第八章 歌ってほしい嘘
ノエルは、鏡を見る時だけ黙っていた。
鐘町ネイの楽屋で、耳飾りを片方ずつ外している。婚礼の日になくした一つは、結局見つからなかった。今つけているものは借り物で、耳の下に赤い跡ができていた。
「痛いなら、外したままで」
わたしが言うと、彼女はもう一度つけた。
「客席からだと、光るほうが見えるの」
喉へ巻いた布は椅子の下に押し込んである。北門からここまで、ノエルはほとんど喋らなかった。眠る時、何度も咳で目を覚ましていた。
「歌えますか」
「まだ声を出してない」
「出してみたら」
「一回分、減るでしょう」
鏡の中で笑った。返す言葉を探していると、リリアが入ってきた。左腕を吊っている。そのため借りた薄紫の衣装は片袖だけを通し、もう片方を胸で留めていた。
「会場はいっぱいよ」
ノエルの目が変わった。喉の布を、靴の先でさらに奥へ押した。
リリアは扉を閉め、わたしたちへ条件を話した。商会が用意した歌の夕べに出れば、荷車一台と薬の買い付け代を出してくれる。奪われた分を少しでも補い、北街道の荷もまた動かせる。
「寄付金を募る歌ですか」
わたしは尋ねた。
「元からその予定だったの。婚礼を祝って、会盟へ送る寄付を集める。使わなくなった席と楽団を、このまま帰すほうが惜しいでしょう」
リリアは鏡の上の燭台を直した。自分のために身支度を整える時より、指がゆっくり動いていた。
「殿下は」
「来てくださるわ。話をする時間も取れた」
わたしはノエルの鞄へ視線を落とした。開いた口から、小さな靴下が覗いている。王都でもらった銅貨は、まだ中に入っているだろうか。
「いつもの追悼歌にします」
ノエルが言った。
「新しいのは覚えられないし、喉ももたない」
「一曲だけでいいわ」
リリアが頷いた。その横顔を見て、わたしはやっと言った。
「結婚が決まったように見せるのですか」
燭台を持つ手が止まった。
「そういう発表はしない」
「でも、席は」
「わたしと殿下が同じ会場にいたら、嘘になるの?」
聞き方が卑怯だと思った。自分が何を恐れているのか、リリアには見えている。わたしは、二人が同じ席へ座るのが嫌だった。マーヤの薬や、北街道の馬のことを口へ出す前に、それがある。その事実を、彼女の代わりにわたしが説明することはできなかった。
「やめてください、二人とも」
ノエルが耳飾りへ触れた。
「今日は、わたしが歌うんです」
耳から外して、机に置いた。
「こっちを見て」
*
舞台の前には、白い椅子が二脚あった。カシウス殿下は一脚を動かし、隣へ余裕を作って座った。商会の人が何か言い、殿下は短く答えた。リリアは遅れてもう一脚へ腰を下ろす。腕を支える布をほどこうとすると、殿下が止めた。
「そのままで」
リリアの頬がわずかに緩んだ。
わたしは後ろの壁際に立っていた。イネスとオスカーさんは出入口を確かめている。ベルタは会場へ入らず、馬と荷を見ていた。マーヤは新しく頼んだ薬の値段を聞き、コレットと言い争った後、別の店へ行った。誰も全員を一つの席へ戻そうとはしなかった。
客席には町の商人と家族、軍服の男たち、遠くから来た巡礼者がいる。小さな楽堂なので、舞台から顔が一つずつ見える。前の女の子が蝋燭を持ち、横の母親から、火を揺らすなと注意されていた。支配人が壇上へ出た。
「聖女セレスティア様と、ダルガ帝国第二皇子殿下のご臨席をいただき――」
わたしは顔を上げた。リリアも、支配人を見ていた。
カシウスが椅子から立つ前に、楽団の音が鳴った。大きな音だった。小さな楽堂に、婚礼用の管と太鼓まで入れたのだ。言葉はもう届かない。支配人は笑顔で両手を広げ、白紗をつけたノエルを舞台へ迎えた。
白紗は、貸すことになっていた。箱から一枚だけ出すのを、リリアが許可したと後で知った。聖女の声のほうが客が安心するから、一曲だけ。歌が終われば外すから、と。
ノエルは客席を見渡した。金色の髪、青い目。どの客も、舞台の中央を見る。後ろで喋っていた男が口を閉じ、女の子が蝋燭を胸へ引いた。
わたしも、あの視線を知っていた。人が自分の次の動きを待つ。何かを言えば、今だけは誰にも遮られない。
ノエルの胸が上がった。最初の一音は、細かった。次の音は出た。聖女の声は、擦れた喉を滑らかにはしない。聞く人に同じ人だと思わせるだけで、痛みも息の量も元のままだ。
彼女は一節を歌った。客席の老いた男が目を閉じた。隣の女性が、手に持つ短い名簿を折り直す。亡くした人のために来たのだろう。婚礼を祝う歌ではなく、ノエルがいつも歌った別れの曲を聴きに。
第二節で、声が割れた。
楽団が大きくなる。ノエルは口を開き直した。顔は微笑んでいる。白紗は、誰の苦しそうな顔も聖女の表情へ寄せてしまう。わたしには、彼女が息を吸えていないのが見えた。
リリアが立ち上がった。
支配人が前へ出る。
「お掛けください。すぐ整います」
リリアは支配人の腕を押した。左肩に響いたらしく、一瞬顔が歪む。カシウスも立ち、支配人を椅子の脇へ避けさせた。
舞台で、ノエルが白紗を取った。楽団が止まる。聖女ではない女が咳き込み、片手で口を押さえた。咳が収まるまで、誰も何も言わなかった。その沈黙は、歌を待っていた時のものとは違った。
「すみません」
ノエルの声は低かった。
「この声では、一曲も無理でした」
客席で何人かが笑った。悪意のある笑いではなかったけれど、ノエルの顔が赤くなった。
支配人が舞台へ向かおうとした。ノエルは、自分で譜面を閉じた。
「あと、さっきの紹介は違います。結婚は決まっていません」
リリアの指が、椅子の背を握った。
「わたしも、そのことを知っていました」
ノエルが客席を見た。今度は全員を見渡せず、さっき名簿を折った女性のあたりへ、視線を留めた。
「聞きに来てもらえるのが、嬉しかったんです。もう聖女じゃなくなったら、こんなに人が集まることはないかもしれないと思って」
それ以上、声が続かなかった。
カシウスが舞台の横へ進んだ。
「婚姻については、私も答えていない。寄付を条件に、花嫁を決めるつもりはない」
声を荒らげはしなかった。けれど、座っていた商人の何人かが、財布を懐へ戻した。
リリアは座らなかった。
わたしのところへ来て、耳元で言った。
「嬉しそうな顔をしないで」
していたのだと思う。何も返せなかった。
*
荷車は借りられなかった。
寄付も、薬を買い直せる額には届かなかった。支配人は楽団への支払いを先に差し引き、残りの硬貨を袋へ入れて返した。ノエルはその袋へ、靴下から出した自分の銅貨を加えた。
「使って」
マーヤが袋を押し返す。
「声の出るまで、仕事しないで」
ノエルは返事をしなかった。声が出ないのか、返したくないのか、わからなかった。
楽屋を片づける間に、老いた女性が来た。折り畳んだ名簿を持っている。
「最後まで聴けなかったから」
ノエルは立ち上がり、頭を下げた。
女性は名簿を差し出した。
「良くなったら、この子のところまで歌っておくれ。今日じゃなくていい」
ノエルが紙を受け取った。その真ん中の一行へ、何度も指を当てた跡があった。
女性が帰ってから、ノエルは扉を閉めた。こちらへ背を向け、声を出さずに泣いた。リリアが後ろへ立ち、櫛を出す。歌をやめたことには何も言わず、白紗で乱れた髪を梳いた。
わたしは、借り物の耳飾りを箱へ戻した。二つとも揃っていた。
机に残った白紗を畳み、リリアへ渡した。彼女は白い箱を開け、六枚の上へ戻して鍵を掛けた。




