第七章 北門の借り
ヴィークは、薬の代金を払っていなかった。
帳簿を外へ出すとわかった途端、相手の名を次々に言った。薬商が値を上げた。荷馬を返せと領主が言った。灰橋の会盟奉行が催促した。みんな急いでいたから、後で精算するしかなかった。コレットは数字を追った。村へ回した馬車が戻る日まで、ラハトの薬は後便でよい。わたしの書いた指示が、その頁へ綴じられていた。ヴィークはその猶予の間に、薬へ払うはずの銀を、会盟で使う材木の手付金へ回していた。炉の前の空き瓶は、中身を買う前に用意したものだった。
「待たせている間、ラハトへ何を送ったのですか」
「倉の残りの麦と豆だ。空の箱へ入れた。せめて食べる物だけは届かせようと思ったんだ」
「残しておくって、言ったじゃない」
コレットが帳簿から顔を上げた。
「薬があるから、一日ならって。買ってもいなかったの?」
ヴィークは空き瓶を見た。返事はしなかった。
「薬が届く前に受け取りを書かせたのですね」
わたしが言うと、ヴィークは机を叩いた。
「届くはずだったんだ。翌週には。その間、石工の持ち帰りに箱を使わせた。余りを使って何が悪い」
仕入れを約束した日付は、ラハトへ届くはずの日より後だった。
ミロの署名の下に、別の薄い紙が貼りついている。剥がすと、材の余りを受け取ったと書かれた元の明細が出た。署名を切り取って薬の欄へ貼った後、裏紙まで剥がれず残ったらしい。オスカーさんが、それを机へ置いた。ヴィークのほうへ押しもせず、まっすぐ乾くよう端を押さえる。
王国の護衛が戸口を塞いだ。
「王都へ戻れ。帳簿も一緒だ」
ヴィークはカシウスではなく、護衛を見た。
「俺を連れていったら、ここの支払いは誰がする」
庭の荷運び人も、それが知りたい顔をしていた。結局、オスカーさんが夕方まで残った。殿下の印のある預かり証を作り、出せる銀を数え、動かせる馬を三頭借りた。ヴィークは王国兵二人に挟まれ、夕方の便で南へ送られた。見送る者はいなかったが、皆が納得したわけでもなかった。
ミロの受領書は、わたしが写した。改ざんされる前と後、二枚。
ベルタが見ていた。
「それを持って謝るのか」
「はい」
「紙を読む人だと思うか」
わたしは筆を置いた。
彼女は戸口へ戻り、それ以上責めなかった。
*
翌日の朝、北門の近くで、先頭の馬が止まった。門と呼ばれていた石の塔は半分崩れ、道を跨ぐ梁だけが残っている。わたしたちは正規の宿を一つ飛ばして来た。荷継ぎ場で遅れた分を取り返すため、夜明け前に出たのだ。
道の中央に、荷車が横倒しになっていた。御者が手綱を引く。ベルタは最初、倒れた荷をどけるために近づいた。積んでいた薪が散っている。人がいないことに気づき、立ち止まった。
「戻せ」
カシウス殿下の声がした。
遅れて、左の藪が鳴った。石が馬車の窓へ当たった。硝子が割れ、ノエルが悲鳴を上げる。わたしはマーヤに引かれ、座席の下へ伏せた。硝子の細片が首筋へ落ちる。外で馬がいななき、車輪が横へ滑った。
「帝国の男を出せ!」
男の声だった。後ろからも人が出てきた。古い軍の外套を着た者、手拭いで顔を隠した者。何人いるかわからない。車の下から見えるのは、泥のついた靴と、引きずる槍の先だけだ。
マーヤがわたしの口を押さえた。
「頭、上げないで」
リリアは窓の下にうずくまり、左の肩を抱えていた。さっき飛び込んできた石が当たったらしい。白い顔で目を閉じ、唇を動かしている。痛い、と。
ノエルがそれを聞いて、泣くのをやめた。自分の上着を丸め、リリアの脇へ差し込む。イネスは窓の外にいる王国兵へ何か叫んでいた。
「王国の言葉で命じて! 帝国語を使わないでください!」
わたしには理由がわからなかった。殿下の命令を聞いた襲撃者が、向こう側へ何か叫び返す。残った王国兵まで、帝国へ連れていかれるつもりなのかと罵られていた。
ベルタの声がした。
「右へ下がれ」
続いて、鉄を打つ音。車輪の向こうで、カシウスが剣を抜いていた。長い槍を避け、男の腕を打つ。男が倒れたところへ、横から別の男が飛び込む。
ベルタが殿下の背へ入った。二人が同じ方へ動き、同時に止まった。カシウスの剣先がベルタの袖へ触れそうになる。彼は引き、ベルタは一歩だけ前へ出た。
「灰橋では、そっちが左を守った」
殿下が言う。
「今は左に馬がいる!」
「低いほうへ!」
ベルタが叫んだ。今度は殿下が迷わず屈む。その上を棍棒が走り、石塔へ当たった。帝国兵が額から血を流し、王国の護衛が槍で腿を突かれた。ベルタも左手を庇っている。
「荷だ!」
誰かが叫んだ。後ろの車へ三人が走る。兵の半分が殿下を守るため前にいた。荷車の布が切られ、袋が落ちる。
わたしは鞄へ手を伸ばした。荷継ぎ場で写した二枚。ヴィークが薬を出したと偽ったことを示す控え。襲撃者が探しているのはあれかもしれない。
コレットが先に外へ出た。
「馬鹿、戻って!」
マーヤが叫んだが、もう遅かった。コレットは後ろの車へ走り、荷袋を抱えた男にしがみつく。
「返して!」
「放せ!」
穀物の袋だった。彼女は証拠を守ろうとしたのではなかった。相手はコレットを振り払おうとし、もつれた二人が道端へ倒れた。袋の口が裂け、豆が斜面を転がった。
カシウスがそちらへ走った。前にいた男が、短剣を持って追う。ベルタはその腕を払おうとして、間に合わなかった。
わたしは馬車の扉を押した。扉が男の肩へ当たる。短剣が落ち、わたしも地面へ転がった。男の体重が背へ乗る。泥の匂いが鼻へ入り、息ができない。
頭を上げるな、と言われたのに。
襟を引かれた。ベルタが男をわたしからどかす。殿下がコレットの腕をつかみ、藪から引きずり出していた。最後の荷袋を持った一人が、石塔の陰へ消えた。
「追うな!」
カシウスの声が響いた。兵は止まった。しばらく、自分が息をしている音だけが聞こえた。
*
日が高くなる頃、怪我人を門の詰所へ運んだ。
捕まったのは四人。残りは逃げた。食料二袋と、帝国の薬の小箱一つがなくなっていた。マーヤが膝をつき、空になった場所を見ている。
コレットは手の皮を剥いていた。
「取られたのは、豆だけじゃなかった」
マーヤはそちらを見ずに言った。
「わかってる」
「次に病人がいたら、どうするの」
コレットは答えなかった。マーヤの肩が震え、怒っているのか疲れているのかわからなかった。彼女は立ち上がり、腿を刺された兵のもとへ戻った。
リリアの肩には大きな青痣ができていた。わたしが袖を切る手伝いを申し出ると、ノエルへ頼むと言われた。わたしは濡らした布だけを渡した。
カシウスが捕虜の一人の前へしゃがんだ。
「私を殺しに来たのか」
男は唾を吐いた。
「麦を返してもらいに来た。あんたも来たから、ついでだ」
「誰に聞いた」
「おまえたちが通ることなら、みんな知ってる」
男の荷から、婚礼の道順を書いた紙が出た。教会で作った招待客用の行程表だった。わたしが文章を整え、何百枚も刷らせたものだ。
そこには聖女の救援物資が、どの宿へ何日に届くかまで書いてある。
親切な案内のつもりだった。
カシウスがわたしを見た。
「これから先は、知らせる相手を減らす」
ベルタが行程表を畳んだ。裂きもしなかった。
「次は道を変える。荷を見て判断するのは、私がやる。変えるものがあれば先に言え」
最後だけ、こちらへ言った。
わたしは頷いた。
「殿下もだ」
カシウスが目を上げる。
「一人で前へ出るな。灰橋の時と違って、ここには兵だけじゃない」
「わかっている」
「わかっていて出た」
彼は返事をせず、膝の泥を払った。ベルタの左手を見る。
「巻いてもらえ」
「後でいい」
殿下が布を取り、ベルタへ渡した。
ベルタが布を巻くのを、わたしは見ていた。
「殿下と、前にもああしていたのですか」
「負傷兵を返す時だけだ。灰橋の戦いの前夜に」
彼女は巻いた端をわたしに押さえさせ、歯で布を引いた。
「私は白紗をつけて王国の列を守った。殿下は帝国側だ。石を投げる連中が来たから、二人で追い払った」
わたしが殿下のほうを見ると、ベルタに指を押された。
「まだ放すな」
彼女は結び終え、右手を上げた。わたしは布から手を離した。殿下はもう、詰所の戸へ歩いていた。
腿を刺された王国兵は、詰所の寝台へ残った。マーヤが手当ての続きを土地の医師へ頼み、仲間の兵が一人ついた。額を切った帝国兵は、巻いた布を帽子で押さえて馬へ戻った。
詰所を出る時、捕まった男がイネスへ呼び掛けた。
「三千人返したって言うんだろ。うちの弟は、その数に入ってるのか」
イネスは足を止めなかった。
馬車へ乗るまで、口を利かなかった。




