曖昧で、不安が残る言い方だった。

 でも、これまでの冬真なら、そこまで言わなかった。


「……ほんとに?」

 思わず問う。


「嘘ついて得する話じゃない」

「でも、あなた嘘つくじゃん」

「ひどいな」

「事実」


 そのやり取りのあと、冬真の口元がほんの少しだけ動く。

 今度は見間違いではなく、たしかに小さく笑った。


「そこまで言うなら」

 冬真は低く続ける。

「次に動くときは、少なくとも綾人経由でも何でも、お前にわかる形にはする」

「少なくとも、って何」

「そこに食いつくな」

「食いつくよ」


 少しだけ、空気がやわらぐ。

 ほんの少しだけ。

 けれど、その少しが今はすごく大きかった。


 千歳はその温度に少しだけ息を吐いた。

 完全に納得したわけではない。

 でも、昨日よりは進んだ。

 それだけは本当だった。


「ねえ」

 千歳が静かに呼ぶ。


「何だ」

「文書庫のあとから、たまに変なんだけど」

 冬真の目が細くなる。

「何が」

「記憶っていうか」

 言葉を探す。

「昔のこと思い出そうとすると、途中で変な感じになる」


 冬真の表情が、そこで初めてはっきり変わった。

 それは驚きというより、警戒だった。


「例えば」

 低い声。


「……子どもの頃」

 千歳はゆっくり言う。

「雪の日に、神社の裏で泣いたこと、あるでしょ」

「……」

「わたし、冬真が来てくれたのは覚えてるのに、その前に何で泣いてたのか思い出せなくて」

 一拍置く。

「こんなこと、前はなかった気がする」


 部屋が静まる。

 冬真の喉がわずかに上下するのが見えた。


「千歳」

「何」

「今、それ以上思い出そうとするな」

 鋭い声だった。


 千歳は目を見開く。

「どうして」

「いいからだ」

「またそれ」

「今は、やめろ」


 その言い方に、胸の奥がひやりと冷える。

 これはただの秘密の隠し方ではない。

 もっと切迫した何かだ。


「……冬真」

 小さく名を呼ぶ。


 冬真は少しだけ目を閉じ、それから低く言った。

「記憶に触るのは、今は危ないかもしれない」

「危ないって」

「まだ確証はない」

「でも、あるんだ」

「……可能性は」


 千歳の指先が冷たくなる。

 怪異は、呼び声や痣だけではないのかもしれない。

 もっと深いところ――記憶や認識にまで触れてくるものなのだとしたら。


「わたしだけ?」

 かすれた声で問う。


 冬真は答えない。

 その沈黙の意味が、妙に怖かった。


「……あなたも?」

 千歳がさらに問うと、冬真はわずかに視線を逸らした。


 それだけで、十分だった。


 千歳の胸がぎゅっと縮む。

 やっぱりそうだ。

 痣だけではない。もっと別のところまで、冬真は削られている。


「どこまで」

 思わず零れる。

「どこまで壊れてるの」


 冬真はすぐには答えなかった。

 やがて、かすれた声で言う。


「まだ平気だ」

「それはもう信じないって」

「……知ってる」


 その返しが、ひどく弱々しく聞こえた。

 千歳は立ち上がりたい衝動を、どうにか抑える。

 近づけば痛むかもしれない。

 でも、だからといってこのまま離れて座っているだけなのも嫌だった。


「冬真」

「何だ」

「もし」

 千歳はゆっくりと言葉を選ぶ。

「もし、あなたの記憶まで削れてるなら」

 喉が少し震える。

「わたし、それを後から知るのだけは嫌」


 冬真の目が、まっすぐこちらへ向く。


「消えてから気づくの、嫌」

 千歳は続ける。

「なくなってから、実はそうでした、って言われるの、嫌」

 一拍置く。

「だから、少なくとも今、ここにいるうちに、少しでも教えて」


 静かな懇願だった。

 泣いてはいない。

 でも、それに近い切実さがある。


 冬真は長く黙った。

 その沈黙の間、千歳は目を逸らさなかった。


「……全部は無理だ」

 やがて冬真が言う。

「でも」

 そこで少しだけ言葉を探す。

「忘れたくないものは、まだ残ってる」


 千歳の呼吸が止まりそうになる。


「何」

 思わず聞く。

 冬真はすぐには答えず、ほんの少しだけ視線を逸らした。


「……お前のことは、まだちゃんと覚えてる」

 その一言が、部屋の中へ静かに落ちた。


 綺麗な言葉ではない。

 恋の告白みたいな整った響きでもない。

 でも、今の千歳にはそれで十分すぎた。


 胸の奥に痛みと安堵が一緒に広がる。

 泣きそうになる。

 けれど、泣かなかった。


「……そう」

 やっとそれだけ返す。

 声が少し震えてしまったのは、たぶん気づかれている。


「だから」

 冬真は低く続ける。

「今すぐ全部失くなるわけじゃない」

「うん」

「勝手に決めるな」

「それ、わたしの台詞でもある」


 返すと、冬真は少しだけ困ったような顔をした。

 その表情を見ると、胸が少しだけ軽くなる。


 完全には止まらない。

 何も解決していない。

 でも、見えないところで壊れていくものがあるなら、せめて見えるところではちゃんと名前を呼び合っていたい。

 今の千歳は、そう思っていた。


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