第十三章 返事を奪う人
カクーの宿で迎えた翌朝、リリアは花嫁衣装を箱へしまった。
片腕では綺麗に畳めず、銀糸の花が途中で折れた。わたしが手を出すと、今度は止めなかった。二人で裾を合わせ、真珠を内側へ押し込まないようにして、蓋を閉めた。鍵を回す音がした。
「捨てませんよね」
訊いてから、馬鹿なことを言ったと思った。
「捨てたいの?」
「いいえ」
リリアは鍵を衣装箱の紐へ結んだ。
「別の機会に直して使うわ。何もかも、あの日のためだけに買ったんじゃないもの」
ドロテアが毛布を肩へ掛けて戸口に立っていた。リリアはそちらへ箱を頼まず、自分で宿の荷運びを呼んだ。ドロテアは何も言わなかった。
*
宿の小部屋で、カシウス殿下を待った。七人を一度に集めるのはやめた。マーヤはドロテアに朝の食事を取らせ、コレットは馬車を調べている。イネスとオスカーさんは、何か決まった時だけ書くため、隣の部屋にいた。
ベルタは外の廊下を見張っていた。昨日までなら当然のように中へ入っただろう。今日はわたしへ、ここでいいかと訊いた。はいと答えた。
カシウスが入ってきた。青灰色の封筒は持っていなかった。机に置いたのは、求婚状の控えと、一月前にリリアが承諾した返書だ。何度も読んだ書類なのに、その二つだけを並べると、机が急に狭く見えた。
「昨日、話したかったことがあります」
わたしは言った。
リリアも殿下もこちらを見た。
「求婚状が届いた時、わたしは嬉しかった。けれど、返事は書けなかったんです。リリアが最後へ妻になると書いたのを見た時、安心した。その後で、腹が立ちました」
リリアの眉が動いた。
「自分が答えなかったのに、わたしに?」
「はい」
喉が乾いた。水差しへ手を伸ばすと、コップが一つしかないことに気づいた。誰かを呼ぶほどのことではない。わたしは手を膝へ戻した。
「殿下へ、本当のことを知らせる機会はありました。婚礼の前の日も。もしわたしへ返事を求められたら、どうするか考えていました。リリアが結婚するつもりだと、もう知っていたのに」
リリアは机を見た。
カシウスは動かなかった。
「今、何を望んでいる」
逃げるための問いではないとわかった。
わたしは顔を上げた。
「もっと、一緒にいたいです」
言ってから、リリアを見られなかった。
「結婚するかと訊かれたら、まだわかりません。でも、リリアのためにわからないんだとは、もう言いません」
外で、荷車の車輪を叩く音がした。誰かが朝から直している。その音だけを、しばらく聞いた。
カシウスが立った。
「オスカーを呼ぶ」
椅子を引き、戸を開ける。リリアが顔を上げた時には、オスカーさんが入ってきていた。
「婚姻の申し入れを取り消す文を」
殿下が言った。
オスカーさんは筆を出さなかった。
「皆さんのお話は、終わりましたか」
「前提が間違っていた。聖女を一人の女と思って求婚した。あの申し入れを、誰かへ渡すわけにはいかない」
リリアが椅子の背へ手を置いた。
「わたしは、まだ話していないわ」
カシウスは振り向いた。
「あなたが承諾したことは信じている」
「そういう話じゃありません」
殿下は立ったままだった。リリアが彼を見上げた。
「座ってくださる?」
彼は座った。
オスカーさんは出ていきかけ、リリアが片手を上げると止まった。
「書くのは後で。見ていて」
声に震えはなかった。
「エナの言ったことを聞いて、わたしはまだ腹が立っています。殿下にも。あの窓辺を手紙の人との思い出へ、勝手に移さないでほしい」
カシウスが頷いた。
「移さない」
「それを覚えたまま、わたしへ言ってください。もう、わたしとは結婚したくないのだと」
彼は息を吸った。リリアはまっすぐ見ていた。目を逸らすことを、相手にも自分にも許さない顔だった。
「今、あなたと結婚するつもりはない」
カシウスは言った。リリアの下唇が、一度だけ動いた。
「わかりました」
机の上の返書へ、自分の指を置く。
「わたしも、この返事を取り下げます。今日、そう決めました」
オスカーさんが目を伏せた。
カシウスは何か言いかけ、リリアに止められた。
「お気の毒にと思った顔をしないで。もう一度、好きになるかもしれないと言われるより、ずっといいわ」
彼は頷いた。
リリアは立ち上がり、部屋を出た。わたしは椅子の縁を握った。戸が閉じるまで、彼女の名を呼べなかった。
オスカーさんが白紙を置いた。
「婚姻の件だけ、書きます。和平の続きを、ここへ一緒には書きません」
カシウスは筆を受け取った。文字は紙の上を斜めに進んだ。最後まで書き終えると、彼は一度読み返し、婚礼を行わない理由の一行を消した。
何を消したか、わたしからは読めなかった。
*
リリアは、宿の裏で水を汲んでいた。吊った腕では桶を持てない。片手で綱を引き、途中で戻ってしまったらしい。わたしが近づくと、彼女はその場を動かなかった。
「持ちます」
「お願い」
桶を上げる。水を器へ移すと、リリアはそこへ両頬をつけた。長い間、顔を上げない。水の中で息を吐いたのか、小さな泡が浮いた。わたしは背中を見ていた。
「綺麗な顔で終わらせたかった」
ようやく彼女が言った。
「部屋で、あなたにひどいことを言わずに出られたから、それで済むと思ったの」
濡れた睫毛が、頬へ貼りついている。
「ひどいことを、言っても」
「言ったら、あなたが謝るでしょう。それで、わたしが許さない人になる」
わたしは口を閉じた。
リリアは顔を拭き、自分の上着を直した。左の袖がずれていた。直そうとすると痛むらしく、右手で持ち上げる。わたしは留め具を掛けた。
「あなたが結婚する時、わたしを呼ばないでほしいと思った」
指が止まった。
「今はね。先のことはわからない。だから、返事をしないで」
わたしは留め具を掛け終えた。
リリアが裏戸へ向かう。入る前に、一度だけ振り返った。
「エナ。さっきの水、あなたも使って。顔がひどい」
笑おうとすると、うまくできなかった。
*
午後、旅の一行は分かれることになった。
全員が同じ馬車へ乗る理由は、ドロテアを見つけたことで薄くなっていた。薬を買うため川沿いに寄り道を重ねるマーヤは、もうカシウスの軍の予定に合わせたくないと言った。コレットは灰橋へ先に行き、ミロを探すつもりだった。
「一人にはしない」
ベルタが言いかけ、マーヤを見る。
「一緒に行ってもいいか」
マーヤは少し驚いた。
「荷を持ってくれるなら」
ベルタが薬箱を持った。コレットも黙って鞄を抱える。
イネスは、交易所で買った薬をもう一度確かめてから、王国の使者へついていった。灰橋で古い取り決めを訂正するため、両岸の役人と話しておくという。
リリアはドロテアを連れ、南側の地方庁へ向かう便に乗ることを選んだ。約束の原本を登録し、拘禁された本人の話を残すためだ。ノエルがその馬車へ乗ろうとした。
「あなたは、喉を休めて」
リリアが言う。
「座ってるだけなら、ここでも休めます」
ノエルは鞄を抱えたまま動かなかった。
「一人で殿下のことを考えると、ろくなことしないと思うから」
リリアが顔を上げた。
ノエルは咳をして、慌てて水を飲んだ。
「すみません。今のは、声を使う予定じゃなかった」
リリアは少し笑った。
「一緒にいらして」
最後に、わたしの行き先が残った。カクーの宿へ、テサの紙が預けられていた。待っている間に娘から荷の催促が来たため、もう出たという。明日の昼、センダへ寄る。会うならそこで。それ以上は待たない。わたしは小さな鞄へ、三年前の返事を入れた。
カシウスが自分の馬を引いてくる。
「行くのか」
「はい」
「護衛は二人付ける」
「殿下は」
訊くつもりではなかった。
彼は手綱を短く持ち直した。
「途中まで一緒だ。灰橋の西へ行く」
どうして西へ行くのか、わたしは訊かなかった。
あと九日で、両軍がまた動けるようになる。昨日まで同じ部屋にいた七人が、別々の支度をしている。
荷運びの人が、大きな衣装箱をリリアの馬車へ載せた。
箱が傾き、わたしは車輪の横へ回った。リリアが乗るまで、その角を押さえていた。




