第四章 二十日
娘を返せと書いた人は、裏庭で、婚礼の残り物を食べていた。
近づくと、皿を手で庇った。取り上げられると思ったらしい。その仕草を見てから、わたしは一歩手前で止まった。
「エナ・ローデです」
「知ってる」
昼間受け取った紙を、盆の脇へ置いた。昼間より静かな声だった。四十歳くらいの女性で、片方の靴だけ色が違う。石段に腰を下ろし、膝へ盆を載せている。栗の砂糖煮は手をつけず、肉の端をパンへ挟んでいた。
「ベルタに、行ってしまったと聞きました」
「あの剣の女に追い出されたのよ。厨房の人が裏へ回してくれた」
マーヤだった。庭の反対側で腕を組み、こちらを見ていた。わたしが会わせてほしいと頼んだ時は、もういないと誰もが言った。彼女だけが、外套を持ってきた。
「テサ・モル。センダ村にいた」
テサはパンを齧った。噛み終わるまでわたしを待たせ、水を飲んでから続けた。
「娘は生きてる。先に言っておく。泣いて弔いの話をされたら、あんたを殴ると思う」
わたしは一度、口を閉じた。
「センダのことを確かめます」
「今から?」
「記録を」
「それなら持ってる」
盆の下に敷いていた布包みを引き出した。土と古い油の匂いがした。何枚もの紙が擦れ合い、最初の請願の控え、返答、もう一度出した訴えが順に現れた。
「三度頼んだ。三度とも、ここへ出した。今日は結婚してあっちへ行くと聞いたから、門で待ってたのよ」
テサは北を指した。
「橋のところに娘がいる。今日はあんたの顔を見て、お祝いだけは言ってやろうと思ってね。めでたい日に会うなって、また言われる前に」
笑っていた。ほとんど口の端を動かさない笑い方だった。結婚するのはわたしではないと、説明しかけた。口へ出る前に、飲み込んだ。
「娘さんに、会えますか」
「娘が決める」
「あなたには」
「もう会った」
テサは紙を包み直した。わたしの指が、一番上の返答に触れた。彼女は引っ張り返した。
「預かるつもりじゃありません」
「前にもそう言われた」
わたしは手を離した。
テサは、わたしが書いた返事の一枚だけ、束から抜いて押し返した。
「これは持ってな。あんたの字でしょう」
庭の窓が開いた。中から、王太子の声が漏れてくる。誰が補うのだ、と繰り返していた。結婚式の料理を売れば、今日泊まる宿賃くらいにはなると思うのだが、誰もその話をしているわけではなかった。
「北街道を行く」
テサが言った。
「カクーの宿まで来るなら待つ。そこから先は、わたしも荷を届けなきゃならない」
皿を返すために立ち上がる。ふらついたのを支えようとして、わたしは手を止めた。テサは自分で盆を持ち直し、厨房へ歩いた。
階段に、一口も食べなかった栗が残っていた。
*
王太子の部屋には、食べ物の載った盆が一つもなかった。
婚礼の招待状を作った時と同じ机に、今度は請求書が積み上がっている。昼に客が帰り始めると、王都の商人が次々に来た。祝福を取り下げると言った人も、貸した酒樽を取りに来た人もいる。ロベール殿下はそのうち一枚を、こちらへ滑らせた。
「北街道の馬を、明日から出せないと言っている」
貸主は三人の領主だった。婚姻で交易が再開すれば、帝国へ羊毛を売れる。その見込みで馬と麦を貸していた。見込みがなくなれば返せと言う。聖女への信心だけで荷が動いていたのではなかった。
コレットが帳簿を机へ置いた。
「もう出てる分は、返せません」
「何台だ」
「十一台。灰橋行きが八台、途中の施療所へ三台」
「誰が許可した」
彼女は少しだけ遅れて、大司教を見た。
「聖女の救援ですから」
その返事を、わたしは覚えた。
大司教は椅子の背へ両手を置いていた。夕食を取っていないらしく、唇が乾いている。けれど、喋る声は昼間より穏やかだった。
「返すべきものを返せない以上、婚姻を成立させるのが早い。リリアも、六人を王国へ残すなら話し合うと言っています」
窓辺のリリアは、大司教の言葉を訂正しなかった。
カシウス殿下が机へ指を置く。
「六人を残して、聖女を一人送る。その人は明日から何をする」
「殿下の妃として」
「帝国では、結婚の三日後に施療院へ行く予定がある。翌日は捕虜の家族と会う。次の週は――」
「変更はできます」
「本人が何をするかも訊かずに組んだ予定だ」
リリアが顔を上げた。
「わたくしは、会いに行けます。病人の前に立つだけなら」
「何を求められるか知っているか」
「知っています」
殿下は口を閉じた。その瞬間だけ、部屋の全員が別々のものを見ていた。リリアは花婿を。王太子は請求書を。大司教は、リリアのまだ白い衣装を。
「今日、妻を決めることはしない」
カシウスが言った。
「二十日後、灰橋で両軍を止める約束を更新する。そこへ行く」
「婚姻がなければ、保証がない」
ロベール殿下が言った。
「別に出す」
「何をだ」
カシウスは答えなかった。
王太子が机の角を打った。
「それを、今ここで聞きたいのです。橋の向こうのあなたの兵は、誰が食わせる? 北の村へ戻した王国兵に、また武器を持たせずに済むのか。灰橋で待てと言って、馬を返せと言われたら、どうやって人を送る!」
怒鳴り終わってから、彼は自分の指を見た。関節を机にぶつけたらしい。痛そうに手を握り、すぐほどいた。
カシウスがオスカーさんへ顔を向ける。
「婚礼祝いの銀を使う。馬と御者を二十日借りる」
オスカーさんは腰の鍵を外した。
「王都の両替商が、まだ開いているといいのですが」
「私の外套も持っていけ。印より、毛皮を信じる相手ならそれでいい」
王太子は止めなかった。
銀で借りられるのは馬だった。どうすれば戦争を終えられるかは、誰にもまだわからない。
「わたしたちも、連れていってください」
わたしは言った。
「書記の仕事なら、できます。途中へ出した荷の行き先も調べます」
「逃げるつもりか」
大司教の声に、胃が縮んだ。
「名簿の説明を求めたのは、おまえたちだ。ここへ残り、民へ説明するのが先ではないか」
マーヤが、机に紙を置いた。小さな荷札だった。
「ドロテアの裁縫箱。三日前、裏口から積まれたって」
大司教は荷札を見なかった。
マーヤは続けた。
「厨房の灰を持っていく御者が見てる。聖オルカ閉鎖院へ行く馬車だった。あの人が熱を出してるなら、あたしが診る。そうでないなら、出す」
「療養中だ」
「じゃあ、会わせて」
「安静を妨げられない」
ベルタが部屋の戸を閉めた。大司教が初めてそちらを見た。鍵は掛けていない。ベルタはただ、戸の前に立った。
ロベール殿下は荷札を手に取った。
「北街道の先か」
「灰橋から西へ半日の院です」
イネスが答えた。
「道を外れすぎはしません」
王太子はしばらく考えた後、呼鈴を鳴らした。
「院の記録を持ってくる者を先にやる。七人へは王国の護衛をつける。カシウス殿下、帝国側も兵を出してほしい。途中で人がいなくなれば、両方へ報告する」
大司教は、戸口から机へ視線を戻した。
「聖具は王国のものです」
「持参させる。今ほかの聖女を出されては、話が増える」
王太子はその一言で、白紗の箱もわたしたちへ預けた。鍵を受け取ったのは、彼が指名したリリアだった。大司教の指が椅子の背から離れた。
*
翌朝、自分の名前を書いた旅券が配られた。マーヤは受領の署名で止まった。鼻を鳴らし、紙を一度傾け、また戻す。いつも薬の量を書く時は、こんなに迷わない。
「書いてあげましょうか」
言ってから、余計だったと思った。
マーヤは顔を上げなかった。
「ここくらい、自分でやる」
わたしは、自分の紙へ戻った。リリアは隣に座らなかった。ノエルも今日は話し掛けてこない。彼女はもらった銅貨を二つに分け、片方だけを靴下へしまっていた。旅先で何を買うつもりなのか、訊ける空気ではなかった。
わたしたちが灰橋へ行く間、テサも同じ道を行く。会えば、あの四文字の続きを聞かなければならない。
旅券へ署名した後、わたしは三年前の自分の返事を写した。言葉を直さず、一字ずつ。途中で何度も、なぜこれでよいと思ったのかを思い出しそうになった。紙を裏返し、鞄の底へ入れた。
出発は翌朝だった。




