第2章 第3話:近づけば痛む
帰り道、雪はまだ溶けきっていなかった。
曇った空の下、踏み固められた白が鈍く光っている。山から吹いてくる風は弱いのに、頬を撫でる空気だけがやけに冷たかった。
千歳は文書庫からの帰り道を、冬真の少し前で歩いていた。
さっき読んだ記録が、まだ頭の中に残っている。
供物。
返納。
母、狂乱。
娘、逃走未遂。
返すのではなく、喰わせるのだという者あり。
どの言葉も、頭では読めても、気持ちの中ではまだうまく収まりきらない。
それでもひとつだけ、はっきりしたことがある。
これは名誉なんかじゃない。
村の外から見れば、美しく整えられた古い習わしに見えるのかもしれない。
でも、あの記録の端に残っていたのは、きれいな物語からこぼれ落ちた、人間の痕だ。
泣いた娘。
狂った母。
無理やり続けられた契約。
そして、そのすべての先に、自分も並べられようとしている。
「千歳」
背後から冬真の声がした。
振り返ると、彼は一歩遅れてこちらへ歩いてくる。顔色はまだ悪い。文書庫へ向かう前よりは少しましに見えるが、それでも左腕を庇うような動きは消えていなかった。
「……何」
千歳が返す。
「足元」
「え?」
「滑るぞ」
言われて、千歳は視線を落とした。
凍った石が雪の下に隠れている。あと一歩そのまま踏み込めば、本当に滑っていたかもしれない。
「ほんとだ」
小さく息を吐く。
「ありがと」
冬真は答えず、少しだけ歩幅を詰めた。
それだけなのに、胸の奥が妙にざわつく。
前ならこのくらいの距離は当たり前だった。
今は違う。
近づけば、冬真が痛むかもしれないと知ってしまったから。
千歳は歩きながら、そっとその横顔を見る。
視線は前を向いている。口数も少ない。けれど、完全に遠ざけようとしていた頃とは違う。
ちゃんと隣へ来る。
危ないところでは声をかける。
それだけの変化が、今はひどく大きく感じられた。
「ねえ」
千歳が呼ぶ。
「何だ」
「さっき、文書庫で」
少しだけ言い淀む。
「受け皿って話、あったでしょ」
冬真の歩幅が、ほんのわずかに揺れた。
「……ああ」
「やっぱり、代償って大きいんだよね」
「千歳」
「答えなくていい」
千歳は自分で先に言う。
「たぶん今は、ちゃんと答えてくれないってわかってるから」
その言い方が自嘲っぽく聞こえて、自分でも少し嫌だった。
わかっている。
冬真は全部を話せない。
今はまだ。
でも、その“まだ”の先に何があるのかが、少しずつ見え始めている。
冬真はしばらく黙っていたが、やがて低く言った。
「……考えすぎるな」
「無理」
千歳は即答した。
「考えるよ。だって、わたしのことなんだもん」
冬真はそれ以上何も言わなかった。
言い返せないのだろう。
それが少しだけ苦しい。
同時に、少しだけ嬉しくもある。
前みたいに一方的に切り捨てられるのではなく、今は少なくとも黙る余地があるからだ。
「でも」
千歳は続ける。
「勝手に結論つけるのはやめる」
「……」
「さっき約束したから」
冬真がちらりとこちらを見る。
「覚えてたのか」
「何それ」
「いや」
「失礼すぎる」
少しだけむっとして返すと、冬真の口元が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
ほんの一瞬。
でも確かに、笑いかけたように見えた。
「今、笑った?」
思わず千歳が言う。
「笑ってない」
「笑ったよ」
「気のせいだ」
「それ、便利だよね」
「お前に言われたくない」
そのやり取りが、思ったより自然に続いた。
自然すぎて、千歳の胸の奥が少しだけ痛くなる。
こういうふうに話したかったのに。
もっと早く、こうなれていたかもしれないのに。
でも、その“もっと早く”の間に、冬真は何かを引き受け続けてきたのだ。
少しずつ、足が重くなる。
怖いのではない。違う種類の苦しさだ。
知らなかった時間の長さを想像してしまう苦しさ。
「千歳」
冬真の声が落ちる。
「何」
「顔色悪い」
「そっちに言われたくない」
反射で返すと、冬真がわずかに眉を寄せた。
「俺はいつもこうだ」
「そういうの、もう通用しないからね」
「……厄介だな」
「前からです」
そこまで言って、千歳はふっと息を吐いた。
雪の上に白く消える。
前から。
そう、前からだ。
冬真は昔からこうだった。
自分のことは後回しで、痛くても苦しくても、平気な顔をしようとする。
でも今は、それが「そういう性格」だけでは済まないのだと知ってしまった。
道の先で、風が小さく鳴る。
千歳の足が少しだけ止まった。
「……どうした」
冬真がすぐに聞く。
「なんでもない」
「嘘だろ」
「……呼ばれた気がした」
冬真の目が鋭くなる。
「どこから」
「今は、遠い」
千歳は耳の奥へ意識を向ける。
「井戸とか、奥座敷みたいな近さじゃない。でも、山の上の方から」
「名前は」
「まだ」
そう答えて、千歳は肩を竦めた。
「ごめん。ちゃんと言えなくて」
「謝るな」
冬真が即座に言う。
「今のは、言っただけでも十分だ」
その一言に、千歳はほんの少しだけ救われる。
昨日までなら、たぶん自分は黙っていた。
変だと思っても、心配させたくなくて、余計なことを言いたくなくて、飲み込んでいた。
でも今は違う。
言えた。
それをちゃんと意味があることだと言ってくれた。
「……うん」
千歳は小さく頷き、また歩き出す。
◆
家へ戻ったあと、千歳は自分の部屋でしばらく座り込んでいた。
窓は閉ざされ、札が打たれている。
昼間なのに部屋の空気は少しだけ薄暗い。
布団も机も、見慣れたはずのものばかりなのに、昨日までとは違って見える。
ここで眠っていた夜。
ここで聞こえた声。
ここから呼ばれていたこと。
そのすべてが、もう前と同じ意味を持たない。
膝を抱えそうになって、千歳は途中でやめた。
子どもっぽい仕草をしたくなかったわけではない。
ただ、今はそれをすると本当に崩れそうだった。
机の上には、水と、昼前に志乃が置いていったおにぎりがある。
ほとんど手をつけていない。
食欲はなかった。
そのとき、襖の向こうで小さく物音がした。
「千歳?」
志乃の声。
「うん」
「少し入っていい?」
「いいよ」
襖が開く。
志乃は部屋へ入るなり、千歳の顔を見て少しだけ眉を寄せた。
「やっぱり無理してる」
「そんなことない」
「それ、今日何回聞いたかしら」
困ったように笑って、志乃は部屋の隅へ座る。
千歳は少しだけ視線を逸らした。
母には心配をかけたくない。
でも、かけないことなんてもうできないのだともわかっている。
「さっきの人たちのこと」
志乃が低く言う。
「怖かったでしょう」
「……うん」
素直に答える。
「ごめんね」
その謝罪に、千歳は顔を上げた。
「何でお母さんが謝るの」
「守れなかったから」
志乃はそう言って、指先を膝の上で組み直す。
「あなたが小さい頃から、本当はずっと怖かったの。いつかこういう日が来るんじゃないかって」
千歳は息を呑んだ。
「知ってたの」
「全部じゃない」
志乃は首を横に振る。
「でも、何となく。村の空気とか、おばあちゃんたちの言い方とか……自分のときにはなかったものが、あなたには少しずつ増えていったから」
胸の奥がぎゅっと縮む。
母もずっと、何かを察しながら黙っていたのだ。
「どうして言ってくれなかったの」
千歳が問うと、志乃は少しだけ笑った。
「言ったら、もっと早く怖がらせてしまうと思った」
一拍置いて続ける。
「それにね、言葉にしてしまうと本当になってしまいそうで、怖かったのよ」
それは、第1章の最初に冬真が感じていた村の空気と同じだった。
言葉にすれば本当になる。
だから皆、知っていても曖昧にしてきた。
でも結局、その曖昧さが自分を守ってはくれなかった。
「……ねえ、お母さん」
千歳は慎重に問う。
「昔の供物の子のこと、何か聞いたことある?」
志乃の表情が少しだけ硬くなる。
「どうして」
「知りたいから」
しばらくの沈黙のあと、志乃は小さく息を吐いた。
「おばあちゃんから、昔ひとりだけ聞いたことがある」
千歳は身を乗り出す。
「すごく綺麗な人だったって」
志乃は静かに語る。
「雪の日でも笑ってたって。でも、返されたあと、その家は長く戸を閉ざしたままだったらしいの」
文書庫の記録と重なる。
戸を閉ざす。
母、狂乱。
家系断絶。
「その人、幸せだったのかな」
千歳がぽつりと零すと、志乃はすぐには答えなかった。
そしてやがて、はっきりと言う。
「幸せなわけないわ」
その断言に、千歳は目を見開く。
「名誉だとか、村のためだとか、そんなふうに言う人は今もいる」
志乃の声は低い。
「でもね、娘を送り出す側にとっては、そんな言葉で足りるわけがないのよ」
その言葉は、静かだけれど強かった。
母の本音だった。
千歳の目の奥が少し熱くなる。
泣きそうだと思った。でも泣かなかった。
今泣いてしまったら、自分はまた“かわいそうな供物”の方へ引き戻される気がしたからだ。
「……わたし、行きたくない」
ゆっくり言う。
「うん」
志乃は頷く。
「嫌だ」
「うん」
「怖い」
「うん」
そのたびに、志乃は否定せずに頷いた。
それだけで、胸の奥の冷たいものが少しずつ形を変えていく。
怖い。
嫌だ。
行きたくない。
それは言っていい感情なのだ。
「冬真くん」
志乃が不意に言う。
千歳の肩が小さく揺れる。
「……何」
「あなたのこと、ずっと見てたのね」
その一言に、呼吸が止まりそうになる。
「お母さん」
「だって、あんな顔で家のまわりを見てるんだもの」
少しだけ苦く笑う。
「何もありませんって顔じゃなかったわ」
千歳は視線を落とした。
そうだ。
あの人は隠すのが下手だ。下手なくせに、いちばん大事なところだけは絶対に言わない。
「ねえ」
志乃が静かに問う。
「あなたは、どうしたいの」
「……どう、って」
「冬真くんのこと」
その問いに、千歳は何も言えなくなる。
どうしたいのか。
昔みたいに戻りたい。
でももう、昔と同じではいられない。
今はただ、いなくならないでほしい。
それがいちばん近い本音だった。
「わかんない」
正直に言う。
「でも」
一拍置く。
「もう、何も知らないまま遠ざけられるのは嫌」
志乃は小さく頷いた。
「そうね」
その肯定が、ひどく優しくて苦しかった。
◆
夕方近く、空はさらに重く沈んでいた。
冬真は家の裏手で薪を割っていた。
正確には、割ろうとしていた。
腕が思うように上がらず、斧を振り下ろすたびに左肩の奥が鈍く軋む。
「無理してる」
いつの間に来たのか、綾人が後ろから言った。
「お前、毎回気配消すのやめろ」
「消していない。お前が気づかないだけだ」
「感じ悪いな」
「事実だ」
冬真は斧を置いた。
これ以上やっても、薪より先に自分の方が駄目になる。
「千歳の方は」
問うと、綾人は短く答える。
「今のところ大きな異変はない」
「今のところ、か」
「三日後を待たせるつもりはないだろうからな」
冬真は空を見上げた。
曇り空の向こう、社の奥にあるものを思う。
契約の核。
受け皿。
代償。
まだ何も解決していない。
「今日、文書庫で」
綾人が言う。
「お前、少し喋りすぎたな」
冬真は顔をしかめる。
「どこが」
「受け皿の話のときの顔」
「……」
「千歳はあれで気づいていないわけじゃない」
「わかってる」
「わかっていて、なお隠すんだな」
その問いに、冬真は少しだけ間を置いた。
「最後までは知られたくない」
やがて低く言う。
「それができると思ってるのか」
「思ってない」
「なら」
「……それでもだ」
綾人はしばらく黙っていた。
やがて小さく息を吐く。
「本当に、面倒な執着だな」
「うるさい」
「褒めてはいない」
会話が途切れる。
その沈黙の中で、冬真は自分の左腕を押さえた。
痛みは少しだけ深くなっている。
文書庫への往復だけでこれだ。近づくこと、動くこと、調べること、その全部が少しずつ代償になっている。
それでも止まれない。
「……今夜」
綾人が言う。
「もう一度、本殿の手前まで行く」
冬真が顔を上げる。
「何か見つかったのか」
「昨日の空洞の余波が、まだ残っている。今のうちに痕を追えば、核への通り道が絞れるかもしれん」
「行く」
「来ると思った」
「当たり前だ」
綾人は軽く肩を竦める。
「だが千歳には言うな」
冬真の目が細くなる。
「何で」
「今夜はまだ連れて行けない」
綾人は淡々と言う。
「知りたい気持ちは本物だが、昨夜と今日で受けたものが多すぎる。ここでさらに奥へ触れさせれば、また“自分が行けば”の方へ傾く」
その指摘に、冬真は反論できなかった。
千歳は変わり始めている。けれどまだ危うい。
同じ方を見始めたからといって、すぐに全部を共有できるわけではない。
「……わかった」
低く返す。
だがその返答が、次のすれ違いの種になることもわかっていた。
千歳には少しずつ話すと約束した。
それなのに今夜もまた、肝心な場面では置いていく。
正しいのか。
たぶん、半分は正しい。
そして半分は、きっと間違っている。
それでも今は、その間違いごと背負うしかない。
第2章第3話では、
**千歳が“知ること”と“知りすぎること”の境目に立ち、冬真は近づけば痛む現実の中で、それでも守ろうとする**
という構造を前へ進める。
次話以降で、二人の距離がさらに近づくほど、身体反応と情報格差の矛盾は強くなる。
冬真は曇った空の向こうを睨むように見上げた。
近づけば痛む。
それでも近づかなければ守れない。
その答えを、まだ誰も持っていなかった。




