第2章 第4話:壊すための条件
夜は、雪の匂いを失っていなかった。
空は曇っているのに、山の上だけが妙に白い。雲に隠れた月の明かりが、薄く滲んで杉の先へ引っかかっている。
冬真は外套の襟を引き上げ、社へ続く石段の手前で足を止めた。
ここまで来るあいだ、村の灯りはほとんど見なかった。
皆、早く戸を閉めているのだろう。昨夜の異変が広まって以来、日が沈めば外へ出ない家が増えた。表向きには“冷え込むから”だとか“雪が深いから”だとか言っていても、本当は違う。
村の人間たちも薄々わかっている。
何かが、もう待ってくれないところまで来ているのだと。
「遅い」
石段脇の杉の影から、綾人が現れた。
白い狩衣の上に濃紺の外套。夜の中でも輪郭が崩れないのは、いつ見ても癪に障る。
「来たんだから文句言うな」
冬真が吐き捨てる。
「歩幅の割に遅い」
「嫌味か」
「事実だ」
短い応酬のあと、綾人の視線が冬真の左腕へ落ちる。
包帯は昼のうちに巻き直した。だが痣の熱は消えていない。深札を使った反動はまだ深く、肩から背中にかけて時折ひどく鈍い痛みが走る。
「帰れと言ったら帰るか」
綾人が言う。
「帰るように見えるか」
「見えないな」
そこで会話は切れた。
見えないなら聞くな、と思う。だが綾人が毎回同じ確認をする理由もわかっていた。
今夜のこれは、ただの見回りではない。契約を壊すための条件を、もっと具体的に確かめるための夜だ。
「本殿の奥までは行かない」
綾人が石段を見上げながら言う。
「今夜は手前の祓殿と封蔵庫だけだ」
「昨日は核の痕を追うって言ってたな」
「ああ。その痕が、祓殿の床下へ繋がっている」
「そこに何がある」
「村と“あれ”を結ぶ器の一部だ」
冬真は眉を寄せる。
「一部?」
「契約は一つの札や一つの鏡で完結しているわけではない」
綾人は低く続ける。
「村人の信仰、供物の血筋、奉納の儀、社の器物、その全部が重なって結び目を作っている」
聞けば聞くほど厄介だ。
つまり、単にひとつ壊せば終わる類ではない。
村そのものが長い時間をかけて、少しずつあれに喰われながら成立してきたということなのだろう。
「だから壊すには」
綾人が言う。
「核に触れるだけでは足りない。村とあれを繋いでいる“証”を、少なくとも三つは断つ必要がある」
「三つ」
「ひとつは昨夜、お前が空洞に触れたことでひびが入った」
「ひび程度か」
「十分異常だ。普通はそこへ触れる前に死ぬ」
平然と言われて、冬真は軽く舌打ちした。
「縁起でもないな」
「縁起のいい話をしているつもりはない」
綾人は石段を上り始める。
冬真も後を追う。
夜の社は冷たい。村の中の冷えとは質が違う。空気の中に水気ではなく、もっと古い湿りが混じっている。
石段の途中で、からん、と遠く鈴が鳴った。
「……歓迎されてるな」
冬真が低く言う。
「警戒されている」
綾人は振り返らない。
「昨夜、お前が空洞を裂いたせいで向こうも慎重になっている」
「それは結構」
「結構ではない。追い詰められたものほど厄介だ」
石段を上りきる。
本殿の手前、脇へ外れた小さな建物が闇の中に沈んでいた。祓殿だろう。昼に見れば簡素な社に過ぎないはずなのに、今夜は輪郭そのものが何かを拒んでいるように見える。
綾人が札を一枚、戸へ押し当てる。
淡い光が走り、ぎし、と戸が少しだけ開いた。
「入れ」
中は暗い。
手燭の火が灯されると、床板に古い紋が刻まれているのが見えた。円形の印が幾重にも重なり、その中心に鏡台のようなものが据えられている。
ただし鏡はない。割れた痕だけが残っている。
「壊れてるのか」
冬真が問う。
「昔に一度、半ばまで割られている」
綾人が答える。
「だが完全には断てなかった」
「誰が」
綾人は一瞬だけ黙った。
「記録には残っていない」
そう言ったが、ほんのわずかに言い淀んだのを冬真は聞き逃さなかった。
「本当にか」
「少なくとも公式には、だ」
公式には。
つまり非公式な記録、あるいは綾人個人が掴んでいる話があるということだ。
冬真は床の紋へ視線を落とした。
「これが“証”の一つか」
「ああ。正確には、その残骸だ」
綾人は鏡台の下から古びた木箱を引き出した。中には金属片のようなものが収められている。鈍く黒ずんだ鏡の破片だった。
「これが器」
綾人が言う。
「供物を“神へ返す”とき、最後に名と血を映す鏡だ」
冬真の喉の奥がひどく冷える。
「趣味が悪いな」
「同感だ」
綾人はその破片を手燭のそばへかざす。曇った面に、火が揺れて映り込む。
「これを完全に砕けば、ひとつ目の結びは断てる」
「なら砕け」
「それで終わるなら、すでにそうしている」
綾人は破片を戻した。
「問題は、その瞬間にここへ流れ込む“返り”だ」
冬真は低く息を吐く。
受け皿。代償。文書庫で見た言葉が蘇る。
「それが受け皿か」
「ああ」
「どの程度のものだ」
綾人は手燭を床へ置き、冬真をまっすぐ見た。
「お前なら死ぬかもしれない程度だ」
静かだった。
だからこそ、その言葉はひどく鮮明に響いた。
冬真は少しだけ眉を動かしただけで、驚きもしなかった。
綾人の方が逆に目を細める。
「その顔か」
「何だよ」
「もう織り込んでいた顔だ」
冬真は答えない。
最初からわかっていた、と言えば嘘になる。だが少なくとも、代償が軽いわけがないとは思っていた。
村が何十年も何百年も差し出してきたものを、ただ壊して終われるわけがない。
「死ぬかもしれない、で済むなら安い」
ぽつりと零すと、綾人が露骨に顔をしかめた。
「そういう台詞を、私は好きになれん」
「聞いてない」
「千歳も好きにはならないだろうな」
その名前が出た瞬間、冬真の視線がわずかに揺れる。
「お前」
綾人が低く続ける。
「まさか本当に、一人で受け皿になるつもりか」
返事はしない。
だが沈黙の長さで十分だったのだろう。
綾人は深くため息をついた。
「愚かだな」
「今さらだろ」
「そういう意味ではない」
綾人は珍しく感情を抑えきれない声だった。
「一人で抱え込めば、千歳は救われると思っているのか」
「少なくとも死なせずに済む」
「そのあと、お前が消えたら同じことだ」
その言葉に、冬真は一瞬だけ言葉を失った。
綾人は畳みかけるように続ける。
「今の千歳は、昨日までとは違う」
「……」
「少しずつ知っている。気づいている。その状態でお前だけが消えれば、あれは“守られた”のではなく、“置いていかれた”と感じる」
胸の奥に鈍い痛みが走る。
怪異の傷とは違う、もっとどうしようもない痛みだった。
「だから」
綾人が低く言う。
「受け皿になるにしても、やり方は選べ。無策で死ぬな」
「無策じゃない」
冬真が返す。
「せめてそういう顔をしてから言え」
短い沈黙。
冬真は視線を鏡の破片へ戻した。
火が揺れ、黒い面に一瞬だけ自分の顔が映る。青白くて、ひどく見慣れない顔だった。
「……他の二つは」
話題を切るように問う。
綾人も追及はしなかった。
「一つは供物の血筋を示す印」
「千歳か」
「厳密には、千歳そのものではない。あれを“供物”と認めさせている証明がどこかにある」
「どこだ」
「まだ絞りきれていない」
綾人は続ける。
「最後の一つは村側の誓詞だ」
「誓詞?」
「代々の神職と村長が受け継いできた奉納の文面。契約の言葉そのものだ」
冬真は舌打ちしたくなる。
「つまり、鏡の破片、供物の証、誓詞」
「少なくとも現時点ではその三つだ」
「全部壊せば」
「契約は崩れる可能性が高い」
「可能性か」
「だから言っている。簡単ではない」
綾人はそこまで言ってから、床の紋を見下ろした。
「しかも崩れた瞬間、これまで積み上がった返りをどうするかが残る」
「……受け皿」
「ああ」
冬真は目を伏せた。
もし鏡の破片だけでこの重さなら、三つ全部を壊した先に来るものは、比べものにならないはずだ。
それでもやるしかない。
「冬真」
綾人が呼ぶ。
「今ならまだ、別の道も探せる」
「例えば?」
「千歳を遠くへ逃がす」
冬真は鼻で笑った。
「村ごと追ってくる」
「可能性はある」
「それに、あれは距離で切れるものじゃない」
「そうだ」
綾人は認めた。
「だからこれは仮説の一つに過ぎん」
「使えない仮説だ」
「だが“お前一人が死ぬ”案よりはましだと私は思う」
冬真は返事をしなかった。
使えない。逃がすだけでは終わらない。結局どこかで追いつかれる。
なら壊すしかない。
その考え自体が、あまりにも一直線で危ういのだと、自分でもわかっていた。
けれど他に道が見えない。
「……戻るぞ」
綾人が言う。
「今夜はここまでだ」
「まだ封蔵庫がある」
「お前の顔でそれを言うな」
冬真は舌打ちしたが、反論しきれなかった。
左腕の痣が、さっきからじわじわと範囲を広げている。鏡の破片を見ただけでこれだ。実際に触れればどうなるか、考えたくもない。
祓殿を出ると、外の空気が少しだけ軽く感じた。
それでも山の上から流れてくる気配は変わらない。夜の奥で何かがじっとこちらを見ている。
「千歳には」
冬真が言う。
「どこまで話す」
綾人は石段を下りながら答える。
「鏡と誓詞の存在までは言う」
「受け皿は」
「まだだ」
その返答に、冬真はほんの少しだけ息を吐く。
安堵というより、猶予だった。
「ただし」
綾人が続ける。
「お前がさっきの顔を続けるなら、いずれ自分で勘づく」
「……」
「隠し続けるなら、せめてうまくやれ」
冬真は答えなかった。
うまくやれていたなら、ここまで拗れていない。
千歳にも綾人にも、それはもう見抜かれている。
石段を下りきる頃、からん、と遠く鈴が鳴った。
今夜はまだ、呼び声は近くない。だが三日後が迫るほど、その距離は確実に縮まる。
冬真は空を見上げた。
曇りの向こう、見えない夜のさらに奥にあるものを思う。
壊すための条件は、少しずつ揃い始めている。
だが同時に、壊した先の代償も輪郭を持ち始めた。
それをどこまで千歳に隠せるか。
あるいは、隠し続けること自体が本当に正しいのか。
答えはまだ出ない。
ただ、このままでは三日後までに間に合わないことだけは、はっきりしていた。




