第五章 空の薬箱
コレットは、空の薬箱を見ても驚かなかった。それが最初に気になった。
婚礼から三日後、ラハトの宿へ着くと、先発の荷が納屋に届いていた。わたしたちは自分たちの鞄を馬車へ残したまま、受け取りの確認に呼ばれた。王都を発つ時は晴れていたのに、昼過ぎから霧のような雨になった。御者の肩も、馬の鬣も、知らないうちに濡れている。宿の軒下へ運んだ長持ちの蓋を開け、マーヤが一番上の毛布をどけた。
干した豆が、箱いっぱいに詰まっていた。
「もう一つ」
短い声で言った。次の箱も豆だった。三つ目には麦が入っていた。灰橋へ届ける救援の荷なら、それで間違っていない。けれど、この町へ渡す箱の蓋には、薬の印がある。
コレットは籠の中を探っていた。帳簿を取り出さず、雨を拭う布だけを出した。
「積み違いかもしれない」
「だったら、どこにあるの」
マーヤが問うと、コレットは口を結んだ。
町の施療所から来た男が、二人の間を覗いた。肩に青い布を巻き、空の手車を引いている。
「届いてないんですか」
「ほかの荷を見ます」
わたしは答えた。
「いつ届きます?」
わたしが次の言葉を探す間に、彼は手車の柄を握り直した。
「昼から、子供が水も飲めなくなってる。聖女様の薬が来るから待てって言ったんです。もう、母親に言うことがないんですよ」
マーヤが自分の革鞄を下ろした。
「連れてって」
「あなたが?」
「鞄を持って。揺らさないで」
彼女は御者へ何か言って歩きだした。自分が何者かを説明するのを忘れている。男は鞄を受け取ったまま立っていたが、マーヤが角を曲がる前に追いかけた。
カシウス殿下は宿の主人に厩を借りていた。兵の馬を休ませ、次の宿まで何時間かかるかを訊いている。わたしが薬のことを伝えると、すぐに帝国の荷へ来た。
木箱には鍵が掛かっていた。殿下は近衛隊長を呼び、鍵を出させた。鍵束を持つ男は、蓋へ手を掛けたまま動かなかった。
「国境の兵へ届ける分です」
「わかっている」
「明日、同じ病人が我が軍に出たら」
「不足を書いて私へ出せ。責める相手を間違えるな」
隊長は鍵を回した。箱の中には乾いた薬草と、蓋を蝋で塞いだ瓶があった。わたしに量はわからない。隊長は必要な分しか渡さないつもりで一瓶ずつ取り出しかけたが、マーヤが戻ってくると、箱ごと持っていかれた。
「どれだけ使う」
「今から診る」
「残りは」
「使ってから数える!」
彼女が怒鳴った。肩が雨で震えていた。
隊長は殿下を見た。カシウスは頷き、わたしへ外套を差し出した。
「付いていけ。必要なものを聞いて、戻ってくれ」
赤ん坊を包む布のように、外套を両腕で受け取ってしまった。殿下はもう馬のほうを見ていた。わたしへ掛けるためのものではなかった。雨を薬箱に入れないためだ。
自分が恥ずかしかった。
*
施療所は、以前は粉屋だった建物に入っていた。水車は止まっている。壁際には使わなくなった粉袋が積まれ、その前に子供が三人寝かされていた。大人は奥にいるらしい。咳が重なり、桶へ水を捨てる音がした。
マーヤは一番手前の寝台へ屈んだ。小さな男の子の唇が割れていた。母親が水の入った匙を持っているが、口へ運ぶと子供が顔を背ける。
「ルカ。口を開けて。お願い、少しだけ」
母親は同じ言葉を繰り返した。マーヤが手首へ触れると、匙を奪われまいとして身を引いた。
「ちょっと休んで」
「だって、さっきの人は飲ませろって」
「替わるから。あなたも座って」
母親は座らなかった。マーヤも強くは言わず、手を重ねたまま子供へ話し掛けた。男の子の名前を訊き返し、返事を待ち、もう一度呼んだ。マーヤは、母親の話を何度も聞いていた。最後に何を食べたか。便はどうだったか。いつから飲めないか。その間にも別の患者が彼女を呼び、奥から来た男が、自分の父を先に診てくれと言った。
「順に行く」
「こっちは朝から待ってるんだ」
マーヤは子供から手を離さなかった。
男がもう一歩近づく。わたしは間へ入った。
「今、熱の高いお子さんを」
「子供なら先か。大人は死んでいいのか」
返す言葉がなかった。その時、リリアが戸口から入ってきた。旅服の上に婚礼用の薄い上着を羽織っている。濡らさずに持ってきたかったものだろう。袖口の銀糸が煤のついた戸へ擦れた。
「お父様は、どちらに」
男はリリアの顔を見た。聖女ではない。男が指す奥の寝台へ、リリアも顔を向けた。
「奥だ」
「そばに座ってもよろしいですか。ここからですと、様子がわからないので」
男が先に歩いた。リリアが続き、ノエルもついていく。袋に入れた婚礼の砂糖菓子を持っていた。マーヤが目だけでそれを見ると、ノエルは慌てて自分の背へ隠した。
「看病してる人の分です」
言い訳する声が、いつもより小さかった。
薬を置いた場所で、わたしは行く手を塞いでいた。窓際へ寄り、開けようとすると、蝶番が軋み、外の雨が寝台へ吹き込んだ。
「開ける前に、そこの子を移して」
わたしは窓を引き戻した。寝台を動かす人を呼ぶ間、濡れたシーツへ自分の袖を押し当てた。
*
日が暮れても、出発できなかった。
ルカの目が開いた時、母親は泣かなかった。濡らした布を洗い直してほしいと言い、わたしが受け取ると、ようやく肩を落とした。薬はずいぶん減っていた。マーヤは町の男へ夜の様子を伝え、紙に書こうとして、疲れた指から筆を落とした。
わたしが拾った。
「書きます」
「母親にも読んで」
「はい」
眠い目で彼女の言うことを書き取った。わからない薬の名前を二度訊き、匙の数はその場で読んで返した。母親が途中で、昨日の人は違うことを言ったと遮る。マーヤは嫌な顔をして、昨日何を言われたのか最初から聞いた。紙は何度も書き直した。
宿へ戻ったのは、夜の鐘の後だった。台所の炉に火が残っていた。コレットが鍋を温め、わたしたちを見て皿を出す。いつもなら蓋を開ける前に、今日は何が入っているか教えてくれる。今夜は何も言わなかった。マーヤはスープを飲み終える前に、机へ突っ伏した。
わたしはコレットへ声を掛けた。
「薬の箱は」
「明日、北の荷継ぎ場で聞く」
「今まで、何を調べたのですか」
彼女が布巾を絞った。手から落ちる水が濁っていた。
「エナ。先に食べて」
「食べています」
「じゃあ、飲み込んで」
口の中に、冷めた豆が残っていた。
コレットは戸口を見た。誰もいないことを確かめてから、袖の内側から紙を出す。荷の積み替えを頼む短い書付だった。行き先はラハトではなかった。
「ポル?」
コレットの村だ。わたしたちは何度もその名を聞いた。川が曲がるところに麦畑があり、冬の風が強く、焼いた豆に蜂蜜を絡める祭りがある村。
「そこへ、薬を送ったのですか」
「ラハト便の馬車を、村の穀物へ回してもらったの。薬を荷継ぎ場に残して、帰りの空いた車で追いかけさせるって」
「別の便って」
「王都の帳場が、そう言った。わたしは、薬が一日遅れるだけならと答えた」
声が低くなった。
「妹から、種にする麦を食べたって手紙が来たの。春まで待ってたら、何も蒔けない。何度も頼んだ。帳場は、兵へ先に出すって」
わたしは書付を見た。『穀物を先に。薬は後便とする』。急いで書いた最後の行に、筆を拭いた小さな染みがある。末尾にコレットの印はなかった。教会の荷印と、聖女の整った字で署名がある。
「誰が書いたのです」
コレットは、わたしを見た。
わたしだった。
婚礼前の忙しい週に、北へ運ぶ荷の行き先を何十枚も清書した。コレットが数字を読み上げ、イネスが地名を直した。わたしは全部を確かめたつもりでいた。
「妹のことは、言わなかった」
コレットが言った。
「言ったら、順番を守れって言われると思ったから」
机で眠るマーヤが、寝返りを打った。
「明日、荷継ぎ場で取り戻す。今言えば、ベルタが御者を捕まえる。そうしたら、村へ出した分も持って戻れって言われるわ」
わたしは紙を返した。コレットは受け取らず、こちらを見つめた。頼みを言わなくても通じるだけの時間を、わたしたちは一緒に暮らしていた。
「明日の朝までです」
わたしがそう言うと、彼女の目から力が抜けた。
スープはとうに冷めていた。




