第2章 第5話:あなたを置いて行きたくない
夜は深いのに、静かではなかった。
千歳は布団の中で目を閉じたまま、じっと呼吸を整えていた。
眠ろうとしているわけではない。眠ればまた、あの声が近づく気がするからだ。だから瞼を閉じても、意識だけはなるべく沈めないようにしている。
部屋の四隅には新しい札が貼られている。
窓際にも、戸口にも、机の下にも、白い紙が小さく揺れていた。
綾人が増やしていった結界だ。昨日までなら、それだけで少し安心できたかもしれない。
今は違う。
守るものが増えたぶんだけ、破れるときの怖さも知ってしまった。
――三日後。
その言葉が頭の奥で何度も反響する。
村長の穏やかな声。
老神職の冷えた目。
冬真が、本人の意思も聞かずに決めるなと吐き捨てたあの低い声。
あのとき、自分は確かに救われた。
怖いし嫌だと口にして、それを真っ向から否定されなかったのは初めてだった。
けれど同時に、別の恐怖も残った。
冬真は本気だ。
本気で、行かせないつもりでいる。
そのためならたぶん、何を削っても構わないと思っている。
「……やだな」
自分でも聞き取れないほど小さく呟く。
怖いのは儀だけじゃない。
冬真が、その前にどこまで壊れてしまうのかが怖い。
指先が、布団の端をぎゅっと掴む。
その瞬間、ふと窓の外で風が鳴った。
からん。
鈴の音ではない。
もっと遠い、乾いた枝が触れ合うような音。
それでも千歳の肩は反射的に強張った。
呼び声は、今夜はまだ聞こえていない。
だが聞こえないから安心とも思えない。むしろ、じっと待たれているみたいで落ち着かなかった。
そこで、不意に障子の向こうで小さく床が鳴った。
千歳の呼吸が止まる。
「千歳」
低い声だった。
冬真だ。
身体の芯から、強張っていたものが少しだけほどける。
「……何」
「起きてるか」
「起きてる」
間を置いて、障子が少しだけ開いた。
廊下の暗がりを背に、冬真が立っている。家の中なのに外套を羽織ったままだ。たぶん帰ったふりをして、そのまま結界の確認でもしていたのだろう。
「どうしたの」
千歳が聞くと、冬真はすぐには答えなかった。
代わりに部屋の中をひととおり見回し、札の位置と窓の閉まり具合を確かめる。
それからようやく、短く言う。
「異常はない」
「それを言いに来たの?」
「ついでだ」
「ついで」
思わず、千歳は少しだけ笑った。
ついで、の顔ではない。心配で見に来た顔だ。
けれどそれを正面から言わないのが冬真らしい。
笑った自分に気づいて、千歳は少しだけ肩の力を抜く。
「……入る?」
冬真の目がわずかに動く。
「嫌ならやめる」
「嫌じゃない」
その返答に、冬真は一拍だけ黙った。
それから部屋へ入り、戸口のすぐ横に腰を下ろす。
昔ならもっと近くに来ていた。今はお互い、その距離に敏感だ。
「眠れないのか」
冬真が言う。
「うん」
千歳は正直に頷く。
「そっちは」
「同じだ」
即答だった。
その答えに、千歳はやっぱり、と心の中で思う。
冬真はきっと、ここ数日まともに眠っていない。
怪異のことだけじゃない。自分に関わる何かをずっと引き受けてきた痣と傷が、そのまま眠りまで削っているのかもしれない。
そう考えてしまう自分が、前よりずっと嫌だった。
「ねえ」
千歳が静かに呼ぶ。
「何だ」
「今日、祓殿に行ったでしょ」
冬真の表情が、ほんのわずかに強張る。
「綾人か」
「違う」
千歳は首を振る。
「なんとなく」
それは本当に、なんとなくだった。
戻ってきたときの顔。
肩の落ち方。
左腕の庇い方。
そういう細かいところを見ていると、何かがあったのだとわかってしまう。
「何があったの」
「大したことじゃない」
「嘘」
「……」
「その間がもう嘘」
冬真は少しだけ眉を寄せた。
苛立っているというより、言い返せないときの顔だった。
「全部は言えない」
やがて、低くそう言う。
「全部じゃなくていい」
千歳は何度目かわからない言葉を返す。
「でも、何もないみたいに言われる方がつらい」
冬真は視線を落とす。
部屋の行灯の明かりが、長い睫毛の影を頬に落としていた。
「……契約を切るための器を見た」
千歳の息が小さく止まる。
「文書庫の続き?」
「ああ」
「それで」
「ひとつ壊せば、それで終わる類じゃない」
冬真の声は平坦だった。
「少なくとも三つは結び目がある」
三つ。
その数字が妙に現実味を持って胸へ落ちる。
ひとつではない。つまり、たとえ何かを見つけても、それで終わる保証はないということだ。
「……壊せるの」
千歳が問う。
冬真はすぐには答えなかった。
「可能性はある」
「でも」
「代償がある」
千歳が先に言うと、冬真は目を上げた。
「そうだ」
短い肯定。
千歳は膝の上の手を、少しだけ強く握る。
やっぱりそうだ。
知れば知るほど、その代償がどこへ向かうか見えてくる。
でも、まだそこだけは口にしたくなかった。
言葉にした瞬間、本当にそうなってしまいそうだからだ。
「……冬真」
声が少しだけ掠れる。
「あなた、どこまでやるつもり」
問いの形をしている。
けれど本当は、お願いに近かった。
これ以上、自分の見えないところで壊れていかないでほしいという。
冬真は少しだけ目を伏せ、それから静かに言った。
「できるところまでだ」
「それ、答えになってない」
「答えたらお前、怒るだろ」
「怒るよ」
千歳は即答した。
「たぶん、すごく怒る」
冬真の口元が、かすかに動いた。
笑ったのか、呆れたのか、よくわからないほど小さな変化だった。
「だろうな」
それだけ言って、彼は視線を窓の方へ向ける。
逃げた、と千歳は思った。
でも以前とは違う。今は少なくとも、少しは喋る。
逃げるなら逃げるで、その直前までちゃんとこちらを見てくれる。
「ねえ」
もう一度、千歳が呼ぶ。
「何だ」
「わたし、怖いの」
「知ってる」
「でも、それ以上に」
一拍置く。
「あなたがいなくなる方が、今はもっと怖い」
冬真の視線が、そこで止まった。
千歳は自分でも驚くほど静かに、その言葉を口にしていた。
泣きたくはなかった。感情に任せて言いたくもなかった。
ただ、これはもうちゃんと伝えないといけないと思った。
「儀が怖い」
千歳は続ける。
「呼ばれるのも怖い。三日後も怖い」
手のひらの爪が、少しだけ食い込む。
「でも、冬真が何かしようとして、一人でどっか行って、そのまま戻らない方が、もっと嫌」
言い切ったあと、部屋は急に静かになった。
行灯の火が小さく揺れている音まで聞こえそうなくらいに。
冬真は何も言わなかった。
その沈黙が長くて、千歳の胸の奥が少しずつ痛くなっていく。
「……重い?」
思わず、そんなことを聞いてしまう。
冬真がようやく顔を上げる。
「何が」
「今の」
「別に」
「絶対別にじゃない」
千歳がそう言うと、冬真は少しだけ息を吐いた。
深く、長く。
それから、視線を逸らさずに言う。
「重いとか、そういう話じゃない」
「じゃあ何」
「……言われ慣れてない」
千歳は目を瞬く。
「え」
「お前が」
冬真は言葉を探すみたいに、少しだけ間を置く。
「そういうこと、まっすぐ言うの」
それは意外な返答だった。
千歳は戸惑ったあと、小さく笑う。
「昔は、もっと言ってたよ」
「覚えてない」
「嘘」
「……少しは覚えてる」
「どっち」
「うるさい」
そのやり取りが、少しだけ救いになる。
でも、救われたままで終われないことも、二人ともわかっていた。
「冬真」
千歳は改めて言う。
「わたしを守ろうとするのは、もう止められないんだと思う」
冬真は何も言わない。
「でも、だからって、あなたがいなくなるのを見てるだけなのは嫌」
一拍置く。
「置いて行きたくない」
その一言が、部屋の真ん中に静かに落ちた。
冬真の指先が、わずかに動く。
膝の上で握られた右手が、一瞬だけ力を失ったように見えた。
それほどまでに、思っていた以上に深く入ったのだろう。
「……置いていくつもりはない」
かすれた声だった。
「でも、一人で決めるでしょ」
千歳は容赦なく返す。
「今までもそうだったし、たぶん今もそう」
冬真は否定しない。
それが答えだった。
「わたし」
千歳は低く言う。
「まだ全部は知らないし、知ったら怖くて立てなくなるかもしれない」
正直な言葉だった。
「でも、それでも今は、知らないまま置いていかれる方がいや」
冬真はしばらく黙っていた。
その沈黙のあいだ、千歳は逃げずに彼を見ていた。
怖い。
でも、目を逸らしたくなかった。
「……難しいこと言うな」
ようやく冬真が言った。
「難しくしたの、そっちでしょ」
「知ってる」
「じゃあ」
「でも」
冬真が被せるように言う。
「お前を近くに置くと、反動が強くなるのも事実だ」
千歳の胸が、そこで少しだけ冷える。
やはり来た、と思った。
近づけば痛む。
その現実は、感情よりずっと冷たい。
「……わかってる」
千歳は小さく答える。
「だから簡単じゃないのもわかる」
目を伏せる。
「わかるけど、それでも言いたかった」
沈黙。
冬真は少しだけ視線を落とし、それから静かに言った。
「お前がいると、確かに痛むことはある」
千歳の呼吸が浅くなる。
「でも」
その続きに、思わず顔を上げる。
「それだけじゃない」
冬真は低く言う。
「近くにいない方が、見えなくなるものもある」
行灯の火が揺れた。
千歳はその言葉を、すぐにはうまく飲み込めなかった。
「見えなくなるもの?」
「……お前の顔とか」
「顔」
「変な顔したときの」
「ひどい」
「事実だ」
「もっと言い方あるでしょ」
「ない」
少しだけ、笑いそうになる。
でも笑ったら泣きそうな気もした。
冬真はそこで小さく息を吐いた。
「離れてれば安全、って単純な話でもない」
その声は少しだけ疲れていた。
「だから厄介なんだよ」
千歳はゆっくり頷く。
それは、今まで聞いたどんな説明よりしっくりきた。
近づけば危ない。
でも離れれば守れない。
感情も状況も、どっちに転んでも綺麗にはおさまらない。
「……じゃあ」
千歳は静かに言う。
「答えはまだないんだね」
「ああ」
冬真は頷いた。
「でも」
「何」
「お前を一人にするつもりはない」
その言葉は低く、短かった。
綺麗な告白にはほど遠い。
でも冬真がここまで言うのが、どれだけ珍しいことか、千歳にはわかる。
「それ」
千歳は少しだけ息を吐いてから言う。
「今のわたしには、たぶん十分」
冬真は何も返さなかった。
ただ、ほんの少しだけ視線を逸らした。
その耳が、わずかに赤い気がしたのは、たぶん見間違いではない。
そのとき、不意に冬真の呼吸が乱れた。
「……っ」
小さな音だった。
でも千歳はすぐに気づいた。
「冬真?」
「何でもない」
「嘘」
反射で返して、千歳は立ち上がりかける。
その瞬間、冬真の肩がびくりと強張った。左腕を庇うだけではない。身体の内側から何かが跳ねるような反応だった。
千歳は動きを止める。
「……近すぎた?」
そう問うと、冬真は少しだけ眉を寄せた。
「違う」
「違わない顔してる」
「大丈夫だ」
「だからそれ、もう信じないって言った」
冬真は短く息を吐き、壁に寄りかかったまま目を閉じた。
ほんの数秒。
だがそのわずかな沈黙だけで、千歳の胸は強く締めつけられる。
自分が近づこうとしただけで、こうなる。
それが事実だと突きつけられるたび、怖くなる。
それでも近づきたいと思ってしまう自分が、もっと怖い。
「……ごめん」
思わず零すと、冬真が目を開けた。
「謝るな」
「でも」
「お前が悪いわけじゃない」
即答だった。
その速さに、千歳は一瞬だけ言葉を失う。
「こうなるのも」
冬真は低く続ける。
「俺が勝手に選んだことの範囲だ」
その言い方が、ひどく嫌だった。
またそこへ戻るのかと思う。
全部自分の問題にして、全部一人で背負おうとするところへ。
「それ」
千歳の声が少しだけ強くなる。
「そういうの、やめてって言ってるのに」
冬真は黙る。
「勝手に選んだとか」
千歳は続ける。
「俺の問題だとか、そういう言い方ばっかりするから」
一度、呼吸を挟む。
「置いて行かれる気がするの」
部屋の空気が静まり返る。
言いすぎたかもしれない。
でも、ここで飲み込んだらまた前と同じだと思った。
「……置いていかない」
冬真が言う。
「じゃあ」
「ただし」
まただ。
千歳は少しだけ眉を寄せる。
「まだ全部は話せない」
「うん」
「でも」
冬真は言葉を探すように、少しだけ間を置いた。
「お前を一人で諦めさせるつもりはない」
その一言に、千歳の胸の奥で何かがほどける。
救われる、というのはたぶんこういう感じだ。
何も解決していないのに。
まだ怖いことばかりなのに。
それでも、完全に一人ではないと思える瞬間。
「……うん」
千歳は小さく頷いた。
「じゃあ、わたしも」
「何」
「あなたを一人で壊れさせるつもり、ないから」
冬真の視線が、まっすぐこちらへ向く。
その目に、ほんの少しだけ驚いた色があった。
それから、困ったような、でも少しだけ柔らかい色に変わる。
「難儀だな」
低く言う。
「そっちがね」
千歳が返すと、冬真はほんのわずかに口元を緩めた。
「お前もだろ」
「知ってる」
行灯の火がまた小さく揺れる。
外では風もないのに、家のどこかで札がかすかに鳴った。
近づけば痛む。
その事実は消えない。
でも今夜、二人はその痛みの前で、少しだけ同じことを言えた。
置いて行きたくない。
一人で壊れさせたくない。
それはまだ恋だとか愛だとか、綺麗な名前をつけるには早すぎる。
けれど、もうただの幼馴染の情では済まない温度が、確かにそこにあった。




