第1章 第21話:それでも、明日へ連れていく
その夜、雪は降らなかった。
空は曇っているのに、雲の切れ間からぼんやりした月明かりが漏れている。白い地面はかすかに光り、静まり返った村を冷たく照らしていた。
静かすぎて、逆に耳鳴りがするような夜だった。
冬真は自室の窓辺に立っていた。
眠れないのではない。眠る気がないだけだ。
三日後という期限を聞かされた今、ただ布団に入って夜をやり過ごすことなんてできるはずがなかった。
左腕の痛みは昼より落ち着いたが、その分、身体の奥に沈んでいる。見えない火種みたいに、少し気を抜けばまた燃え上がりそうな痛みだ。
窓の外――千歳の家の方角には、綾人の張った札がいくつも白く浮いている。
あれで足りるとは思っていない。
思っていないから、こうして起きている。
からん。
鈴の音がした。
冬真の視線が鋭くなる。
今夜初めてではない。夕方から、遠く近く場所を変えながら、何度も鳴っている。札と結界の反応を探るみたいに、向こうもこちらの出方を見ている。
「……しつこいな」
低く吐き捨てたときだった。
千歳の家の方で、ひとつだけ灯りが揺れた。
消える。
また灯る。
その明滅の仕方が不自然だった。
冬真は窓から身を乗り出す。
胸の奥で嫌な鼓動が跳ねた。
次の瞬間、千歳の部屋の障子に、細長い影が映った。
冬真は迷わなかった。
外套を掴み、そのまま戸を開ける。
◆
雪を踏み、夜の道を走る。
痛みはある。呼吸も浅い。だが今はどうでもよかった。
千歳の家の前まで来たとき、門柱の札が二枚、すでに黒く焦げているのが見えた。
「くそ……!」
門をくぐる。
庭の空気は明らかにおかしい。冷たいのではなく、湿って重い。井戸の方から生臭い風が吹き、母屋の障子がかすかに震えていた。
玄関へ踏み込もうとしたそのとき、内側から戸が開く。
出てきたのは千歳だった。
「千歳!」
冬真が叫ぶ。
千歳は眠ってはいなかった。
顔色は悪いが、目ははっきり開いている。だがその瞳には、強い緊張と、妙な静けさが同時にあった。
「冬真」
かすれた声。
「来ると思った」
「何してる」
「声がした」
「だから出てきたのか」
「違う」
千歳はゆっくり首を振る。
「前なら、たぶん出ていってた」
冬真の背筋がひやりと冷える。
だが次の言葉が、その冷えを別の意味で変えた。
「でも、今日は開けなかった」
千歳が言う。
「ちゃんと、呼ばれても返事しなかった」
その一言だけで、胸の奥が少しだけ熱くなる。
言ったことを覚えていた。
守った。
それは小さなことではない。
「じゃあ何で外に」
「部屋の札が焦げて、母さんたち起こしちゃって」
千歳は振り返らずに言う。
「綾人さん呼びに行こうと思ってた」
その説明の途中で、井戸の方から黒い気配が膨らんだ。
冬真は反射で千歳の手首を掴み、自分の背へ庇う。
「下がれ」
黒いものが地面を這う。
昨夜までみたいな“影”ではない。もっと薄く、もっと広い。霧とも水ともつかない黒が、庭の石畳をなぞりながらこちらへ寄ってくる。
札が次々に焦げる。
だが完全には破れない。
結界はまだ持っている。
だからこそ向こうは、今夜は“引きずり出す”方を選んだのだろう。
「冬真」
千歳の声が背中越しにする。
「今夜は、呼ばれても平気だった」
「……」
「怖かったけど、昨日みたいに行かなきゃって思わなかった」
その告白に、冬真は少しだけ目を見開く。
成長だ。
確かに。
昨夜までの千歳なら、“自分が行けば”に一瞬で傾いていた。
だが今夜は違う。
怖くても、嫌だと踏みとどまっている。
「だから」
千歳は続ける。
「わたし、ちゃんと待てた」
胸の奥が強く鳴った。
待つ。
昼にも言っていたその言葉を、今夜の行動で証明したのだ。
その瞬間、黒い霧が大きくうねる。
井戸の上に、ぼんやりと人の輪郭が浮かんだ。
白い顔。
長い髪。
女のようで、でも女ではない何か。
「残念」
湿った声が庭に落ちる。
「少しだけ賢くなったのね」
冬真の目が細くなる。
あの声だ。
仮殿で聞いたものの欠片。
だが本体ではない。まだ、出きってはいない。
「今夜は帰れ」
冬真が吐き捨てる。
「帰るのはそっち」
声が嗤う。
「三日後には、ちゃんと迎えに来るもの」
千歳の指先が、背中越しにわずかに震えたのがわかる。
冬真は振り返らずに低く言う。
「聞くな」
「聞いてない」
千歳の返答は、思ったよりしっかりしていた。
それだけで、少しだけ救われる。
だが悠長にしている暇はない。
冬真は懐から札を抜き、黒い霧の手前へ投げる。
「閉じろ」
赤い光が走り、霧の先端が焼けた。
濁った悲鳴。
しかし今夜の霧は深入りしてこない。試すだけ試して、反応を見ている感じだった。
「……嫌なやり方だな」
冬真が低く吐く。
「三日」
声はなおも笑っている。
「それまでに、お前がどこまで保つか見ていてあげる」
その言葉が、狙いすましたように冬真の左腕へ痛みを走らせた。
黒い霧はそれを見たように、ふっと揺れる。
まずい。
向こうはこちらの消耗を知っている。
そして千歳にも、それを見せたがっている。
「冬真」
千歳が背中越しに呼ぶ。
その声には、昼までとは少し違う強さがあった。
「下がって」
「は?」
「今の、深追いしない方がいい」
冬真は一瞬だけ息を呑む。
千歳が、そう言った。
無茶を止める側の言葉だ。
自分が行くから、ではなく、目の前の状況を見て“下がる判断”を促している。
「……らしくなってきたな」
思わず零れる。
「何それ」
「悪くないって意味」
「わかりにくい」
そのやり取りの直後、庭の向こうから綾人が駆け込んできた。
「遅かったか」
「ぎりぎり間に合ってる」
冬真が返す。
綾人は状況を一目で見て、すぐに井戸の周囲へ札を追加した。
霧はそれを嫌うようにゆらめき、やがて地面へ溶けるように引いていく。
最後に、あの声だけが残った。
「待っているわ」
消える。
静寂。
夜の冷たさだけが庭に戻る。
綾人が小さく息を吐いた。
「……今夜はこれで引くだろう」
「様子見か」
「あるいは宣言だな」
三日後。
向こうも、それを区切りにしている。
冬真はそこでようやく千歳の手首を離した。
千歳は一歩だけ前へ出ると、井戸の方を見つめたまま小さく言う。
「怖い」
「知ってる」
「でも」
千歳が振り向く。
「今夜は、昨日みたいに負けなかった」
その目には、まだ恐怖がある。
けれどそれだけではない。
待つだけでも、黙って守られるだけでもない、自分の足で立とうとする意志が、そこにはあった。
「……ああ」
冬真は答える。
「ちゃんと、明日の側にいた」
千歳の睫毛が震える。
少しだけ泣きそうに、それでも笑う。
「それ、たぶん、今のわたしには一番ほしい言葉」
「そうか」
「うん」
綾人が、二人を見ながら小さく息を吐いた。
「夜中に関係を進めるのは勝手だが、ここは庭先だ」
「進めてねえよ」
冬真が言い返す。
「え、そういう自覚ないんだ」
千歳がぼそりと零し、冬真が眉をひそめる。
「お前まで何言ってんだ」
「……ちょっとだけ、元気になった」
そう言って千歳は視線を逸らす。
その一言に、冬真は返答を失った。
元気になった。
そんなふうに言われる資格が自分にあるのかは、まだわからない。
それでも、少なくとも今夜、千歳は自分で踏みとどまった。
それは確かな事実だった。
けれど同時に、最後の最後でバレる構造も守る。
まだ千歳は“冬真がどこまで自分のために傷を引き受けていたか”の全貌を知らない。
知ったのは、あくまで氷山の一角だ。
だからこそ、この先がある。
冬真は千歳の家の門を出る前に、もう一度だけ振り返った。
札に囲まれた家。
白い雪。
その中に立つ千歳。
近づいたようで、まだ遠い。
でも、もう完全に手の届かない場所ではない。
「千歳」
低く呼ぶ。
彼女が顔を上げる。
「三日」
冬真は言う。
「絶対、諦めるな」
千歳はほんの一瞬だけ目を見開き、それから静かに頷いた。
「うん」
短く、でも迷いなく。
「今度は、ちゃんと一緒に抗う」
その返事を聞いて、冬真はようやく息を吐いた。
それでも、最後の最後で知られてはいけない真実は、まだ胸の奥に沈んでいる。
幼い頃からどれだけ逸らしてきたのか。
どれだけの夜を一人で引き受けてきたのか。
その全部が露わになるのは、まだ先だ。
だが少なくとも、第1章はここで終わる。
“守っていることを知られないまま、距離だけが壊れていく”段階は終わり、
“少しだけ真実に触れた二人が、三日後へ向かって同じ方を見始める”段階へ入った。
雪の村の夜は、何も解決しないまま静かだった。
けれどその静けさの下で、確かに次章への火は灯っていた。




