第一章 七人の花嫁
聖女の結婚式に、花嫁が七人来た。
わたしが呼んだのは、もう一人だけだった。
その一人、ベルタは南の扉から入るはずが、祭壇の脇から現れた。花束を持っていない。胸元に隠した紙が落ちないよう片手で押さえ、長い裾を無造作に蹴って歩いてくる。あの紙さえ花婿へ届けばいい。わたしは唇の裏を噛み、柱の陰から一歩出た。
東の扉が開いた。続いて北側の回廊からも、白い衣装が見えた。
楽団の演奏が崩れた。弦の音だけが二小節ほど取り残され、やがて止まる。わたしは出した足を引っ込めようとしたが、背後から来た花嫁に裾を踏まれた。
「止まらないで。後ろが詰まってる」
コレットの声だった。白紗を通すと澄んだ高い声になってしまうけれど、人の背中を肘で押す力は変わらない。
「どうして、あなたまで」
「ベルタが、荷物を持って来いって。これを着ないと中へ入れなかったのよ」
右腕に提げた籠から、黒い帳簿の角が覗いていた。その後ろに、白紗を押さえながら走ってくるマーヤが見える。彼女の靴は片方だけ踵を踏んでいる。わたしは祭壇を見た。正面の長い通路を歩いていたリリアが、立ち止まっていた。金色の髪に青い目、聖画の中から抜け出したような顔。わたしも、ベルタも、後から来た四人も、同じ顔をしている。
薄い布に織り込まれた術が、人の目と耳を騙す。けれど背丈までは変わらないし、こんなに重い裾をさばけるようにもならない。七人の中でただ一人、リリアだけは衣装のどこにも皺を寄せず、こちらへ向き直った。
今朝、その裾を整えたのはわたしだった。綺麗ですね、と言った。リリアは鏡の中で笑った。あなたの手紙のおかげよ、と。
嬉しかったと言えば、嘘になる。
「エナ」
祭壇まで届くはずのない小さな声で、リリアがわたしを呼んだ。その口の動きだけでわかった。次に何を言おうとしたのかは、わからない。参列席で一人が立ち、続いて何人もの肩が揺れ、花嫁たちの間を人の頭が遮った。
「誰だ、その者たちは!」
大司教グレゴールが杖を鳴らした。ベルタが胸から紙を抜く。彼女の前へ衛兵が二人出た。祭壇を囲んでいた護衛も、腰の剣へ手を掛ける。千人の客が集まる大聖堂で、誰かが剣を抜けば、わたしたちが説明を始めるより先に押し合いになる。
「殿下へ渡す」
ベルタが言った。
「そこへ置け」
「自分で渡す」
花婿が、衛兵の向こうから手を伸ばした。灰色の婚礼服。袖口だけに入った銀の刺繡。ダルガ帝国第二皇子カシウスは、近衛の差し出す剣を受け取らず、ベルタの紙を取った。
会ったら、声でわかるだろうかと考えたことがある。七か月前に灰橋を焼いた人。休戦交渉で捕虜の冬服を要求した人。眠れない夜、手紙の隅へ、英雄と呼ばれるのが怖いと書いた人。返事を書くとき、わたしはいつも、この人がどんな顔をして読むのかを考えた。
今の顔は、想像のどれにもなかった。
「随行女一」
彼は紙を見たまま読んだ。
「女二、女三。これは何の番号だ」
大司教が近づく。
「聖女様付きの侍女です。身分の低い者の名を婚礼文書へ並べることは――」
「この六人か」
わたしの隣で、コレットの籠が軋んだ。
花婿は紙を裏返した。裏には帝国語で、随行する者の私財、旅券、外出について細かく書かれている。イネスに昨夜読んでもらった時、わたしは途中から字面が見えなくなった。
「婚礼が済んだ後に説明する予定でございました」
「もう説明しろ」
「殿下、お客様の前では」
カシウスは顔を上げた。最初にリリアを見た。それから、白紗をつけた六人を見た。ベルタは肩を開いて立っている。ノエルは息を吸うたび胸の真珠が動く。マーヤは靴の踵を直そうとして片脚でよろけ、隣のイネスへつかまった。
誰も聖女の立ち方をしていなかった。
「顔を見せてほしい」
わたしは布へ手を掛けられなかった。眠る時か、衣装室の内側でしか外さなかった。夜中に便所へ行く時も、外廊下に誰かいるかもしれないからと被らされた。癖になった用心は、大聖堂で騒ぎを起こした後まで残っている。
リリアが先に動いた。白紗の端を指先でつまみ、髪を引っ掛けないようゆっくり外す。金色がほどけ、栗色の髪が肩へ落ちた。客席のどこかで、小さな悲鳴がした。リリアはそちらを見なかった。
「リリア・アシュです」
その名を人前で言うのを、初めて聞いた。
「わたくしが、お返事へ妻になると書きました」
カシウスの視線が、リリアの顔から、手にした白紗へ落ちた。
違う、と言いかけた。わたしが何も言わないうちに、リリアは手を背へ回した。つまんでいた白紗を、そこで握り潰した。
マーヤが乱暴に布を引き抜く。黒髪が逆立った。
「これ、どこへ置くの」
「床は踏まれる」
ベルタは片手で自分の布を外し、もう片方の手で受け取った。
残る三人も外した。イネスの眼鏡は衣装の袖から出てきた。ノエルは布の下で耳飾りを片方なくしていた。コレットは籠へ丸めて押し込み、わたしの白紗へ手を伸ばしかける。
「自分で」
思ったより大きい声が出た。コレットは手を引いた。
顔へ冷たい空気が触れた。布一枚しかなかったのに、肩まで裸になったようだった。わたしは二十二歳で、顔を隠し始めたのは十五の時だ。いま見られている顔を、父も母も知らない。
「エナ・ローデです」
祭壇の花婿と目が合った。自分から見たのに、すぐに逸らした。
「偽物だ」
近くの席で男が言った。男の隣には、小さな女の子が座っている。膝の上に白い花籠を載せ、わたしたちを見比べていた。婚礼が済めば、その子がリリアへ花びらを投げるはずだった。
男がもう一度言った。
「七人とも、偽物じゃないか」
娘の籠から花が一輪落ちた。男は気づかなかった。
大司教が衛兵へ合図した。今度は剣が抜かれた。聖女の顔が消えた途端、誰を捕らえるか迷わなくなったらしい。
ベルタの前へ立とうとして、わたしは裾につまずいた。転ばずに済んだのは、リリアが腕をつかんだからだった。指が食い込むほど強い。
「あなた、これでどうするつもりだったの」
わたしだけに聞こえる声だった。答えられなかった。婚礼を止める。名簿を見せる。六人を番号で帝国へ送る話を、皆の前で取り消させる。そこまでは昨夜、繰り返し考えた。
その後、あなたの隣に誰が立つのか。
そこだけは考えないようにした。
「剣を収めろ」
カシウスが言った。帝国の近衛が従う。王国の衛兵は、大司教と花婿を交互に見た。
大司教は返事をせず、祭壇の婚礼紐を持ち上げた。王国の白と帝国の金が編まれた紐で、誓いの後、二人の手首を結ぶことになっている。
「聖女様と殿下の婚姻は、十二年の戦を終わらせるものです。若い娘たちが自分の役目を誤解したために、両国の民を――」
言葉の途中で、紐が切れた。カシウスが短剣を戻す。金色の端が彼の靴へ絡み、歩くと白い端まで引かれて祭壇から落ちた。
「ここにいる人の顔を見てから、続きは聞く」
大司教の後ろで、王太子ロベールが立ち上がった。祝いの言葉を書いた紙を握り潰していた。
「カシウス殿下。どうか、別室へ」
「この七人も」
「事情を調べるため、教会でお預かりします」
「さっきまで私の妻と侍女にするつもりだったのだろう」
王太子の手から、紙が落ちた。カシウスはわたしたちへ向き直った。怒っていると思っていた。けれど、近くで見ると唇に血の気がなく、指先だけがしきりに動いていた。短剣を持った手ではなかった。
「手紙を書いた人と、話したい」
マーヤが口を開きかけ、イネスが何か言おうとした。
「薬や、兵の数を知らせた人ではなく」
花婿は懐から青灰色の封筒を出し、中の便箋を少し引き出した。覗いた端の染みまで覚えていた。封をする直前、茶をこぼしたのだ。怒られると思って乾かし、乾いた跡へ小さな星を書いた。
「私が明日も手紙を送っていいか尋ねた時、返事をくれた人だ」
リリアの手が、わたしの腕から離れた。
その温かさがなくなって初めて、わたしは来てはいけなかったと思った。




