第九章 濡れた手紙
割れた窓を板で塞いだため、馬車の中は朝から暗かった。
ネイを発った翌日も、雨はやまなかった。ノエルは楽堂の女性にもらった紙を開いたまま眠り、マーヤが何度かそれを鞄へ戻した。そのたび目を覚まし、また出す。誰も取り上げようとしなくなった。
わたしは隅で、ミロへ渡す紙を書いていた。名前の後が続かなかった。手紙の宛先を聞き忘れたからではない。ミロは灰橋へ戻ると言っていた。そこで会えるかもしれない。問題は最初の一文だった。
わたしたちの確認不足により。
こちらの手違いにより。
書いては消した。庭で押さえつけられた彼の口から、血が流れていた。あの血をどの言葉へ置けば、自分が謝れる人間になるのか。そればかり考えていた。
馬車が傾いた。全員の身体が右へ寄る。床に落ちた鞄をつかむと、外で御者が馬を止めた。車輪が、道の端へ沈んでいた。
「降りて」
ベルタが扉を開けた。わたしたちは一人ずつ下りる。リリアは左腕を使えないため、マーヤが腰を支えた。わたしが後ろから押そうとすると、リリアは一度だけ頷いた。それだけのことで、嬉しかった。
雨の道で荷を軽くしなければならない。王国兵と帝国兵が綱を掛け、御者が馬を宥める。わたしは荷台から箱を下ろした。帝国側の書類もこちらへ移されていた。昨夜借りられなかった荷車の代わりに、二台へ詰め直したのだ。
角の濡れた箱を持ち上げた時、底が抜けた。紙の束が膝へ当たり、泥へ落ちる。わたしは箱を投げ出した。封筒と紐で綴じた冊子が散る。上の一枚が風に煽られ、道の脇を流れる水へ滑っていった。
「待って!」
追いかけたわたしを、カシウス殿下が肩で止めた。自分で水へ片足を入れ、長靴の先で紙を押さえる。流れは浅かったが、底に何があるかわからない。彼は封筒を拾い、泥で濡れた手のまま胸へ抱いた。
「足元を見ろ」
「手紙が」
「見えている」
わたしは言い返しかけ、泥の中のほかの紙を拾った。青灰色が一枚あった。星のある封筒だった。
殿下が伸ばした手へ、それを返せなかった。
「今、ここで乾かせますか」
訊くと、彼は道の先を見た。
「小屋がある」
ベルタが先に行き、中を確かめた。干し草と空の桶がある。人の住む小屋ではなく、雨に濡れた羊を入れる納屋らしい。借りを告げる相手は見つからなかった。雨が強くなった。馬車を引き出せても、今日は遠くまで進めない。
*
オスカーさんが火を起こし、紙を一枚ずつ布へ広げた。帝国の軍費の写し、捕虜の受領、婚礼の予定、個人的な手紙。濡れれば、どれも同じように角が丸まる。順番を間違えないよう、机代わりの板へ並べた。
「こちらの文字は残ります」
オスカーさんが軍費の紙を透かした。
わたしは薄い便箋を持ち上げる。小さな星の脇から、青が滲んでいた。
「これは」
「擦らずに。下から布で吸ってください」
言われた通りにした。慌てて押せば滲みが広がる。指を置ける場所が少なくなり、わたしは息を止めていた。
殿下が見ている。
「座ったほうが、手が震えない」
彼は自分の腰掛けを寄せた。わたしが座ると、今度は自分が立っている。もう一つある椅子には、リリアが毛布を掛けて座っていた。
わたしは板の端へ少し移った。
「ここへ」
殿下は窮屈そうに腰を下ろした。
オスカーさんが布を替えるため立った。外の兵に呼ばれ、会計簿を持って行く。納屋の奥では、マーヤがベルタの左手を巻き直していた。ノエルはリリアの傍で目を閉じている。誰にも聞かれない場所ではない。それでも、話す声を低くすると、近くにいるのは殿下だけだった。
「増やしたのですね」
わたしが星へ目を落とすと、彼は少し顔を背けた。
「染みかと思った」
「元は、染みです」
「そうか」
薪が弾けた。
「なぜ三つに」
「一つ描いたら、不格好だった。もう一つ足せば目立たなくなると思った」
大きさも線の太さも違う二つの星は、よけいに目立っていた。笑いそうになって、わたしは口を押さえた。
「笑っていい」
「よくありません」
殿下はしばらく黙っていた。
濡れた紙の端を、彼が持つ。わたしは反対側を持ち、下の布を引き抜いた。一枚の薄い紙越しに、指の輪郭が透けた。
「この返事は」
自分から言い出すには、声が小さすぎた。殿下が顔を寄せる。
「明日はわたしが待っています、と書いたのは、本当でした」
耳の近くで言った。そうしなければ、最後まで言えなかった。彼は動かなかった。
「皆が寝てから、配達の音が聞こえる場所へ机を移しました。夜中に届くはずがないのに。朝、ほかの手紙が先に開けられるのが嫌で、封筒を分ける仕事も引き受けました」
火が、布の濡れた端を明るく照らしている。
「リリアには、言いませんでした」
カシウスの指が、紙から少し離れた。落とさないよう、わたしが持ち直す。
「私が、誰へ送っていたかわからないのを知りながら?」
「はい」
殿下は紙を持ち直した。
「知りたかった」
低い声だった。
わたしは顔を上げた。
「あなたが誰かを、先に知りたかった。リリアへ言ったことも、ベルタへ言ったことも、あなたに通じていると思っていた」
「手紙に書かれていないことは、わかりません」
つい言い返した。
「そうだな」
わたしは口元へ上がった髪を払い、奥に座るリリアを見ないようにした。
殿下は、奥のリリアを見た。
「窓辺で彼女へ言ったことは、覚えている。私を見て笑った顔も」
「そういう話は、聞きたくないです」
思ったより強く出た。彼がこちらを向くと、顔が熱くなった。
「何を話せばいい」
「わかりません。まだ、会ったばかりです」
わたしは紙を持つ手を少し上げた。近づいていた彼の指から、離れた。
「手紙なら、嫌なところは書かずにすみます。今朝だって、ミロさんへ謝る文を、綺麗に書こうとしていたんです」
殿下は納屋の入口を見た。ベルタが、乾いた布を取りに外へ出るところだった。
「ミロは、灰橋にいる」
「知っています」
彼は頷いた。わたしは紙の端を下ろした。
紙を乾かす間、火の位置を少しずつ変えた。殿下が近づけすぎ、わたしが引き戻す。わたしが手を動かすと、彼の指が触れた。謝れば、手を引かなければならなくなる。どちらも何も言わなかった。
*
夕方、わたしはミロへの紙を書き直した。コレットの頼んだ荷を、ラハトの晩から知っていたこと。誰にも言わず、ベルタに別の相手を疑わせたこと。庭で止めるのが遅れたこと。
書いた後、折れなかった。
ベルタが歩いてきた。
「見てもいいか」
わたしは机から手を離した。彼女は最後まで読んだ。途中で二度、指が止まった。
「ここは、違う」
自分のことを書いた行を指した。
「おまえに言われて、腕を捻ったんじゃない。男が箱を隠したと思った。追っていたら逃げると思って、先に倒した」
「でも、わたしが」
「自分で謝る」
ベルタは紙を返した。
「一緒には、行く」
それだけ言って、外の見張りへ戻った。
カシウスが炉へ薪を足していた。わたしの手紙を見ようとはしなかった。小さな星のある封筒は、乾いて、彼の膝に載っている。
「折り目をつけ直しましょうか」
わたしが訊くと、彼は首を振った。
「今日は、このままでいい」
四つ折りの癖が取れかけた紙を、殿下は両手で持ち上げた。読み直すのかと思った。
底の抜けた箱の代わりに、軍服を出して空けた箱へ、一番上にして戻した。




