10
王都の屋敷から馬車で学園へ向かう。
いつもなら制服を着る。
だが今日は違った。
包帯を隠すため、黒い外套を頭まで深く被っている。
中は、いつもの騎士服に近い格好だ。 白いワイシャツに黒のズボン。
どう見ても怪しい。
もっとも。
今は長期休暇中。
学園内に生徒はいない。
進級試験は午後一時から五時まで。
四時間ぶっ通しだ。
科目は五つ。
国語。 歴史。 他国語。 魔法。 理数。
試験室には専用のトイレまでついており、「休憩も自由です」と毎回説明される。
だが。
そんな暇はない。
問題量が多すぎるのだ。
しかも全科目八割未満なら、進級できないのだ。
そして。
全部終わった頃には、完全にくたくたになっていた。
進級試験は毎回レン一人のためだけに行われる。
だから講師たちも終了時間になると、そそくさ帰っていく。
……部屋へ入った時、講師の人めちゃくちゃ警戒してたしな。
黒外套で包帯を隠してたとはいえ。
完全に不審者だったので仕方ない。
「はぁ……」
最後の講師が出ていった瞬間。
集中が切れた。
同時に。
「っ……ぐ……」
痛みが一気に押し寄せる。
痛み止めが切れたのだろう。
左足。
左腕。
左こめかみ。
左頬。
全部痛い。左が痛い。
いつもならベッドで丸一日寝ているレベルだ。
レンは重たい身体を引きずり、試験室のトイレへ入った。
そして。
ふっと姿を消す。
次の瞬間、自室へ移動した。
机の引き出しに置いてある痛み止めを飲み、水で流し込む。
再び試験室のトイレへ戻った。
けれど。
薬はすぐには効かない。
「ぅ……」
全部痛い。
早く帰りたい。
でも。
人目が気になる。
足を引きずりながら、なんとか外へ出て――。
そこでレンは固まった。
「……あ」
馬車を返していた。
試験前。
“いつも通りでお願いします”
そう言ってしまったのだ。
だから御者も、レンがこんな状態だとは知らない。
いつもならそのまま園外へ出て、人目のない場所で瞬間移動して帰る。
けれど今日は無理だ。
歩くのもしんどい。
「うぅ……」
―――痛い。冷や汗が流れる。 足も痛い。 頭もがんがんする。
ついに耐えきれず、その場にぺたんと座り込んだ。
――お嬢様はしたないですよ。
たぶんメイド長ならそう言う。 けれど今は無理だ。
……いや。 父上のほうが先に怒るかもしれない。
『床に座るな』 『怪我人は寝てなさい』
そんな声が脳裏に浮かび、レンはふっと笑った。
父上に会いたい。 母上なら「困った子ねぇ」と微笑むだろう。
はぁ……どうしよ。
「――お前、そこで何をしている」
低い声が降ってきた。
びくっ、と肩が跳ねる。
顔を上げると、男子生徒が立っていた。
高等部の制服。 すらりとした体格。
そして、夕陽の光を受けて淡く輝く銀髪。金色の瞳と水色虹彩。
長期休暇中のはずなのに。 なぜ生徒がいるのか。
その視線は冷たかった。
完全に、不審者を見る目である。
レンは慌てて視線を落とした。
……まぁ、怪しいのは事実だ。
頭まで黒い外套を被り。 顔を隠し。 座り込んでいる。
どう見ても不審者だった。
「…………」
やばい。
レンはそっと立ち上がった。
「っ……」
足に鋭い痛みが走り、そのまままたぺたんと座り込んでしまう。
銀髪の男子生徒が静かに近づき、目の前へしゃがみこんだ。
「怪我をしているのか?」
レンはこくこくと頷く。
次の瞬間、ひょいと身体が持ち上がった。
あわわわ……
横抱きだった。
男子生徒は軽々とレンを抱えたまま歩き出す。
「お前、名前は?」
「……ちゅ、中等部です」
ふっ、と小さく笑われた。
「名前だ」
「……正直に言うと、教えたくないです。でも怪しい者ではないのです」
ふっ、と男子生徒がまた笑う。
「……十分怪しいが」
その通りすぎて、レンは黙った。
男子生徒に抱えられたまま、こつ、こつ、と響く足音。 一定の揺れが妙に心地いい。
「早く治癒魔法を施した方がいい――」
男子生徒が何か言っていた。
「おい、聞いて――」
けれど、そこで視界がぐらりと揺れる。
「うぅ……」
がくっ、とレンの力が抜けた。
腕の中で、レンはそのまま気絶していた。
目が覚めた時、レンは知らない部屋のベッドにいた。
頭はすっきりしている。 身体の痛みもない。
誰もいないのを確認すると、すぐに転移し、辺境の自室へ戻った。
「……ふぅ」
そこで、ふと銀髪の青年を思い出す。
――その瞬間。
人影が視界に入り、びくっと肩が跳ねた。
「……っ」
本気で怖い時、人は声が出ない。
壁に背を預け、腕を組んだオルフェがそこにいた。
「……ち、ちちうえ」
どうやら、ずっと待っていたらしい。
オルフェはゆっくり近づくと、レンの肩をがしっと掴んだ。
「……レン、お前……」
低い声が震えている。
「無事なんだな……?怪我は大丈夫か?」
本気で心配している顔だった。
この顔を、レンは何度も見ている。
外はまだ薄暗い。 時間は四時前。
レンは慌てて、学園での出来事を全て説明する。
「父上、心配かけてごめんなさい……」
レンもまた、オルフェの顔を見て不安そうに震える。
オルフェはしばらく何も言わなかった。
ただ、娘の肩を掴んだまま、無事を確かめるように見つめる。
やがて。
「……お前が無事なら、それでいいんだ」
低く、静かな声だった。
張り詰めていたものを吐き出すように、ふぅ……と息をつく。
そしてオルフェは、レンの頭をぽんと撫でると、そのまま部屋を後にした。
閉まる扉。
静かになった部屋で、レンは立ち尽くす。
去っていくオルフェの背中を見送りながら――レンは、何も言えなかった。
昼食。
イリスとアウラも交え、レンはもう一度、最初から全部説明することになった。
レンが帰ってこず、王都へ騎士を連れて向かおうとしていたらしい。 イリスが必死になだめていたという。
「……無事でよかった」
その言葉で、この話は終わる――はずだった。
「銀髪に金の瞳といえば――」
終わらなかった。
アウラ!
レンがぎょっとする。
アウラはきらきらした目で身を乗り出した。
「高等部なら、あの方しかいませんわ!」
「……誰だ?」
オルフェは食後のコーヒーを片手に、湯気越しにアウラを見る。
「ヴァレリア公爵家の公子様ではないでしょうか?」
ぴたり、とオルフェの動きが止まった。
「……ほう、なるほど。あいつの息子か」
「あなた、知っているの?」
イリスが首を傾げる。
オルフェは少し嫌そうに眉を寄せた。
「……馬が合わなくてな。関わりは薄い」
珍しい。
オルフェがここまではっきり苦手を口にするのは。
レンとアウラが揃って目を丸くする。
「ヴァレリア公爵家は、南西部の砦を守る家門だ。うちとは反対側だな」
辺境伯家が北東の国境を守る盾なら、ヴァレリア公爵家は南西の要。
どちらも魔獣討伐と国防を担う武門だ。
「堅物な奴でな、規律の塊みたいな男だ。まあ、知らんが」
「……へぇ」
レンはぼんやり、あの銀髪の青年を思い出す。
冷たい目。 けれど、笑うと少し柔らかくなる声。
『……十分怪しいが』
思い返すと、ちょっと失礼だった気がする。
「騎士の腕があり、成績優秀、加えてあの容姿ですもの。初等部の女の子たちの間でも人気なのよ」
アウラが得意げに言う。
「まぁ、そうなの?」
イリスが少し驚いたように目を丸くした。
「ええ。毎年、学園内で騎士科と魔導科の試合があるのですけど、中等部の頃からかなり強かったそうよ」
アウラは食後のミルクティーを優雅に飲む。
「お兄様たちも上位だったのかしら」
「あの子たち、全然そういう話してくれないのよねぇ」
イリスが困ったように笑う。
するとオルフェが淡々と言った。
「あいつらなら、常に四位以内には入っていたな」
「まぁ、そうなの?」
イリスが嬉しそうに笑う。
「すごいのねぇ」
うふふ、と柔らかな声が響く。
レンは内心、ほっと息を吐いた。
――助かった。話題が変わった




