第1章 第19話:選ばされる前に
夕刻前、空はまた鈍く曇っていた。
千歳の家の座敷には、冷えた茶の匂いと、焚かれた香の薄い煙が漂っている。朝のあいだに貼り足された札が廊下のあちこちで白く浮き、家そのものが借り物みたいに見えた。
千歳は母の志乃と向かい合って座っていた。
「無理しなくていいのよ」
志乃が何度目かもわからない声で言う。
「具合が悪いなら、綾人さまに――」
「大丈夫」
千歳はそう答える。
その言葉が、ここ数日で何度自分の口から出たかも、もうわからない。
大丈夫ではない。
昨夜からほとんど眠れていないし、耳の奥にはまだ鈴の音が残っている。冬真の腕に浮いた痣も、あの掠れた呼吸も、目を閉じるたびに蘇る。
それでも今は、大丈夫だと言うしかなかった。
母をこれ以上不安にさせたくない。
その気持ちがある時点で、やはり自分は冬真の言う通りの人間なのかもしれない、と千歳は少しだけ苦く思う。
表で、複数の足音が止まった。
志乃の手が小さく震える。
千歳は深く息を吸い、膝の上で指を組み直した。
来た。
戸が開く。
入ってきたのは村長と、社の補佐役の老神職、それから顔見知りの年配の女がひとり。
皆、表向きは穏やかな顔をしている。けれどその目の奥には、決して個人に向けるものではない色があった。
確認。
判断。
共同体のための計算。
「千歳さん」
村長が柔らかい声で言う。
「昨夜は大変だったようだね。体調はどうかな」
「……少し疲れているだけです」
千歳は答える。
「そうかそうか」
村長は深く頷き、それから少しだけ声を低くした。
「とはいえ、もう時間がないのも事実だ」
いきなり本題だった。
志乃が息を呑む。
千歳は膝の上の指先に力を込めた。
「時間、というのは」
自分でも驚くほど、声は平坦に出た。
「儀のことだよ」
老神職が答える。
「本来ならもう少し先まで様子を見る予定だった。だが昨夜のような兆しが出た以上、村全体の安寧を優先せねばならん」
千歳はその言葉を聞きながら、どこか他人事みたいに感じていた。
村全体の安寧。
それは、この村で一番強い言葉だ。
誰か一人の願いも、恐怖も、未来も、その前ではいつも薄くなる。
「いつ、ですか」
千歳が問う。
部屋が静まる。
村長は一瞬だけ言葉を選び、それから穏やかに告げた。
「三日後だ」
その瞬間、千歳の中で何かが確かに落ちた。
三日。
冬の終わりまでには、と綾人が濁していたものが、急に指折り数えられる長さになる。
長いようで、短い。
短いようで、でも“もう決まってしまった”と思うには十分すぎる長さ。
志乃が声を失う。
「そんな急に……」
「急だからこそ、意味がある」
老神職が言う。
「呼び声が強まる前に、清らかなうちにお返しせねば」
返す。
まるで借り物を元へ戻すみたいな言い方だった。
千歳はその言葉に、初めてはっきりと嫌悪を覚えた。
自分の命や未来が、そんなふうに整った言葉で片付けられることが、たまらなく嫌だった。
「嫌です」
気づけば、口に出していた。
村長も、老神職も、志乃も、一瞬だけ動きを止める。
千歳自身がいちばん驚いていた。
けれど言ってしまえば、止まらなかった。
「行きたくないです」
喉が震える。
でも続ける。
「怖いし、嫌です」
老神職が眉をひそめる。
「千歳さん」
「村のためとか、そういうのはわかります」
言葉が少しずつ熱を帯びる。
「でも、それでわたしが納得するかどうかは、別です」
部屋の空気が硬くなる。
村長は咳払いをひとつして、柔らかく言い含めるように言う。
「気持ちはわかる。誰でも怖いだろう。だがこれは、昔から――」
「昔からなら、仕方ないんですか」
千歳は遮った。
自分でも、こんなふうに言葉を被せたのは初めてだった。
膝の上で指先が震える。怖い。けれど止めたくなかった。
「怖くても、嫌でも、みんなのためなら行かなきゃいけないって」
千歳は続ける。
「そういうの、わたし、今は……はいって言えません」
志乃が小さく名を呼ぶ。
「千歳……」
その声には驚きと不安と、ほんの少しの安堵が混じっていた。
娘が初めて“自分の嫌だ”を口にしたことへの安堵。
けれどそれを口にした先で、もっと苦しい立場になるかもしれないことへの不安。
老神職の目が冷える。
「感情で契約は曲がらん」
「だったら、なおさら聞きたいです」
千歳は言う。
「どうしてわたしなのか。何がどう決まってるのか。ちゃんと説明もないまま、三日後に行けなんて言われても」
そこへ、戸が勢いよく開いた。
「その通りだ」
冬真の声だった。
千歳の心臓が跳ねる。
振り向くと、戸口に冬真が立っていた。顔色は悪い。左腕もまだ動きが不自然だ。それでもまっすぐ部屋の中を見据えている。
「冬真!」
千歳が思わず立ち上がる。
綾人もそのすぐ後ろにいた。止めきれなかったのか、それとも最後はわざと通したのか、その顔からは読み取れない。
「若造、勝手に――」
老神職が声を荒げるより先に、冬真が低く言った。
「説明もしないで日取りだけ決めるのが、あんたらのやり方か」
その声は掠れていたが、十分に鋭かった。
「本人の意思も、怖いって言葉も、全部踏み潰して」
村長が顔を曇らせる。
「君は外部の者だろう」
「この村の人間だ」
「ならなおさら、村のためを考えなさい」
その言葉に、冬真は笑いもしなかった。
ただひどく冷たい目をした。
「考えてる」
短く言う。
「そのうえで、千歳を勝手に決めるなって言ってる」
千歳はその背中を見つめた。
昨夜の仮殿で空洞へ踏み込んだときと同じ背中。
ぼろぼろなのに、立つことをやめない背中だった。
老神職が鼻を鳴らす。
「お前のような若い感情論で、村の契約を――」
「感情論で結構だ」
冬真は遮る。
「本人が嫌だって言ってる」
その一点だけで、冬真は一歩も引かなかった。
千歳の胸の奥で、何かが熱を持つ。
怖い。
でも、それ以上に、昨日までとは違う何かがそこにあった。
自分の“嫌だ”が、初めて真正面から肯定されたことへの震えだった。
村長はしばらく沈黙し、それから低く言う。
「三日後は決定ではない。最終確認だ」
その表現の言い換えに、冬真は眉をひそめる。
「だが」
村長は続ける。
「それまでに代わる手がないなら、儀は行う」
その一言が、部屋の中へ重く落ちた。
代わる手。
つまり、契約を崩す方法だ。
冬真と綾人の視線が一瞬だけ交わる。
千歳はその小さな変化を見逃さなかった。
あるのだ。
何かが。
まだ全部は言えないけれど、この二人はすでに“他の手”を探している。
「だったら」
千歳はゆっくり言った。
「その三日で、探すんですね」
冬真が振り向く。
千歳の目を見る。
「……そうだ」
短い返答。
けれど曖昧ではなかった。
村長たちはそれ以上押し切れないと判断したのか、結局その日は“正式な話は夜にまた改めて”と言い残して引き下がった。
だがそれは猶予ではなく、ただの短いカウントダウンでしかない。
第1章のラスト前として、この話は「供物の儀」が明確に三日後と定まり、千歳自身が初めて拒否を口にし、冬真が公然と彼女の側へ立つ」地点に到達する。




