第十二章 玉ねぎ三つ
七年前、わたしはリリアの靴を隠した。
王宮へ行かせたくなかったのだ。
ドロテアの毛布の上にある紙を見ていると、あの日の衣装室の匂いが戻ってきた。乾ききらない布、糊の鍋、コレットが前掛けに隠した玉ねぎ。人の一日を七年に延ばしてしまった日の、最初の記憶はそれだった。
翌日に祭礼があった。聖人の姿に扮した少女が通りを歩き、人々へ祝福を与える。リリアはその年の主役だった。わたしは衣装室の机で、彼女が読み上げる言葉を写していた。まだ十五歳で、机を一つ使わせてもらえるだけで嬉しかった。
教会の表には避難民が集まっていた。戦争で北の村を追われてきた人たちだ。門の外にいる人の数を、係の男が何度も数え直した。千を超えてからは、増えたのか減ったのかもわからない。配る粥は昼前になくなった。コレットが厨房から戻ってきた時、前掛けの膨らみをドロテアが押さえた。
「何個」
「三つ」
「夕食に要るのよ」
「外にも要る」
十九歳のコレットは、前掛けを放さなかった。ドロテアが布を引くと、玉ねぎが一つ転がり出た。床を滑り、わたしの机の脚へ当たった。拾うと、皮が割れていた。中はみずみずしい。これを外の人に見せたら、欲しがるだろうと思った。わたしも昼を食べていなかった。
コレットはそれを受け取り、裂けた皮を剥いた。
「ここ、腐る前に使ったほうがいい」
「腐ってない」
「じゃあ、腐りそうだから」
わたしは笑った。あの時には笑えた。
門を叩く音がした。最初は一人だった。それから大勢になった。誰かが、聖女を出せと叫んだ。翌日になれば聖女が来ると、祭礼の札に書いてあったからだ。
ドロテアが廊下へ出た。しばらくして戻り、リリアを呼んだ。
「王宮へ、麦を借りに行きましょう」
リリアは白紗を抱えて立っていた。薄い布を掛ければ、聖画の顔になる。会場の遠くの人にも主役がわかるようにするための仕掛けだ。髪と顔と声だけが変わる。小柄な歌い手が主役をする年も、背の高い踊り手の年もあった。衣装室には替えが七枚あった。
だから、リリアが本物の聖女だと信じ込ませようと思えば、できてしまった。
「わたし、一人で?」
十六歳のリリアは、問い返した。
「馬車を頼むわ。役人もつける」
「司教様は」
「動けないの。お腹を悪くなさった」
ドロテアは嘘をついた。司教は部屋に鍵を掛けていると、わたしも聞いたばかりだった。王家の穀倉を開かせれば反逆になる。開かずに人が死ねば教会が責められる。それで、出てこなくなった。
リリアはわたしを見た。
「エナも来て」
わたしは頷けなかった。高い部屋で、王太子に何かを尋ねられる。答えを間違えれば、外の人へ麦が出ない。役人に字を直されるだけでも、手が震えるのに。
「書かなくちゃいけないものがあるから」
そう答えた。
リリアの目が離れた。
彼女が着替える間に、わたしは靴を布の山へ隠した。新しい祭礼靴だった。履けなければ今日は行けない。明日には司教が出てくるかもしれない。大人がやってくれればいい。
ドロテアはすぐに見つけた。わたしを叱らず、靴を持っていった。それが怖かった。
「何て言えばいいの」
リリアが戻ってきた。白紗をつけ、聖女の顔になっていた。わたしは借用を願う文を書いた。麦を七日分貸してほしい。秋の献納で返す。すらすら書けた。誰かに命じられるより前に、役所を通る文章が出てきた。
「返せるの?」
リリアが訊いた。
コレットが後ろで首を振った。今年の麦は少ないと、朝から言っていた。
「借りられなければ、配れません」
わたしは答えた。質問の返事にはなっていなかった。それでもリリアは紙を受け取った。爪が紙を引っ掛け、端が少し折れた。
「帰ってきたら、一緒に食べて」
彼女は言った。
それには、すぐ頷けた。
*
リリアが出ていった後、衣装室へ何人もの人が駆け込んできた。熱を出した子供へ薬が出ない。別の門が閉じられた。帝国語を喋る家族が兵に囲まれている。粥の鍋を運ぶ車が通れない。
わたしは机から離れなかった。布が次々に持ち出されていく。マーヤが被ると、止めていた薬庫の番人が鍵を出した。ベルタが歩けば道が開いた。それを見て、ほかの者も白紗へ手を伸ばした。
昼過ぎ、グレゴールが衣装室へ来た。その頃は司教の補佐だった。今より頬が痩せ、濡れた靴下を替える暇もなく、長靴の底が鳴っていた。
「聖女はどこにいる」
わたしは答えられなかった。
窓の向こうで、歌が始まった。ノエルの声だとわかった。皆が歌を聴いている間、門へ粥の鍋を運び込めた。
グレゴールは窓を見た。それから机の紙を読み、山になっていた請願を二つに分けた。
「運ぶものと、運ぶ先を分けて書け。同じ馬を二度使う予定になっている」
わたしは言われた通りにした。彼は昼も夜も座らず、人を呼び、荷を動かし、書き損じた紙を炉へ入れた。その人がいて助かったと、本当に思った。
夜、リリアが帰ってきた。
靴が片方なかった。裸足の裏から血が出ていた。王宮を出た後に人が集まり、馬車へ乗れなくなったのだという。触れれば病気が治ると、母親が子供を前へ押し出した。転んだその子を起こす間に、人に踏まれた。
ドロテアが湯を持ってきた。わたしはリリアの前へしゃがみ、足の裏についた小石を一つずつ取った。リリアは泣かなかった。痛いと言ったのは、最後の一つを抜く時だけだった。
「麦は出たの」
わたしが尋ねると、彼女は頷いた。
「明日も出すって」
嬉しいはずだった。
リリアはわたしを見る。
「明日も、行ってほしいって」
わたしは小石を桶へ落とした。
その夜の食事は、玉ねぎの入った薄い粥だった。七人とも別々の場所で冷ました。リリアと並んで食べる約束を、わたしは忘れていた。
*
「明日は、別の人にやらせるべきだったのよ」
今のリリアが言った。ドロテアの寝台を囲み、七人は黙っていた。誰が何をしたかを、今さら一つずつ確かめる必要はない。思い出してほしくない場所が、人によって違った。
ドロテアが頷いた。
「そうね」
「そうね、じゃなくて」
リリアは口を閉じた。左肩を押さえ、窓へ顔を向ける。
わたしは七年前の紙を見た。翌日に全部明かすと言った時、グレゴールが寄付の箱を開けたことを覚えている。見たことのない額だった。これで何人へ麦を出せるか、コレットが数えた。マーヤは薬の名を言った。ノエルは、明日なら声が戻ると言った。
わたしも、書いた。聖女が今日したことを、一人分の報告にした。最初は机を一つ使えるのが嬉しかった。やがて、わたしの文章を持った人が走るようになった。リリアが王宮へ行く時、わたしの書いた文を暗唱した。
誰もわたしの顔は知らなかった。それでも、自分には力があると思った。
「靴を隠したのは、わたしです」
突然言うと、リリアが振り向いた。
「知ってた」
わたしは息を止めた。
「ドロテアが教えたの?」
「あなたが、靴を見るたび泣きそうな顔をしたから」
ドロテアは毛布を直していた。
「ごめんなさい」
リリアは答えず、わたしの足元を見た。
「今日なら、自分で脱ぐわ」
旅の靴は泥だらけだった。彼女は片足ずつ脱ぎ、寝台の下へ並べた。
コレットが湯を持ってきた。マーヤが足首を見る。ノエルは、自分の椅子を少しずらした。誰も大きなことは言わなかった。
夜が更けた頃、ドロテアは眠った。わたしは寝台の脇の紙を、イネスと一緒に写した。元の紙はドロテアの手の届く所へ置く。写しは別々に持つことにした。
リリアが最後まで起きていた。
「エナ」
呼ばれて顔を上げる。
「明日は、殿下にちゃんと答えて。わたしがここにいるから言えないというのは、やめて」
わたしは筆を置いた。
リリアは裸足で立ち、自分の靴を拾った。
「わたしも、自分で話す」




