第二章 妻になると言ったのは
リリアは、泣くより先に衣装の背中を緩めてほしかった。
花嫁用の控え室に、七人も入るつもりで椅子は置かれていない。リリアが腰を下ろすと、ほかの六人は床や化粧台の端へ散った。誰も近寄ってこない。慰める言葉を探しているのか、怒られるのを待っているのか。たぶん、両方だ。
「背中」
鏡へ向かって言った。
エナが立ち上がりかけた。リリアは振り向かず、続けた。
「マーヤ、紐を緩めて」
鏡の端で、エナがまた座った。痛かっただろうと思う。そのくらいは痛くなればいいとも思った。そんな自分を、リリアは今は嫌いになる余裕がなかった。
マーヤの指が背中へ入る。
「これ、結び目を切っちゃだめ?」
「駄目」
「刃を入れれば早い」
「知ってるわよ」
銀糸の花は、ひと月前からドロテアが夜ごと縫い足してきた。真珠は昨年の秋、エナと二人で数えた。足りない三粒のために何度も箱をひっくり返し、最後はノエルの楽譜の間から出てきた。糸を通す針が見つからず、ドロテアが笑いながら自分の袖から抜いた。リリアは鏡の花を見つめた。今になって、物を作った時間ばかり思い出す。
「ドロテアは本当に風邪なの?」
コレットが、籠を床へ置いた。
「厨房には三日来てない。今朝のスープ、塩が多かったもの」
「風邪でも味見くらいする、と言いたいの」
「病人に働けって言ってるんじゃないわ。あの人なら、塩を叱るために這って来る」
誰も笑わなかった。紐がほどけ、肋骨の下へようやく息が入った。リリアは深く吸った。そのつもりはなかったのに、吐く時に喉が震えた。
「ほら」
マーヤが肩へ手を置いた。
「苦しいの、先に言いなよ」
リリアは頷いた。背中を向けていてよかった。
扉の外には衛兵が四人いる。水と食べ物は頼めば来るが、伝言を頼むと口を閉じる。ベルタは扉の隙間へ靴を差し込もうとして、さっき押し返された。その時だけ、彼女は笑わなかった。
「誰が、みんなを呼んだの」
ようやく顔を上げて尋ねた。
「私だ」
ベルタが答えた。
「エナに二人でやれと言われたが、捕まれば終わる。名簿のほかに、旅の荷と給金の証拠が要った」
「わたしは別の入口から、書類だけを渡すつもりでした」
イネスが眼鏡を拭いた。
「ところが衛兵が、聖女以外は通さないと。部屋に用意されていた衣装を借りました」
「言ってくれれば、わたしが受け取ったわ」
イネスは眼鏡を掛けなかった。
「リリア。あなたの承諾が、書類の先頭にありました」
リリアは立ち上がった。ほどいた裾が床に広がる。
「わたしを疑っていたの」
今度こそ全員がこちらを見た。
「わたしがあなたたちを番号で連れていくために、結婚したと?」
「昨日、言おうとしました」
エナが答えた。
「言わなかったじゃない」
「お祝いを受けていて。大司教様も、ずっといらして」
「寝る前も、今朝も、あなたはいたわ」
エナは膝の上で両手を重ねた。その指を見ていると腹が立つ。誰のための言葉を探しているのか。今も、自分がなるべく傷つかずに済む言い方を探しているのではないか。
「カシウス殿下のことが好きなのね」
口にすると、思っていたより痛かった。
ノエルが息を呑む。マーヤの手が背中から離れた。
「それは、今は」
「今まで聞かれなかったものね」
エナの顔が赤くなった。うつむけば見えなくなるのに、そうしなかった。
「わかりません」
リリアは笑いそうになった。笑えばひどい声が出る気がして、唇を押さえた。
「わたしは、結婚したかったわ」
六人は黙っている。
「舞踏会で会った時、殿下が何を言ったか知っている?」
あの夜、踊りの途中で遠くの窓が開いた。風で燭台が揺れ、リリアは反射的にその光へ顔を向けた。暗い場所へ立ってはいけないと教えられていたからだ。カシウスは、そちらに出口があるのか、と訊いた。息ができる場所を探しているように見える、と。リリアは笑って誤魔化した。彼はそれ以上尋ねず、曲の終わりに廊下側へ連れていった。白紗を外せなかったけれど、二人で冷たい夜気を吸った。遠い国へ行けば、あの窓辺のような場所があるのではないかと思った。
「殿下は、わたしを見ていたのよ」
言ってから、確信が揺れた。七人の中の誰にでも、息苦しそうですねと言ったのだろうか。エナには訊けなかった。答えを知っていそうだった。
扉が開き、大司教が入ってきた。六人が立つ。リリアも衣装の裾を払おうとしたが、途中でやめた。背中が開いたままでも、この人の前なら恥ずかしくないはずだった。子供の頃からそうして着替えてきた。
今日は、腕を後ろへ回して布をつかんだ。
大司教は名前を呼ばず、彼女の目の高さへ屈んだ。
「聖女様。お疲れでしょう」
リリアは、はいと言わなかった。
大司教が机に書類を置いた。
「殿下は動転しておられる。今日のうちに落ち着いていただき、婚姻を進める道を探す」
「わたくしに、どうしろと」
「補佐の者が行き過ぎた振る舞いをしたと、説明してほしい。それから六人にも署名してもらう」
確認書にはリリアの名がなかった。聖女セレスティア。それに仕える六人が聖具を不当に使用した、とある。
「この下は?」
リリアが指すと、大司教は目を落とした。
「処分については教会へ一任する」
「ベルタを牢へ入れることもできるの」
「本人の態度による」
ベルタは扉を見ていた。鍵を持つ衛兵が、一歩中へ入る。
リリアは確認書を持ち上げた。返事へ妻になると書いた時と、同じ紙だった。上質な紙は湿気を含んでもへたらない。破るには両手が要る。彼女は背中を押さえた手を離し、署名欄の真ん中から裂いた。
切れ端がドレスへ落ちた。大司教の顔から、何かが引いた。
「後悔しますよ」
「もうしています」
大司教がリリアの背後を見た。マーヤがほどいた紐を持ち、彼女の背へ布を重ね直す。
「この六人を残して、わたくしだけ帝国へ行く案をお考えください。それなら殿下とお話しします」
エナが立ち上がった。
「リリア」
「あなたの答えは聞いていないわ」
大司教は裂けた紙を取り上げた。
「夕方までに、殿下からも返答があるでしょう」
扉が閉まった。リリアは背中を差し出したまま、動けなかった。エナが床へ落ちた紙を拾った。リリアは鏡の中のその顔から、目を逸らした。
「締めて」
マーヤへ言った。
「まだ着るの?」
「ええ」
鏡に、自分の顔が映っていた。栗色の髪は白い衣装に合わなかった。そんなことは、今日まで一度も考えたことがなかった。




