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五歳を迎える頃、レンは風邪をひいていた。
熱で頭がぼんやりする。
苦しくて、視界がぐるぐる回って、上も下も分からない。
夜中に何度も目を覚ました。
薄暗い部屋。
静かな天井。
ぼうっと見つめて、また眠る。
それを何度も繰り返した。
二日後。
熱が下がったレンは、乳母とメイドに連れられて屋敷の外を散歩していた。
庭の先では騎士たちが訓練をしている。
先頭にいるのは、オルフェの弟――ウィルだった。
「半刻休め!」
低く、よく通る声が響く。
騎士たちが一斉に力を抜いた。
その瞬間、レンはぱっと顔を輝かせる。
「ウィルー!」
駆け寄ったレンを、ウィルは軽々と抱き上げた。
「お、元気になったか?」
片腕でレンを抱えたまま、後ろのメイドたちを見る。
「もう体調はいいのか?」
「はい。熱は下がりました」
「そうか」
ウィルは安心したようにレンの頭を撫でた。
ウィルは大きい。
騎士たちの中でも特に体格が良く、強い威圧感がある。
灰色がかった黒い瞳。
血よりも黒い髪。
けれど陽の光を浴びると、マグマのような赤が滲んで見える。
レンは、その髪が好きだった。
以前、騎士の子どもたちがウィルにぶら下がって遊んでいるのを見たことがある。
楽しそうでレンも走って抱きついた。
それからは、馬に乗せてもらったり、市場へ連れて行ってもらったりしていた。
辺境伯領で、ウィルを知らない者はいない。
だから領民たちも、“ウィルが可愛がっている身内の子だろう”程度にしか思っておらず、深く気にする者はいなかった。
もうすぐ、アルバートとリカルドも帰ってくる。
レンはそれが待ち遠しくてたまらない。
毎年、誕生日会を開いてくれるのだ。
乳母も、メイドたちも、みんな一緒に祝ってくれる。
それがレンは大好きだった。
「そういや、もうすぐ誕生日だろ」
市場を歩いていたウィルが、露店の前で立ち止まる。
「欲しいものあるか?」
レンはぱっと顔を上げた。
そして迷わず言う。
「ウィルがつけてるお耳の飾り!」
「……これ?」
ウィルが片耳を指差した。
耳には二つの耳飾り。
軟骨には、向こう側が見えるほど大きな穴が空いている。
レンはそれがずっと格好いいと思っていた。
「でもこれ痛ぇぞ? レンは女の子なんだから、やめとけ」
「女の子は関係ない!」
レンはむっと頬を膨らませる。
「わたし、ウィルみたいなカッコいい戦士になりたいの!」
「いやいや」
ウィルは苦笑した。
「レンは髪長いだろ。そこに穴空けても見えねぇよ」
「刈り上げるから大丈夫!」
「大丈夫じゃねぇ」
即答だった。
ウィルは呆れたようにため息を吐く。
「レンはお姫様なんだから、刈り上げる必要もねぇし、戦士にもならなくていい」
そう言って、ぽんと頭を撫でた。
「俺たちが守るんだから」
「……お姫様?」
レンは目を丸くする。
お姫様。
なんだか、すごく素敵だ。
嬉しくなって、うふふ、と小さく笑った。
けれど、すぐに首を傾げる。
「でも……じゃあ、ウィルは?」
「ん?」
「ウィルを誰が守るの?」
ウィルが目を瞬かせた。
「わたし、守りたいのに」
一瞬。
ぽかんとしたあと――。
「あっはは!」
ウィルは大きく笑った。
「お前に守られる世界、いいなそれ」
レンは褒められた気がして嬉しくなる。
するとウィルは少し考えてから、ふっと笑った。
「なら、俺の心を守ってくれよ」
「ここ……?」
レンはウィルの胸にぺたりと手を当てる。
「そう」
「……?」
意味が分からず首を傾げると、ウィルはまた笑った。
「お前たちが安全な場所にいてくれると、俺も安心できるってことだ」
「うーん……?」
やっぱりよく分からない。
レンが悩んでいると、ウィルは楽しそうに目を細めた。
そのあと。
レンがうるうるした目で「おねがい……」と頼み込んだ結果。
黒い輪に緑の宝石が揺れる耳飾りと、銀色の輪に水色の石がついた耳飾りを買ってもらったのだった。
ウィルとの市場調査を終え、屋敷へ戻った直後だった。
メイド長が、どこか緊張した様子で二人を呼び止める。
「おかえりなさいませ、お嬢様……ウィル様……あの……」
ちらり、と。
メイド長の視線がレンへ向いた。
珍しく歯切れが悪い。
「どうした?」
ウィルが問う。
「あの……一ヶ月後、旦那様と奥様が王都から戻られると手紙が届きました」
「兄上が?」
ウィルは意外そうに眉を上げた。
「まぁ、そろそろだとは思ってたが……」
顎を撫でながら、ちらりとレンを見る。
「ウィル」
レンは不安そうに服の裾を掴んだ。
「そんなにまずそうな兄上なのか? 強いのか?」
「いや、兄上ってお前の父だろ……」
ウィルはなんとも言えない顔をする。
「父上と母上が帰ってくるの?」
「あぁ」
父。
母。
兄たちから言葉だけは聞いていた。
けれど、レンにはよく分からない。
“シゴデキ”な人たちなのだと、周囲はよく言っていた。
でも、実感はなかった。
レンは不安げに二人を見る。
「……隠れるべきか?」
「なんでだよ!?」
ウィルが思わず声を上げる。
レンがびくっと肩を震わせた。
「あ、いや……悪ぃ」
ウィルは頭を掻いた。
「こっちも驚いただけだ。その……ま、なんとかなるだろ」
歯切れの悪い慰めだった。
「他の奴らにも伝えてくる」
じゃあな、と後ろ手を振り、ウィルはその場を去っていく。
残されたレンを見て、メイド長はにっこり微笑んだ。
「さ、お嬢様」
その声はいつも通り優しい。
「今もレディ教育はしておりますが、お二人が驚かれるくらい、美しい所作でご挨拶できるよう練習しましょうね」
「うむ!」
レンはこくりと頷く。
そして次の瞬間。
「耳飾りをしたいから、ここに刺してくれ」
自分の耳を指差しながら、きらきらした目で見上げた。
「お嬢様!?」
メイド長が悲鳴のような声を上げる。
「ダメです! 絶対にダメです!」
「なぜ!?」
「お嬢様だからです!!」
屋敷の廊下に、そんな騒がしい声が響いた。
そんなレンを見ながら、使用人たちは密かに思う。
――辺境伯邸での、この子の立場は何なのだろうか、と。
辺境伯オルフェは、一度も会いに来ない。
イリスもまた、回復後すぐに「夫に会いたい」と王都へ向かい、そのまま帰ってこなかった。
連絡は補佐が行っているはずだった。
だからこそ、屋敷の者たちも困惑していた。
なぜ、レンだけが置いていかれているのか。
教会から帰ってきた後も、この子はずっと辺境にいる。
まるで存在を忘れられているように。
イリスの不貞――その可能性も考えられなくはない。
だが。
あの奥方に限って、それはない。
使用人たちは皆そう思っていた。
隣国との問題も続いている。
王都は混乱していると聞く。
だから仕方ないのかもしれない。
執事やメイドたちは、そう割り切るしかなかった。
……だが。
補佐までもが解雇されたことで、不安はさらに強まった。
レンの報告をしていた者が、いなくなったのだ。
不正による解雇だったことは、一部の関係者以外には伏せられている。
長く空席となった補佐官。
そして今回――。
辺境伯夫妻が、ついに戻ってくる。
しかもイリスは妊娠中だ。
使用人たちはどこかそわそわと落ち着かないまま、帰還する主たちを迎える準備へ取り掛かるのだった。




