第十一章 箱の中の母
閉鎖院の門を叩くと、窓の中から、ドロテアの指が見えた。
わたしには、あの指だけでわかった。右の人差し指の爪が平らに削れている。布を押さえ、結び目を引き、熱を測る時は冷たいほうを額へ当てた。何百回も自分の髪の中へ入ってきた手だった。
格子の向こうで、二本だけ動いた。すぐに、見えなくなった。
「ドロテア!」
ノエルが呼び、咳き込んだ。マーヤが背を支える。
婚礼から十日が経っていた。三日前に連れてこられたというのは、婚礼の時の話だ。もう十三日。院の白い壁を見上げながら、何度もその日数を数えた。
リリアが戸口へ立つ。
「ドロテア・メルに会いに来ました。王都からも連絡が届いているはずです」
扉の中で鍵が鳴った。開いた隙間から、灰色の修道服を着た年配の女が覗く。
「本日は眠っておられます」
「いま、窓にいました」
わたしが言うと、女は一度だけ上を見た。
「別の患者でしょう」
マーヤが戸へ手を掛けた。
「だったら、その別の人からでいい。診るから開けて」
女は戸を閉めようとした。ベルタは足を入れなかった。門の左に、槍を持つ王国兵が二人立っている。こちらも王国の護衛を連れているから、互いに相手の顔を見て動けない。カシウスが自分の兵を下げた。鎧の音が遠くなると、院の前に雨樋から落ちる水の音だけが残った。
「話すのは七人に任せる」
彼はリリアへ告げた。
リリアは振り返らなかった。
「会わせてもらえるまで待ちます。中で眠っているなら、起きるまで。ここへ椅子を一脚持ってきてください」
女の目が細くなった。
「院の前を塞がれると、荷が入れられません」
「脇へ寄ります」
「評判が」
「わたしたちは、面会を待つだけです」
椅子は来なかった。
リリアは門の脇の濡れた石へ腰を下ろした。左肩が痛むので、身体を少し傾ける。ノエルが鞄を膝へ載せた。コレットはパンを出し、分け始めた。
わたしも座ろうとすると、ベルタが袖へ触れた。
「指が二本だった」
「はい」
「裏だ。昔、衣装室で言ったろ」
思い出した。祭礼の時、廊下に誰かいるとドロテアは指で知らせた。一本は表へ。二本は裏階段へ。声を出せば、着替えている聖女が二人いると知られてしまうから。
わたしとベルタは立ち上がった。カシウスも動きかけたが、ベルタが首を振る。彼は止まり、壁から見える位置へわざと立った。院の兵が殿下を目で追う。わたしたちは、馬を繋ぎ直すふりをして脇へ回った。
*
裏手には、洗濯物を乾かす庭があった。今日は干せないらしく、竿に何も掛かっていない。荷車へ積まれた木箱に、会盟塔と書いた荷札が下がっていた。綺麗な祭壇布だけが、泥を踏まずに灰橋へ運ばれる。
ベルタが箱へ近づいた。中から、鈍い音がした。
「ここ?」
わたしが囁くと、もう一度鳴った。蓋を持ち上げる。留め金に紐が掛かっている。ベルタは傷めた左手を使わず、右手で短刀を抜いた。
「人が来たら、馬の後ろへ」
言い終える前に、箱の中から声がした。
「早く。膝が痛い」
泣きそうになった。紐が切れ、蓋が開く。布の山の下で、ドロテアが両膝を抱えていた。顔が小さくなっていた。白髪の増えた髪を自分で結び、咳の音を抑えるためだろう、口へ当てていた布が顎にずれている。
「自分で入ったの?」
ベルタが訊いた。
「誰かに詰めてもらう暇があると思う?」
彼女は、切れた紐を箱から抜いた。
「蓋を半分だけ閉めて待っていたら、荷を縛る人が上から結んでいったの。叩いても、もう行ってしまって」
ドロテアが両手を伸ばす。わたしがその腕を取った。
軽かった。いつも抱かれる側だったから、本当はどのくらい重いのか知らない。それでも軽すぎる気がした。
箱から下りた途端、彼女の膝が折れた。ベルタと二人で支える。ドロテアは息を整え、衣装の裾を押さえた。
「走れません」
わたしが言うと、ベルタは頷いた。
「荷車を出す」
御者は正門の騒ぎを見に行ったらしく、馬だけが繋がれていた。ベルタは手綱を引き、荷車をゆっくり門へ向ける。わたしはドロテアを、今度は箱の上へ座らせた。
裏口から修道女が出てきた。
「何をしているの!」
わたしは下りずに答えた。
「連れていきます」
女は大声で兵を呼んだ。ドロテアの腕をつかもうとする。わたしはその手を払った。初めて会った人を乱暴に押したことに驚いたが、謝らなかった。
「この方は療養中です。具合が悪くなっても、責任は取れませんよ」
ドロテアが顔を上げた。
「では、今からは取らなくていいわ」
女は手を引かなかった。表から、マーヤが走ってきた。
「息、苦しい?」
院の女には話し掛けず、ドロテアへ訊いた。背へ手を当て、顔を覗く。
「今は少し」
「横になれる馬車がある。こっちへ」
マーヤが荷車の反対側から身体を支えた。院の女は、二人で担ぐ相手まで引き留められず、ようやく離した。
正門の脇で、リリアがまだ座っていた。運ばれてきたドロテアを見ると立ち上がり、近づきかけ、そこで止まった。
「お待たせ」
ドロテアが言った。リリアは顔を歪めた。
「ええ。ずいぶん」
抱きついたノエルの後ろで、片手だけをドロテアの背へ当てた。
*
院を離れ、夕方には街道の宿へ入った。マーヤは一番暖かい部屋を取り、ドロテアを寝かせた。食事を少しずつ食べさせ、飲まされた薬と、眠った時間を訊く。最初の三日はほとんど覚えていないという。後は院で祭壇布を縫わされた。王都へ返す手紙は、一通も出してもらえなかった。
「逃げる機会はなかったの?」
ノエルが聞くと、ドロテアは毛布の上で指を動かした。
「縫ったものなら外へ出せると思ったの。会盟の荷へ入れば、灰橋で人が開ける。その前に、あなたたちが来た」
ベルタが扉を閉めた。
「布だけなら、もっと早く出せた」
ドロテアは彼女を見た。ベルタは続けた。
「中へ何を縫った」
ドロテアが息を吐いた。
リリアは壁際から動かなかった。衣装箱も白紗も、宿の下に積んだままだ。濡れた旅服を替える気力がないのか、替えたくないのか、わからない。
「エナ、鋏を」
わたしは裁縫箱を探した。荷車に積まれた箱の隅へ、ドロテアが自分で押し込んでいたものだ。錆びた小鋏が、布へ包まれている。
彼女は修道服の裾を裏返した。赤い糸が縫い目に残っていた。布を切ると、四つ折りの紙が出た。七年前の約束だった。
聖務の終わりに、七人を解放する。本人が望まない仕事を続けさせない。グレゴールが書き、ドロテアが指の印を押したもの。
「覚えてる」
リリアが言った。
「でも、焼いたと言ったわね」
ドロテアは紙を毛布の上へ置いた。
「隠した」
「わたしたちにも?」
返事はなかった。
わたしは紙の端を見た。小さな穴が二つ開いている。昔、衣装室の壁へ留めた時についたものだった。戦争が終われば、と毎日見上げた。ある日なくなり、大司教が危険だから処分したと聞いた。その時も、ドロテアは同じ部屋にいた。
「持っていると知れば、取り上げられると思った」
彼女は言った。
「わたしが守っていれば、最後に使えると思ったの」
リリアが近づき、毛布の上の紙を取った。
「あなたを探すために、十日かかったわ」
ドロテアは、娘の顔を見上げた。
「知っていれば、わたしは違う返事ができた」
窓の外で、御者が馬へ水をやっていた。桶が置かれる音がした。
ドロテアが手を伸ばす。リリアは一歩下がった。その手はしばらく空中にあり、やがて毛布へ戻った。
わたしは鋏を閉じた。
切った赤い糸が、わたしの袖へ貼りついていた。払っても落ちず、一本ずつ取った。




