第三章 届かなかった一行
わたしが一番捨ててほしかった手紙を、彼は一番丁寧に開いた。
青灰色の封筒から出てきたのは、四つ折りの便箋だった。隅に小さな星が三つある。今朝の騒ぎの中では一つしか見えなかった。わたしが茶の染みへ描いたのが一つ。残りの二つは、不器用な線でその隣に増えていた。
触れば、誰が加えたものかわかってしまう気がして、指を膝へ押しつけた。
「五か月前だ」
カシウス殿下は、椅子に座らなかった。控え室から移された先は大聖堂の小食堂で、使われなかった婚礼の菓子が壁際に積まれている。午後の光が硝子の皿へ当たり、栗の砂糖煮が、宝石のように見えた。リリアはわたしから二つ離れた椅子に座っている。まだ婚礼衣装を着ていた。マーヤとコレットは食堂に入れてもらえなかった。二人とも王国の役人に怒鳴ったためだ。ベルタは扉の外に立ち、誰かが閉めようとするたび、足を一歩前へ出していた。
「この日の手紙は、覚えています」
「書いたのは」
「わたしです」
答えてから、言い足したくなる。聖女として。教会で任された仕事で。その言葉が喉まで上がり、わたしは水を飲んだ。
殿下の隣にいた書記が、こちらを見た。三十歳くらいで、旅の外套の袖が短い。右手にペンだこ、左手に指輪。机へ置いた記録板の角は、何年も使って丸くなっていた。
「オスカー・ヴェルトです。殿下の文書を預かっています。今日の話を記録してよろしいでしょうか」
「どこへ出すのですか」
「まず、あなた方へ。写しを双方で持ちます」
「大司教様へは」
「私からは渡しません」
殿下が答えた。
「これが誰か一人の罪という報告になって、帝都へ届くのを防ぐ」
イネスが初めて頷いた。オスカーさんが机へ三通の封筒を並べた。紙の古さも、封蝋の欠け方も違う。最も古いのは白い大封筒で、七か月前の灰橋の戦いの後、初めて帝国へ送った和平返書だった。
「これには婚姻のことは一行もありません」
イネスが言った。
「当時は、病院へ通す荷の道と、捕虜をどちらから先に返すかだけを決めていました」
「知っている」
「順序を、記録へ残してください」
オスカーさんの筆が動いた。わたしは白い返書を開いた。病院へ二百箱。川向こうへ渡す捕虜は最初の便が三百人。数字を間違えないよう、皆で何度も指を置いた。最後にリリアが聖女の印を押した。その後、わたしが封を閉じる間際に、小さな別紙を忍ばせた。
『灰橋の西側に、取り残された三十七人がいました。報告にありません。名を知らせてください』
それだけだった。
「失礼な紙でした」
わたしは言った。
「そうだな」
すぐ認められると、胸がちくりとした。
「なぜ答えてくださったのです」
「腹が立ったからだ」
殿下は手元の折り目を指で押さえた。
「誰もいないところで、もう一度読み直した。三千人を逃がした話なら、いくらでもできた。あなたが訊いたことには、一行も答えられなかった」
七か月前の戦いでは、王国軍が西から追い、帝国軍は灰橋を東へ逃れた。最後の兵が渡ると、カシウスが橋の木桁に火を掛けた。橋の中州と西側にいた荷車が、行き先を失った。王都には、殿下を卑怯者と呼ぶ歌が流れていた。帝国には英雄と呼ぶ歌があると聞いた。どちらの歌にも、橋へ置いていかれた女の人が抱えていた洗濯物のことは出てこなかった。
「わたしは、その人たちを知りませんでした」
「名は、一人も知らなかった」
わたしは頷き、次の返書を開いた。そこに、三十七人の名があった。
そのさらに次に、殿下の私信が一枚増えた。王都には、眠れない人間が夜中に行ける場所があるのか。わたしは、ないと答えた。自分なら厨房へ行く、とも。煮えた湯と、火の消えかけた竈があれば、何を考えていても手が温まるから。
その返事を見た殿下は、行軍の天幕で銅の小鍋を借りたという。湯を沸かす間に寝てしまい、近衛隊長に叱られたと書いてきた。わたしは机で声を出して笑い、リリアから何を読んでいるのと訊かれた。
その時、捕虜交換の報告だと答えた。
「正式な文は、わたしが書いています」
オスカーさんが白い封筒へ触れた。
「ただ、別紙は預かっていません。糊をしてから返されるものですから」
「承知しています」
わたしは彼の整った筆跡を見た。綺麗な公文書の中に混じる、行の曲がった短い便箋が、届くたび嬉しかった。全部殿下が書いていると思っていたわけではない。むしろ、ほかの人が書いた紙の中から、自分にしか読ませないものを見つけるのが好きだった。
「リリアは、どれを読んでいた?」
殿下が訊いた。
リリアは膝の上で指を組んでいた。
「和平の返書はすべて。殿下からの正式文も。別紙は、エナが読んでくれたものを」
「わたしが、必要だと思ったものを」
イネスがこちらを見た。
そう、言うしかなかった。自分で選んでいた。甘すぎる菓子の話、野営地で犬を飼い始めた兵の話、春の帝都に咲く花の話は、みんなへ読んで聞かせた。リリアも笑った。いつか見たいわと言った。
眠れない夜の話は、読まなかった。
「私の手紙を、二つに分けたのか」
殿下の声が低くなった。
「皆で読むものと、あなたが読むものに」
わたしは頷いた。
「誰に許しを取った」
言葉が出ない。わたしの手紙だからと言えば、彼へ初めから一人の相手として返していたことになる。聖女の仕事と言えば、自分で手元に取っておいた理由がなくなる。
リリアが机の向こうから手を伸ばし、二通目を引き寄せた。青灰色の封筒だった。彼女は三つの星を見て、しばらく動かなかった。
「これも、見ていません」
わたしは、机を隔てて彼女の指を見ていた。
『明日も、手紙を送っていいだろうか。和平の話でなくても』
殿下が書いたのは二行。わたしの返事は、別の一枚にあった。
『明日は、わたしが待っています』
聖女の字にはしていなかった。あの時、返事を読む顔を考えながら何度も書き直した。わたしたち、と書きかけ、最後の二字をやめた。その痕を見つけられないよう、新しい紙を使った。
「これを書いた人へ、求婚した」
カシウスが言った。リリアは青い紙を机へ戻し、三通目を開いた。二か月前、帝国から届いた求婚状の控えだった。
「ここには、聖女セレスティアへ、とあります」
大きな皇族印の下に、継ぐべき家と用意される屋敷のことがある。その末尾へ、殿下の字で書き添えてあった。
戦が終わった後も、あなたと話していたい。私の妻として、灰橋を渡ってほしい。
「その一月前に、わたくしたちは踊りました。覚えていらっしゃいますか」
「覚えている」
「わたくしを、廊下の窓辺へ連れていってくださったことも」
わたしは、自分の知らない夜の話を聞いた。彼はその話を手紙に書かなかった。当人へ、昨夜あなたと窓辺にいたと知らせる必要はない。わたしだけが、知らなかった。
「あなたは、笑わなくていいと言ってくださった」
殿下の眉が動いた。
「笑っていたから。痛そうだった」
リリアは小さく笑った。今のほうが、ずっと痛そうだった。
「だから、わたくしへ届いた手紙だと思いました。エナが書く言葉も、みんなの話も、わたくしがお会いした時に続けて話していた。あなたと同じものを見ているつもりだったんです」
オスカーさんは筆を置いていた。乾きかけた先から墨が落ち、彼は手元へ目を戻した。
殿下がわたしを見た。
「エナ。私に、何と返事をするつもりだった」
名前を呼ばれた。呼ばれたかった。こんな場所でなければ。リリアの手が震えている机を挟んでいなければ、嬉しかったはずだ。
「わたしは返事を書く役でした」
出た言葉は、いちばん卑怯なものだった。
殿下は目を伏せた。
「役として待ったのか」
いいえと言えばいい。それで何が壊れるか、もう見えていた。わたしは黙った。
リリアが椅子を引いた。重い裾を持ち上げ、自分で扉へ歩いた。ベルタが避ける。引き止める人はいなかった。
カシウスは青い便箋を畳んだ。増えた星が内側へ入る。
「今日はここまでにする」
わたしも立ち上がった。何か、今言わなければいけないと思った。彼が封筒を懐へ戻せば、もう二度と出してくれないような気がした。
食堂の外から声が聞こえた。
「エナ・ローデって女に会わせて」
知らない声だった。扉の向こうで、衛兵が押し返している。食器がぶつかる音がした。誰かが盆を落としたらしい。
「聖女様じゃないんでしょう。だったら、こっちを見るくらいできるでしょうよ!」
ベルタが戸口へ出た。声が止まる。少しして、泥のついた紙だけを持って戻ってきた。
「渡してくれと」
折り畳まれた請願書だった。表に、わたしの書いた返事が貼ってあった。三年前の字は今より細い。筆先が割れ始めていたからだ。新しい筆をもらうまで、紙を回して線をつないだ。そんな、どうでもいいことだけを覚えていた。
『物資徴発における行き違いについては、監督官へ照会し――』
裏へ返す。太く、不揃いの字があった。
『娘を返せ』
わたしはその四文字を、返事に入れなかった。




