第2章 第1話:三日後のための嘘
雪は止んでいた。
けれど村の空気は、降り積もった白より重かった。
昼前の空は低く曇り、山の輪郭は淡く滲んでいる。陽はあるはずなのに熱はなく、道に残る足跡だけが昨夜から今朝にかけての騒ぎを物語っていた。
千歳の家の門柱には札が増えている。
井戸の周囲には灰が撒かれ、裏口には新しい注連縄が渡されていた。
表向きには“厄除け”だ。
村人たちはそう言うだろう。
だが冬真にはわかっていた。
これは守りであると同時に、囲いでもある。
供物を逃がさないための。
「顔が最悪だな」
背後から綾人の声がした。
冬真は門柱から視線を外さず、小さく舌打ちした。
「朝から縁起でもないこと言うな」
「縁起のいい顔には見えん」
綾人は隣へ並び、札の貼られた家を見上げる。
「夜は越えたが、終わったわけじゃない」
「わかってる」
「本当に?」
「……お前、今日それ何回目だ」
綾人は答えず、代わりに冬真の左腕へ視線を落とした。
包帯の下で痣はまだ熱を持っている。深札の反動は想像以上に深く、肩から背中にかけて鈍い痛みが居座ったままだ。
昨夜、仮殿で空洞に手を突っ込んだときの感覚は、まだ皮膚の裏に残っている。
冷たく、熱く、どこまでが自分の痛みでどこからが向こうの穢れなのかも曖昧なまま。
「家の方は?」
冬真が低く問う。
「ひとまず落ち着いている」
綾人は答えた。
「だが村は落ち着いていない。今朝からずっと、年寄り連中が社へ来ている」
「供物の確認か」
「半分はそれだ。半分は、昨夜の異変が村全体へ波及しないかの確認」
冬真は鼻を鳴らした。
「結局、自分たちのことしか考えてない」
「村というものは大抵そういうものだ」
「開き直るな」
「開き直ってはいない。事実を言っているだけだ」
淡々と返されて、冬真は言い返す気を少し削がれる。
腹は立つ。だが綾人は、少なくとも今この局面では敵ではない。
むしろ、理屈の側からこちらへ残っている数少ない人間だ。
「千歳は」
冬真は門の向こうを見たまま言う。
「起きてるのか」
「起きている」
「様子は」
「眠れていない顔をしていた」
短い返答だった。
それだけで十分だった。
昨夜のことがあったのだ。眠れるはずがない。
呼び声。影。供物。三日後。
それに加えて、冬真の腕の痣まで見てしまった。
何も知らなかった昨日までの千歳には、もう戻れない。
冬真は胸の奥に沈む重さをやり過ごすように、浅く息を吐いた。
「会うか」
綾人が言う。
「会った方がいいのか」
「会わない方が拗れる」
綾人は即答した。
「ただし、今までみたいに全部隠し通せると思うな」
「……」
「昨日までとは違う」
その言葉は、雪より冷たく正しかった。
会わないままでは、たぶん千歳の中にまた“避けられている”という痛みだけが残る。
けれど会えば会ったで、近づいたぶんだけ見えてしまうものが増える。
どちらに転んでも楽ではない。
だからこそ、これが第2章なのだと冬真は思う。
第1章までは、隠したまま守ることができるとまだ錯覚していられた。
今はもう無理だ。
秘密を抱えたまま、少しずつ同じ方向を見ていくしかない。
「……会う」
ようやくそう答えると、綾人は軽く顎を引いた。
「なら、今だ。村の連中はひとまず引いている」
綾人が門を開く。
軋む音がやけに大きく聞こえた。
◆
千歳の家の中は、静かだった。
いや、正確には静かすぎた。
人が息を潜めているときの静けさだ。
廊下には札が打たれ、奥座敷の襖には新しい封がいくつも重ねられている。家の中なのに、どこか社の中へ迷い込んだような空気だった。
居間には志乃がいた。
目の下に濃い影を落としながらも、こちらに気づくと無理に微笑もうとする。
「冬真くん」
「……お邪魔します」
その挨拶が妙によそよそしく聞こえて、自分でも少し嫌になる。
昨日までの関係が壊れたというほどではない。けれど昨夜を越えたことで、何もかも以前と同じままではいられなくなっている。
「千歳は」
「部屋にいるわ」
志乃は答えて、それからほんの少しだけ躊躇った。
「……会ってあげて」
その言い方に、冬真は一瞬だけ目を上げる。
志乃は続けなかったが、その意味はわかった。
娘が昨夜からずっと不安定で、でも強がっていて、誰にも本音をちゃんと出せていないのだろう。
そして今、たぶん冬真にだけ向いている感情がある。
それを嬉しいと思う資格があるのかは、わからなかった。
綾人は志乃に何か結界の説明を始めた。
冬真は軽く頭を下げ、そのまま千歳の部屋へ向かう。
襖の前で足を止める。
中からは物音ひとつしない。
「千歳」
低く呼ぶ。
少し間があってから、
「……うん」
と返事がした。
襖を開ける。
千歳は窓際に座っていた。
昼なのに行灯はついていない。曇った冬の光だけが部屋へ入り、彼女の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
昨夜より落ち着いて見える。だが、それは安心したというより、考え込みすぎて静かになっている顔だった。
「来ると思わなかった」
千歳が言う。
「そうか」
「うん。もっと、避けるかと思った」
そのひと言が、小さく胸に刺さる。
まだそう思わせているのだ、自分は。
「……避けてない」
冬真が言うと、千歳は少しだけ目を細めた。
「前よりは、ってことでしょ」
「細かいな」
「見てるから」
返されて、冬真はそれ以上言い返せなかった。
部屋の中に少しだけ沈黙が落ちる。
だが以前のように、何を言えばいいかわからなくて凍る沈黙ではない。
言いたいことが多すぎて、どこから触れればいいかわからない沈黙だった。
「……座って」
千歳が言う。
「大丈夫か」
「わたしは」
「お前じゃない」
言った瞬間、千歳がほんの少しだけ目を丸くする。
それから、小さく息を漏らした。
「そういうこと、ちゃんと言うんだ」
「何だよ」
「別に」
少しだけ口元を緩めて、千歳は部屋の隅を示した。
冬真は壁際に腰を下ろす。近すぎず、遠すぎない距離だった。
たぶんお互い、まだ無意識にその距離を測っている。
「腕」
千歳が視線を向ける。
「まだ痛い?」
「少し」
冬真が正直に答えると、千歳の睫毛がわずかに震えた。
「そっか」
それだけで終わる。
責めない。謝りもしない。
でも、その短さの中に、昨夜までとは違う重さがある。
「冬真」
千歳がゆっくりと呼ぶ。
「三日後って、本当に三日なんだね」
「ああ」
「近いね」
「近すぎる」
答えると、千歳は少しだけ目を伏せた。
「正直、まだ頭がついてってない」
「だろうな」
「うん。でも」
そこで顔を上げる。
「昨日みたいに、何もわからないまま怖い、とはちょっと違う」
冬真は黙って聞く。
千歳は膝を抱え込みそうになる手を、途中で止めた。子どもっぽく見える仕草を、無意識に抑えたのかもしれない。
「怖いのは怖い」
千歳は続ける。
「でも、今はそれだけじゃない」
「何だ」
「……怒ってる」
少し意外だった。
けれど、言われてみれば当然かもしれない。
「誰に」
冬真が問うと、千歳は苦く笑った。
「いろいろ」
それから、少しずつ言葉を置く。
「わたしを勝手に決める村にも」
「……」
「何も言ってくれなかった冬真にも」
「痛いな」
「うん。言ってる方も痛い」
そう言って、千歳は目を伏せる。
「でも、自分にも怒ってる」
「何で」
「昨日まで」
千歳は小さく言う。
「本当に、仕方ないって思いかけてたから」
冬真の胸の奥が重く沈む。
やはりそうだった。
怖い、嫌だ、と感じながらも、その先で“でも自分が我慢すれば”の方へ進みかけていた。
「だから」
千歳は続ける。
「今は、ちゃんと嫌だって思ってたい」
その言葉は静かだったが、芯があった。
「怖いけど、行きたくないって、ちゃんと思ってたい」
冬真はゆっくり息を吐く。
それでいい。
それだけで十分とは言えないが、少なくとも必要な第一歩ではある。
「それでいい」
低く言うと、千歳は少しだけ目を瞬いた。
「また同じこと言った」
「大事だからな」
「そっか」
小さく笑う。
昨夜よりは、少しだけ自然な笑みだった。
けれど次の瞬間、千歳の表情はまた静かに戻る。
「ねえ」
「何」
「三日後までに、何とかするんだよね」
ここが本題だった。
冬真はわかっていた。
千歳はもう、ただ待つだけではいられない。少なくとも、自分たちが何かを探していることまでは知っている。
「探してる」
冬真は答える。
「何を」
「契約を壊す方法」
「やっぱりあるんだ」
「あるかもしれない、が正しい」
「でも、探してる」
「ああ」
千歳はじっとこちらを見る。
その目は、怖がるだけの目ではなかった。
今まで蚊帳の外にいた人間の目ではなく、自分のこととしてこの先を見ようとする人の目だ。
「わたしにも手伝える?」
その問いに、冬真は即答できなかった。
手伝わせたくない。
危険だから。
知りすぎてほしくないから。
何より、千歳は知れば知るほど“自分が行けば”の方向へ傾く可能性がある。
だが一方で、何もさせなければまた同じだ。
置いていかれるだけの苦しさを、昨夜から何度も見てきた。
「内容による」
結局そう言うと、千歳が少しだけ眉を寄せる。
「その言い方、ほんと便利だね」
「便利だからな」
「ずるい」
「知ってる」
少しだけ空気が和らぐ。
けれど千歳はすぐに真顔へ戻った。
「じゃあ、わたしにできること、教えて」
「今は」
冬真はゆっくり言う。
「変だと思ったことを隠さない。呼ばれても応じない。勝手に一人で調べに行かない」
「最後のやつ、信用なさすぎない?」
「あるから言ってる」
「……ちょっとだけ考えたけど」
「考えるな」
「無理」
「考えても一人で行くな」
「それは」
千歳は一拍置く。
「善処する」
冬真は思わずため息をついた。
「それじゃ信用できない」
「でも昨日よりは、ちょっと成長してるでしょ」
「そこは否定しない」
「珍しい」
「否定しようがない」
そのやり取りのあと、不意に千歳がこちらを真っ直ぐ見た。
「冬真」
「何だ」
「昨日、仮殿で」
一瞬だけ言いよどむ。
「わたしがいなくなっても平気なんて思ってないって、言ったよね」
胸がどくりと鳴る。
忘れていなかった。
忘れるわけがないかもしれない。
あれは冬真にしては、ほとんど剥き出しの本音だった。
「……言ったな」
「嘘じゃないっても」
「ああ」
千歳は少しだけ唇を引き結ぶ。
何かを確かめるように呼吸を整え、それから小さく言う。
「じゃあ」
その先の言葉は、ほんの少し震えていた。
「三日後までに、わたしを一人にしないで」
正面からそう言われて、冬真は一瞬、本当に返す言葉を失った。
一人にしないで。
それはただ物理的にそばにいてほしいという意味だけではない。
何も知らされないまま置いていかないで、という意味も含んでいる。
その重さがわかるから、すぐには答えられなかった。
「……できる限り」
ようやく絞り出した言葉は、やはりどこか曖昧だった。
千歳は少しだけ目を細める。
「やっぱりずるい」
「無理な約束はしたくない」
「その気持ちはわかる」
そう言って、千歳は少しだけ柔らかく笑う。
「でも、前よりはちゃんと聞こえる」
「何が」
「行くつもりがあるってこと」
冬真は視線を逸らした。
そういうところまで拾われるのは、いまだに慣れない。
部屋の外で、綾人の足音が止まる。
襖越しに声がした。
「長話は終わったか」
「何だよ」
「社の文書庫を開ける」
その一言で、空気が変わった。
冬真が顔を上げる。
「今からか」
「今しかない」
綾人は続ける。
「村長たちも今はまだ社に詰めていない。手が足りん。お前は来い」
「行く」
「待って」
千歳が言う。
二人の視線がそちらへ向く。
「わたしも行く」
はっきりした声だった。
冬真は即座に眉を寄せる。
「だめだ」
「なんで」
「危ないから」
「それだけ?」
「それだけで十分だろ」
「十分じゃない」
千歳は立ち上がった。
まだ少し怖さは残っている。けれど、それ以上に“もう置いていかれたくない”という感情が勝っていた。
「わたしのことなんでしょ」
千歳は静かに言う。
「なら、わたしも知りたい」
「今はまだ」
「またそれ」
千歳の声に、少しだけ熱が宿る。
「全部じゃなくていいって、さっきも言った」
「千歳」
「一人にしないでって言ったの、そういう意味もあるんだよ」
その言葉に、冬真は完全に黙った。
綾人が襖の向こうで小さく息を吐く。
「二人とも、廊下で言い争うな」
「お前はどっちだ」
冬真が鋭く問う。
少しの沈黙のあと、綾人が答える。
「連れて行く」
「綾人」
「ただし本殿の奥には入れん。文書庫までだ」
そして言い切る。
「ここで完全に外せば、次は本当に勝手に動く」
それは否定できなかった。
千歳もまた、それを自覚している顔だった。
自分がどこまで危ういかを、少しずつわかり始めている。
だからこそ、今は正面から行くと言っているのだ。
冬真は長く息を吐いた。
「……絶対に一人で動くな」
「うん」
「勝手に触るな」
「うん」
「変な声がしても」
「返事しない」
「……本当にわかってるか」
「今回はほんとにわかってる」
千歳はそう言って、小さく頷く。
この第2章第1話は、ここで終わるのが最も強い。
なぜなら、
・三日後という期限が現実に迫っている
・千歳はもう受け身ではなく、自分で知ろうとしている
・冬真は危険を承知でそれを完全には拒めなくなっている
・綾人がその中間を取り持ち、次の舞台=文書庫への導線を作る
からだ。
つまりこの話のラストは、
**「三日後のための嘘」から、「三日後を壊すための調査」へ進む起点**
として機能する。
千歳は戸口へ向かいながら、一度だけ振り返った。
「冬真」
「何だ」
「今度は、ちゃんと一緒に行くから」
その言葉に、冬真はすぐには返事をしなかった。
けれど、否定もしなかった。
それだけで十分だとでも言うように、千歳は小さく息を吐く。
曇った冬の光が、二人のあいだに落ちる。
まだ遠い。
でも、昨日よりは確かに同じ方角を向いていた。




