第六章 余ったことにする
朝までに話すつもりだったことを、朝になっても話せなかった。
マーヤは夜明け前に施療所へ戻った。帝国の薬箱を抱えて走る背を、わたしは宿の窓から見送った。隣の部屋では兵が荷を積む音がしている。昨夜コレットが渡した書付は、わたしの鞄に入っていた。口を開く機会ならあった。朝食の席で、カシウス殿下は薬の所在を尋ねた。イネスは地図を広げ、荷継ぎ場を通れば半日遅れると言った。
「書類の行き違いかと思います」
わたしはそう答えた。
殿下が顔を上げる。
「荷は現にない」
「現地で確かめます」
彼は何か言いかけ、やめた。青い便箋を閉じた時と似た顔をしていた。
ラハトを出たのは昼前だった。ルカは自分で水を飲めたという。マーヤは母親の前では眠そうな顔をしなかったが、馬車へ乗るとすぐに横になり、わたしの膝を枕にした。
「薬草の匂いがする」
ノエルが窓を開ける。
「虫が来ない」
マーヤは目を閉じたまま答えた。
「わたしも虫と同じ扱いなの?」
「話さないで。寝る」
ノエルは口を尖らせ、窓の外へ顔を向けた。いつもなら言い返すのに、今日は指で自分の喉を撫でている。リリアがその手を見て、鞄から小さな飴を一つ出した。
「これ、舞踏会の前に使うの」
「舐めても上品な声にはなりませんよ」
「そんなことは望んでいないわ」
二人の声が低くなった。次の鐘町ネイには、婚礼を祝う催しが用意されているという。リリアはその招待状を持っていた。中止を知らせる手紙はまだ届いていないだろうと、イネスが言う。
「そこでお話しする時間は取れるかしら」
リリアが前の馬車を見た。
「殿下と?」
ノエルが訊く。
リリアは返事をせず、招待状の端を揃えた。
わたしの膝で眠るマーヤの髪へ、窓の雫が落ちた。袖で拭った。指先が冷たくなった。
*
荷継ぎ場の庭には、車輪のない荷車が五台並んでいた。替えの馬も少ない。柵の中にいた痩せた牝馬が、わたしたちの積んだ草の匂いを嗅いで鼻を伸ばした。
「朝、持っていかれましたよ」
帳場の男が、開いたままの窓から答えた。
「王都の領主様の馬です。貸し止めの知らせが来た。こっちには、止める権限も飼葉もない」
カシウス殿下が地図を畳んだ。
「荷だけ残したのか」
「人も残りました。宿代をどうするか揉めています」
庭の隅に十数人の荷運び人が座っていた。雨を避ける屋根は狭く、端の人の肩は濡れている。誰も殿下を歓迎しなかった。帳場の男はヴィークと名乗った。教会の書記で、頬が白く、靴だけが妙に綺麗だった。コレットを見ると、少し眉を上げた。
「ご指定の便は出しました」
「その後の薬は?」
コレットが問い返す。
「帳簿を見ます」
ヴィークは窓を閉めた。
ベルタが扉を押そうとする。わたしは腕へ触れた。
「まず、話を聞かせてください」
「何を知っている」
「コレットが頼んだ荷があるんです」
そこまで言うと、コレットがこちらを見た。わたしは声を落とした。
「食料の。薬とは別に」
ベルタはわたしの顔を見ていた。
「書類を確認します」
同じことをもう一度言った。彼女は手を離し、庭へ下りた。ヴィークが裏から開けた戸へ、わたしとコレットだけが入った。棚に帳簿が並び、炉の前に空の酒瓶がある。瓶の口は洗われ、薬を入れるための新しい栓が脇へ積まれていた。
「ラハトの箱が三つとも、穀物だった」
コレットは机へ身を乗り出した。
「薬の印のついた箱に」
「箱は再使用しますから」
「中身は?」
「出荷済みです」
ヴィークが台帳を開いた。ラハトへ一台。薬三箱、麻布二巻、穀物五袋。受け取り欄に、ミロ・セヴェンという名があった。
「御者じゃない」
コレットが言った。
「石工の親方です。灰橋の材を運んでいました。帰りの空荷へ、積んでもらったんです」
「空荷ではなかったはずよ。西の橋の石を買いに来ると言っていた」
「買えなくなったんでしょう」
ヴィークは炉へ薪を一つ入れた。
「会盟の台座を先に作ることになりましたから。石はそちらへ。親方も承知したはずです。金を払うのはこっちなので」
コレットが台帳を引き寄せた。ヴィークは押さえなかった。受領の署名は大きく、末尾が擦れている。本物かどうか、わたしにはわからない。
「ミロさんは、どこに」
「庭ですよ。あんた方を見て、荷を隠し始めた人がいるでしょう」
窓の外を見る。髭に白いものの混じった男が、車輪のない荷車から木箱を下ろしていた。蓋に薬の印がある。ベルタもそれを見つけたらしく、近づいていく。わたしは戸を開けた。
「待って。まだ――」
ベルタが男の手首をつかんだ。男は抵抗した。箱が落ち、中から木屑がこぼれる。大きな声が上がり、近くの荷運び人が立った。王国の護衛が間へ入ると、庭にいる人たちが一斉にこちらを睨んだ。
「盗人扱いか!」
男が叫んだ。
「三月分も給金を止めて、持ち帰りの屑まで取るのか!」
ベルタが彼の腕を捻った。男が膝をつく。わたしが駆け寄った時には、口から血が流れていた。
「箱の中身を聞くだけだ」
ベルタが言った。
「聞く前に、こうするのか」
男は血を土へ吐いた。マーヤが馬車から出てくる。寝起きの顔が、男を見るなり変わった。
「放して」
「荷の持ち逃げの疑いがある」
「口を切ってる。座らせて」
ベルタが腕を放す。男は誰の手も借りず、荷車の縁へ座った。カシウス殿下が落ちた箱を裏返した。底に白い粉がついている。木屑の下から小さな石の欠片が出た。
「薬が入っていたのは、いつだ」
男は答えず、ヴィークを見た。帳場の窓はもう閉まっている。
「受け取った時から、これだ。直す橋に石が来ないから、余った材を拾った。箱も、余ってるなら持っていけと言われた」
コレットが台帳を抱えて出てきた。
「受け取りに、あなたの名前がある」
「署名した。材の代わりに持ち帰る物を書けと言われてな」
彼は台帳を見なかった。
「読めないんだよ」
木屑が、雨で土に貼りついていった。わたしはヴィークの窓を見た。炉の煙が煙突から流れている。薬を入れるはずの空き瓶も、新しい栓も、まだ中にある。
ベルタがわたしへ顔を向けた。
「コレットが頼んだ荷とは何だ」
マーヤもこちらを見た。
「食料です」
「どこへ」
コレットが台帳を閉じた。
「ポルへ。わたしの村」
声が震えなかった。そのために、相当な力を使っているとわかった。
「薬は別に出ると聞いてた。ミロの便は――」
「エナは知っていたのか」
ベルタがわたしだけを見た。
「昨夜から」
彼女の顔は変わらなかった。わたしは続けようとした。薬まで消えると思わなかった。朝に話すつもりだった。村へ送った麦を取り上げてほしくなかった。
ミロが立ち上がった。
「もういい。どっちも同じ服を着て来るんだから」
彼は箱を拾い、ベルタの前を通った。彼女は道を空けた。マーヤの渡そうとした布も受け取らず、庭の外へ出ていく。
コレットが追いかけた。
「灰橋の石のことを聞かせて。運搬記録も、まだそっちにあるでしょう」
ミロは振り返らなかった。
「字の読めるやつへ聞けよ」
その背中が見えなくなった後、ヴィークが戸を開けた。
「誤解でしたか」
ベルタが一歩動いた。わたしは止めるために腕を伸ばしかけ、下ろした。
殿下が先に戸口へ立った。
「帳簿と瓶を、全部ここへ出せ」
ヴィークの顔から薄い笑いが消えた。




