第2章 第2話:供物の記録
曇った冬の光が、廊下に細く差し込んでいた。
千歳は部屋の戸口に立ち、そこで一度だけ深く息を吸った。
胸の奥が少しだけ冷たい。怖いのか緊張しているのか、自分でもうまくわからない。ただ、戻れない場所へ行く前の感覚だけは、はっきりしていた。
「行くぞ」
先に歩き出したのは綾人だった。
冬真は千歳の半歩後ろに立ち、短く言う。
「絶対に勝手に触るな」
「わかってる」
「返事が軽い」
「軽くないよ」
千歳は少しだけ眉を寄せる。
「ちゃんと怖いから」
その言い方に、冬真は一瞬だけ言葉を失った。
強がっているのではない。怖いと認めた上で、それでも行くと決めている声だった。
「……ならいい」
「よくないでしょ」
思わず返すと、千歳はほんの少しだけ口元を緩める。
「どっち」
冬真はため息をついた。
こういうやり取りができること自体は、少し前までなら考えられなかった。
けれどそれは、何も解決していないまま距離だけが近づいた証拠でもある。
廊下を進む。
千歳の家から社の文書庫までは、表道を使えば村人の目につく。
だから綾人は社へ続く裏道を選んだ。村はずれの林を抜け、凍った地面を踏みしめ、山裾に沿って進む細い道だ。
風はない。
なのに杉の先だけが時々揺れる。
その揺れを見るたび、千歳は無意識に息を止めた。
「まだ聞こえるか」
不意に綾人が問うた。
千歳は少しだけ迷ってから頷く。
「……たまに」
「どんなふうに」
「遠い」
言葉を探しながら答える。
「ずっと耳元じゃなくて、井戸の底とか、山の向こうとか、そういうところから」
「名前を呼ぶか」
「呼ぶときもある」
千歳は視線を落とした。
「でも前よりは、引っ張られない」
それを聞いて、綾人は小さく顎を引く。
「昨夜、応じなかったからだろう」
「そういうものなんですか」
「一度でも抗えば、向こうも“絶対に従う相手”としては扱えなくなる」
「……じゃあ、今までの供物は」
千歳はそこまで言って、口を閉じた。
綾人もすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、嫌な想像が立ち上がる。
今までの供物。
名も知らない、昔の誰かたち。
自分のように呼ばれて、自分のように怖がって、それでも最後には応じてしまった人たちがいたのかもしれない。
「着く」
綾人が言った。
山道の先、木々の影に隠れるようにして、小さな木造の建物が見えた。
本殿ほど大きくはない。倉のようにも見える。壁には古い札が何重にも貼られ、雪の重みで軒が少しだけ沈んでいた。
「ここが文書庫?」
千歳が小声で問う。
「ああ」
綾人が答える。
「村の記録と、社の記録が一緒に放り込まれている」
「放り込まれてるって」
「大事にされているのは都合のいい記録だけだ」
その言い方に、千歳は少しだけ背筋を正した。
ここには、自分の知りたいことがある。
同時に、知りたくなかったこともたぶんある。
綾人が鍵を取り出し、古い錠前を外す。
きい、と乾いた音を立てて戸が開いた。
中は暗かった。
閉ざされた紙と木の匂い。古い墨。乾いた土。ずっと動かされていない空気が、そのまま何十年分も澱んでいるみたいだった。
綾人が手燭に火を入れる。
橙色の明かりが揺れ、棚いっぱいに詰め込まれた木箱や巻物が浮かび上がった。
「……すごい」
千歳が思わず呟く。
「感心している場合ではない」
冬真が低く言う。
「足元気をつけろ」
見れば床板の端が少し浮いていた。湿気で歪んでいるのだろう。
千歳は小さく頷いて、一歩踏み込む。
明かりが揺れるたび、箱に書かれた年代や札が見える。
豊穣記録、祭祀記録、弔い帳、雨乞い控え。
どれもこの村の時間そのものみたいに古びていた。
「どれを探すんですか」
千歳が問う。
綾人は棚の奥を照らした。
「供物に関する記録だ」
「そんなもの、残ってるんですか」
「建前だけならな」
綾人は皮肉の薄い声で言う。
「“神へ返された娘たちの記”として、表向きには美しく整えられている」
その表現に、千歳の胸の奥が少しざわつく。
美しく整えられている。
つまり、本当のことは別にあるということだ。
綾人は一番奥の棚から、細長い木箱を一つ引き出した。
厚い埃が舞う。
蓋には古い筆文字で、
**返納録**
と書かれていた。
千歳の指先が、無意識に強張る。
「開けるぞ」
綾人が言う。
誰に確認を取るわけでもないのに、その一言は妙に重かった。
蓋が開く。
中には和綴じの帳面が何冊も収められていた。どれも表紙が色褪せ、角が擦り切れている。
一番上の帳面を取り出し、綾人が卓代わりの箱の上に置いた。
「見たいなら見るといい」
綾人が千歳へ言う。
「ただし、途中で閉じたいなら閉じろ。無理に全部見る必要はない」
千歳は少しだけ目を伏せる。
「見ます」
冬真はその横顔を見た。
怖がっている。けれど退かない。
その姿勢が誇らしいような、怖いような、どうにも言葉にしにくい感情を胸に残した。
綾人が帳面を開く。
一頁目には、美しい筆でこう記されていた。
――此の年、神恩深く、娘ひとりを清らかに返す。村安寧、作穀豊穣。
千歳は眉を寄せた。
「……これだけ?」
「上辺はな」
綾人は次の頁をめくる。
「問題は、消されていない端だ」
明かりを近づけると、欄外に小さな書き込みがあった。
本文より雑で、急いで記したような筆跡。
――返納後、家三日閉ざす
――母、狂乱
――夜半、井戸に声あり
――次年、娘不足につき選定難航
千歳の息が止まる。
「これ……」
「“名誉ある返納”の裏に残った、誰かの覚え書きだ」
綾人が答える。
「たぶん正式な記録ではなく、事務の端にいた者が残した走り書きだろう」
千歳は頁から目を離せない。
母、狂乱。
娘不足。
そんな言葉は、村で語られる“神へ返された娘”のイメージとはあまりにも違う。
「他も」
千歳が掠れた声で言う。
「他も見たいです」
綾人は何も言わず、次の帳面を開いた。
年代が違う。
けれど書かれていることは似ていた。
――娘、逃走未遂
――夜明け前に社へ戻す
――返納後、家系断絶
別の帳面。
――体弱く、前倒し
――返納の儀、吹雪
――村内、以後一年平穏
また別の帳面。
――相手方、泣き叫ぶ
――父、押さえつく
――その夜、村の畑に虫害止む
「やめろ」
冬真が低く言った。
千歳がびくりとする。
視線を向けると、冬真は帳面ではなく、千歳の顔を見ていた。
「顔色悪い」
「でも」
「でもじゃない」
「見たい」
千歳ははっきり言った。
「今ここで閉じたら、きっとまた自分の都合のいい方に想像しちゃう」
その言葉に、冬真は少しだけ黙る。
たしかにそうだ。
中途半端に止めれば、“きっと何か意味があったはず”とか、“昔の話とは違うかもしれない”とか、そういう逃げ道に自分を追い込む余地ができる。
千歳はその逃げ方をしたくないのだろう。
「……無理はするな」
冬真が言う。
「うん」
千歳は頷いた。
それから、もう一冊の帳面へ手を伸ばしかけて、そこでぴたりと止まる。
自分で触るな、と言われていたのを思い出したのだろう。
冬真が見ていると、千歳は少しだけ気まずそうに手を引っ込めた。
「今の、ちゃんと止まった」
小さく言う。
冬真は一拍遅れて息を吐く。
「……えらいな」
「子ども扱い」
「してない」
「ちょっとした」
「少しだけな」
その短いやり取りのあと、綾人が別の束を引き出した。
今度は返納録ではなく、薄い包み紙に包まれた断片的な書付だった。
「こっちが本題だ」
綾人が言う。
紙を広げる。
そこには正式な帳面ほど整った筆ではなく、もっと生々しい記録が残っていた。
――返すのではなく、喰わせるのだという者あり
――神恩と呼ぶには代償が多すぎる
――供物絶えし年、村に疫病
――契約、破棄不能にあらず
――ただし受け皿要る
千歳がその最後の一行で息を呑んだ。
「受け皿……」
冬真と綾人の空気が、そこでほんの僅かに変わる。
千歳はすぐにそれに気づいた。
「これ」
千歳がゆっくり言う。
「壊せるってことですよね」
綾人は頷いた。
「可能性はある」
「でも」
千歳は顔を上げる。
「受け皿って何ですか」
沈黙。
冬真は喉の奥が固くなるのを感じた。
ここが危うい線だ。
この段階ではまだ全部を明かせない。だが、まったく触れずに通り過ぎるには、もう千歳はそこまで鈍くない。
「契約を壊したときに」
綾人が慎重に口を開く。
「今まで溜め込まれた穢れや負債が、一気に行き場を失う」
「それを受けるものが必要、ってことですか」
「そうだ」
千歳の顔色が少しずつ変わる。
「じゃあ、それがないと壊せない」
「壊しただけでは終わらん」
綾人の声は低かった。
「何かが受け止めねば、結局は別の形で村へ返る」
千歳の視線が、そこでゆっくり冬真に向く。
冬真はわずかに奥歯を噛んだ。
向けるな、と心のどこかで思う。
まだ早い。
そこに結びつけるにはまだ早い。
「……何」
冬真が言うと、千歳はすぐには答えなかった。
「別に」
そう言う声が、少しだけ掠れている。
「ただ……冬真、その話、最初から知ってた?」
真正面からは答えられない問いだった。
知っていた。
少なくとも、断片的には。
だからずっと、それを自分一人でどうにかする前提で動いてきた。
「全部じゃない」
冬真は低く言う。
「でも、知らなかったわけでもない」
千歳は目を伏せた。
その一瞬の表情に、冬真は嫌なものを見る。
理解に近づいた人間の顔だ。
まだ確信ではない。
でも、もう“何も知らない”場所には戻れない顔だった。
「……やっぱり」
小さく漏れたその言葉が、妙に重い。
綾人が空気を切るように帳面を閉じた。
「今日ここで持ち帰るのはここまでだ」
「もっとありますよね」
千歳がすぐに言う。
「ある」
綾人は認める。
「だが一度に飲み込める量ではない」
千歳は反論しかけて、でも閉じた帳面の上に残る自分の指先の震えを見て、言葉を飲み込んだ。
怖いのだ。
知りたいのに、知るほど苦しい。
「千歳」
冬真が呼ぶ。
千歳はゆっくり顔を上げる。
「今ので十分だ」
「十分じゃない」
「今は、だ」
冬真は言い直す。
「今はそれ以上入れるな」
千歳は少しだけ唇を噛んだ。
けれど今回は、“また隠された”と責める前に、自分が本当に限界に近いこともわかっている顔だった。
「……うん」
小さく頷く。
その返事に、冬真は少しだけ息を吐いた。
綾人が紙を包み直しながら言う。
「少なくとも、これで明確になったことが三つある」
「何ですか」
千歳が問う。
「ひとつ。供物は名誉ではない」
綾人が指を折る。
「ふたつ。契約は破棄不能ではない」
「……」
「三つ。破棄には代償がいる」
最後の言葉だけ、部屋の中に少し重く残る。
千歳は黙ったまま、その響きを受け止めていた。
「帰るぞ」
綾人が言う。
「長居はするな」
文書庫の戸が閉じられる。
外の曇り空はさっきより低くなっていた。
山道を戻るあいだ、千歳はほとんど喋らなかった。
冬真も同じだった。
互いに、今見たものを頭の中で並べ直しているのだろう。
やがて、家の屋根が見え始めたあたりで、千歳が不意に立ち止まる。
「冬真」
名前を呼ばれて、冬真は振り向いた。
「わたし」
千歳は少しだけ迷ってから続ける。
「今までの子たちみたいには、なりたくない」
その言葉は弱くなかった。
怖がっている。
でも、それ以上に確かな拒絶があった。
冬真は数秒だけ千歳を見つめ、それから短く答える。
「なら、なるな」
「うん」
千歳は頷く。
「だから、もう少し知る」
「一気にはだめだ」
「わかってる」
「本当に?」
「……善処する」
「信用できない」
その短いやり取りのあと、千歳は少しだけ笑った。
泣きそうではない笑みだった。
それだけで、さっきまでの重さがほんの少しだけ動く。
「でも」
千歳は続ける。
「今日、ここに来てよかった」
「そうか」
「怖かったけど」
一拍置く。
「知らない方が、たぶんもっと怖かった」
冬真は何も返さなかった。
返せなかった、の方が近い。
たしかにそうなのかもしれない。
知れば壊れると思っていた。
でも知らなければ、別の壊れ方をする。
そのことを、第2章はこれからずっと突きつけてくるのだろう。
千歳は先に歩き出す。
冬真もその後を追う。
距離はまだ少しある。
けれど、昨日よりは明らかに同じ方向を向いていた。




