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マーヴェリア帝国物語  作者: 北村えり
最終章 二つの光が照らす朝
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第98話 帰る場所

――決戦前夜


奈落門・黒淵消滅共同作戦。

作戦開始まで、残された時間はあと一夜。

共和国辺境防衛軍本部では、日が沈んだ後も多くの灯りが消えずに残っていた。


武器庫では、共和国の整備兵と帝国の武具担当者たちが並び、

魔導銃、魔導剣、騎士剣の最終点検を進めている。

訓練場では、帝国騎士と共和国の近接魔導兵からなる混成前衛隊が、

最後の隊列確認を行っていた。


すでに幾度も繰り返した合図。

互いの間合い。

敵を受け止める者と、開いた射線へ攻撃を通す者の動き。

一つひとつを確かめるように、両国の兵士たちは同じ号令で動いている。


別の区画では、ヴィオレットとルシアンを中心とした帝国魔術師たちが、

共和国の魔導錬金術師や観測兵とともに、

観測術式と魔導装置の同期を確認していた。


通信室には、共同軍全体を結ぶ統合通信網の光が幾重にも走っている。

廊下を急ぐ伝令兵。

次々と運び込まれる医療物資。

机の上へ積み重ねられていく、混成部隊ごとの最終命令書。


そこに、国ごとの境目はもうなかった。


百五十年間、二つの国を隔て続けてきた災厄。


そのすべてを明日終わらせるために、誰もが共同軍の一員として、

それぞれの持ち場で最後の準備を進めていた。


◇


夜が深まる少し前。

ルリスティは総司令官室の机に向かい、最後の命令書へ署名を記した。


混成前衛隊、外周防衛隊、遠距離支援群の最終配置。

合同観測班と統合指揮所を結ぶ通信手順。

突入部隊との連絡が途絶えた場合の作戦中止基準。


そして、自分が指揮を継続できなくなった際、

地上共同軍の指揮権と撤退判断をクルトワへ移すための委任書。

最後の一枚まで内容を確認し、インクが乾くのを待ってから書類を閉じる。


椅子の背へ身体を預けた時、

肩へ重くのしかかっていた疲労が、ようやく存在を主張した。

それでも、休息に入るにはまだ早い。

机上の作戦図へ再び目を落としたところで、扉が控えめに叩かれた。


「どうぞ」


入ってきたのはジェイクだった。


明日の戦闘に備えた漆黒の軍服姿。

今は魔導大剣を帯びていないが、

その身のこなしには普段と変わらない隙のなさがある。


「最終確認は終わりましたか?」

「はい。共同軍各部隊の配置は完了しています。統合通信網にも問題はありません」


ルリスティは机上の報告書へ一度だけ目を向けた。


「混成前衛隊、外周防衛隊、遠距離支援群からも準備完了の報告を受けています。

合同観測班の同期も正常です」


ルリスティが立ち上がると、ジェイクの視線が彼女の首元へ向けられた。


軍服の上には、二つのペンダントが並んでいる。

星導の魔導銃が姿を変えた銀色の星のレリーフ。

そして、聖霊王の涙が姿を変えた、淡い光を宿す透明な雫。

どちらも、明日の作戦に欠かすことのできない遺産だった。


「星導の魔導銃は、問題なく顕現できますか?」

「はい。先ほど最終確認を終えました」


ルリスティが銀色の星へ触れる。

「聖霊王の涙にも異常はありません」


「体調は?」

「問題ありません」


「眠れそうですか?」

「おそらくは」


ジェイクの眉間へ、僅かに皺が寄った。


「おそらく、ではなく眠ってください」

「眠れなかった場合は?」


「目を閉じて横になるだけでも構いません。身体を休めることが重要です」

「分かりました」


返事をしながら、ルリスティは改めてジェイクの顔を見た。


確認すべきことは、もう終わっている。

それなのに彼は、部屋を出ようとしない。

普段よりも僅かに口数が少なく、何かを決めかねているように見えた。


「ジェイク」


公の場では、今も変わらず大佐と呼んでいる。

けれど二人きりの時には、こうして名前を呼ぶことも増えていた。

深い青の瞳が、すぐにこちらへ戻る。


「はい」

「まだ、何かあるのですか?」


短い沈黙の後、ジェイクは意を決したように口を開いた。


「少しだけ、付き合っていただけますか?」

「どちらへ?」

「丘へ」


その一言で、どの場所かは分かった。


砦の外れ、辺境の草原を見渡す小高い丘。

その中央には、一本の大樹が立っている。

幼い頃、クラウスと過ごした場所。


成長してからは一人で本を読み、

いつしかジェイクとも何度も訪れるようになった場所。


「今からですか?」

「今夜でなければ、意味がありません」


いつもなら理由を尋ねていただろう。

けれど、今のジェイクの表情を見て、ルリスティはそれ以上何も問わなかった。

机上の灯りを消し、外套を手に取る。


「分かりました」


◇


二人は砦の裏門を抜け、夜の草原を並んで歩いた。


空には薄い雲が流れ、その隙間から幾つもの星が顔を覗かせている。

冷たい風の中には、春の訪れを知らせる若草の匂いが僅かに混じっていた。


ジェイクはルリスティの歩調へ合わせている。

ルリスティも、無理に沈黙を埋めようとはしなかった。


やがて二人は丘の頂上へ辿り着く。

大樹は、今夜も変わらず枝を広げていた。


遠くには、多くの灯りを宿した辺境防衛軍本部。

その先には、黒い霧に覆われた巨大な亀裂が、夜の大地を深く裂いている。


共和国で黒淵と呼ばれる災厄。

明日の朝、二人はあの場所へ向かう。

ルリスティは共同軍の全体を指揮し、星導の魔導銃で核へ至る道を開く。


ジェイクは直衛班を率いてその周囲を守り、

自らは最も近い位置でルリスティの背後に立つ。


明日の作戦でも。

そして、その先の未来でも。


二人は大樹の根元まで歩き、いつもの場所で足を止めた。

ルリスティが幹へそっと触れる。


「父と来ていた頃も、ここは静かでした」


ジェイクは隣へ立ち、同じように黒淵を見つめる。


「クラウス司令とは、黙って景色を見ていることが多かったのでしたね」

「はい。父も私も、あまり話す方ではありませんでしたから」


「あなたは今もでしょう」

「大佐に言われたくありません」


「俺は必要なことは話しますよ」

「私も話しています」


ジェイクが小さく笑う。

ルリスティも僅かに目元を和らげたが、やがて遠くの黒淵へ視線を戻した。


幼い頃、ここから見える景色が世界のすべてだと思っていた。

砦、草原、黒淵。

辺境防衛軍の兵士たち。

そして、父であるクラウス。


その外にもう一つの国が存在し、

血の繋がった家族が生きているなど、考えたこともなかった。


「父は、いつかこの場所から黒淵が見えなくなる日が来ればいいと話していました」


この砦が、戦うためだけの場所ではなくなる日。

子どもたちが、黒淵を恐れずに生きられる未来。

クラウスが望みながら、自らは見ることのできなかった景色。


ジェイクは、夜の大地を塞ぐ巨大な黒淵を見据えた。

「明日、その日が来ます」

静かな声には、迷いがなかった。


「はい」

ルリスティも迷わず答える。


それでも、不安がないわけではない。

黒淵の奥で何が起こるのか。誰が傷つくのか。

本当に全員で帰ることができるのか。

未来は、誰にも分からない。


それでも、すべてを判断し、命令を下さなければならない。

それが共和国軍対黒淵戦総司令官である、ルリスティの役目だった。


「ルリスティ」


名前を呼ばれ、彼女はジェイクへ顔を向けた。

ジェイクは黒淵から視線を外し、ルリスティの正面へ回る。

ルリスティも大樹から手を離し、彼と向き合った。


「明日、俺はあなたの直衛に入ります。

何が起きても、あなたの後ろから離れません」

「はい。任せます」


「星導の魔導銃を構えている間も、聖霊王の涙を使用する間も」

ジェイクの視線が、軍服の上に並ぶ二つのペンダントへ落ちる。

「あなたは前だけを見ていてください」


それは、すでに会議の場でも交わした約束だった。

総司令官と、その直衛として。

ルリスティが道を開き、ジェイクが背後を守る。


けれど、彼はそこで言葉を終えなかった。


「ただ――」

声が、僅かに柔らかくなる。

「明日のことだけを話すために、ここへ来たわけではありません」


ジェイクの右手が、ゆっくりと軍服の内側へ入る。

取り出されたのは、掌に収まるほどの小さな箱だった。


「大佐、それは……?」


ジェイクは答えず、静かに蓋を開いた。


中に収められていたのは、一つの指輪だった。

華美な装飾はなく、細身の銀色の輪の中央には、

ジェイクの瞳を思わせる深い青の石が輝いている。

その両側には、小さな星を象った繊細な意匠が刻まれていた。


ルリスティは紫水晶の瞳を見開いた。

目の前に差し出されたものが何を意味するのか理解するまで、

ほんの少しだけ時間がかかる。


「ジェイク、これは……」

「この日のために、用意していました」


「いつからですか?」

「少し前からです」


それ以上、ルリスティは追及しなかった。

深い青の瞳を見れば、一時の衝動で用意したものではないと分かる。

何度も二人の未来を考え、渡す日を選びながら、

今日まで大切に保管してきたのだろう。


ジェイクは箱から指輪を取り出した。

普段と変わらず落ち着いて見えるその指先に、ほんの僅かに力が入っている。


「ルリスティ」

「はい」


ジェイクは一度、深く息を吸った。

「帰ったら……俺と結婚してください」


真っ直ぐに向けられた深い青の瞳から、ルリスティは目を逸らせなかった。

夜風が二人の間を通り過ぎ、大樹の枝を静かに揺らしていく。


嬉しい。

胸の奥へ大きく込み上げる感情を確かめながら、

それでもルリスティは一つだけ尋ねた。


「帰れたら、ではないのですか?」

ジェイクの表情が僅かに険しくなる。


「違います」

迷いのない否定だった。

「俺もあなたも、必ず帰ります。これは、その後の話です。死ぬかもしれないから、今のうちに伝えているのではありません」


ジェイクは指輪を持つ手を胸元へ引き寄せ、静かに続けた。


「あなたが以前、俺に言ってくださったでしょう。

――大佐と、同じ時を生きたい、と」


ルリスティの紫水晶の瞳が、僅かに揺れた。

あの時、ルリスティにとっては、アステリアの生き方を知り、

胸へ浮かんだ気持ちをそのまま言葉にしただけだった。


けれど、ジェイクにとっては違った。

それまで彼が願っていたのは、ただ彼女の隣にいることだった。

生きていてほしい。

帰ってきてほしい。

できる限り近くで、その背中を守っていたい。


けれど、ルリスティから「同じ時を生きたい」と告げられた瞬間、

その願いは初めて、もっと遠い未来へ形を変えた。

彼女の隣で明日を迎え、一年後も、その先も、同じ季節を重ねていく。

そんな未来の中にいる自分を、ジェイクは初めて思い描いたのだ。


「あの言葉を聞いてから、俺もずっと考えていました。

俺も、あなたと同じ時を生きたい」


その言葉に、ルリスティの瞳が大きく揺れる。


「同じ季節を重ねて、同じように年を取って、

その先もずっと、あなたの隣にいたい」


ジェイクは一度だけ指輪へ視線を落とし、再びルリスティを見つめた。


「だから、あなたと生きることを決めたんです。

明日のためではありません。その先にある、俺たちの未来のために伝えています」


明日、ルリスティは共同軍の全将兵と、

星導の魔導銃と、聖霊王の涙を背負って戦場へ立つ。


共和国の兵も、帝国の兵も、

今はすべて彼女の命令を信じ、同じ戦場へ向かう者たちだった。


その重さを誰より理解している男が、今だけは戦いのさらに先へ手を伸ばしている。


「だから今夜だけは、戦いが終わった先の未来を、俺にも預けてください」


一人で背負うなと、何度も言われてきた。

それでも、自分が背負わなければならないものは確かにある。

けれど、戦いが終わった先の人生まで、一人で抱える必要はないのかもしれない。


ジェイクは、戦場で背中を守るだけではない。

その先の時間まで、ともに生きたいと言っている。


「返事は、帰ってからでも構いません」

「いいえ」


ルリスティはすぐに首を横へ振った。


「その必要はありません。今、お返事します」

「ルリスティ」


彼女は、ジェイクの目を真っ直ぐに見返した。


「私は、ジェイクと結婚します」


風の音だけが、二人の間へ残った。


ジェイクは指輪を持ったまま動かない。

普段どれほどの魔獣を前にしても動じない男が、

今はただ一つの返事を前に、完全に言葉を失っていた。


「ジェイク?」

「……はい」


「聞こえませんでしたか?」

「聞こえました」


それでも、まだ信じられないものを見るように深い青の瞳が揺れている。


「もう一度、言っていただけますか」

「なぜです?」

「確認したいので」


ルリスティの口元へ、小さな笑みが浮かんだ。


「私は、あなたと結婚します」


今度は、よりはっきりと告げる。


ジェイクは静かに目を閉じ、ようやく肩から僅かに力を抜いた。


「……ありがとうございます」

「こちらこそ」


「なぜ、あなたが礼を言うのですか?」

「私との未来を望んでくれたからです」


再びジェイクが言葉を失う。

しばらくして、ようやく気を取り直したように指輪を持ち直した。


「左手に、はめても?」

「いいえ」


今度は、ジェイクの表情が目に見えて固まった。

その反応に、ルリスティはすぐに首を横へ振る。


「そうではありません。明日は魔導銃を使います。

大切なものを、戦場で失くしたくありません」


そう告げると、軍服の襟元へ手を入れ、白いシャツの下から細い鎖を引き出した。

二十歳の誕生日に、ジェイクから贈られた星のネックレスだった。


「それを、今も着けていたのですか」

「はい。いつも着けています」


ジェイクの深い青の瞳が、僅かに揺れる。


「ずっと身につけてくださっているとは、思いませんでした」


ルリスティは、手のひらへ乗せたネックレスをジェイクへ差し出した。


「こちらへ通してください」


ジェイクはすぐには受け取らず、掌の上で揺れる小さな青い石を見つめた。


「なぜ、誰にも見えない場所に?」


問われたルリスティは、軍服の上に並ぶ二つの遺産へ目を向ける。

星導の魔導銃と、聖霊王の涙。

どちらも、国と世界の未来を背負うために託されたものだった。


「これは、国や役目のために託されたものではありません」


それから、手のひらの小さな星へ視線を戻す。


「ジェイクが、私個人へ贈ってくれたものですから」


それだけで、十分な理由だった。

ジェイクはしばらく言葉を失った後、

壊れ物を扱うような慎重さで鎖を受け取り、銀色の指輪を通した。


小さな青い石の隣へ、新たな約束が並ぶ。


「付けても?」

「はい」


リスティが背を向け、白銀の髪を片側へ寄せると、

ジェイクは細い鎖をそっと首元へ回し、慎重に留め具を留めた。

それから、胸元へ下りた小さな星と指輪を静かに見つめる。


ルリスティはそれらを指先で包むように触れ、白いシャツの内側へそっと収めた。

外から見える場所には、総司令官として背負う二つの遺産。

そのさらに内側、誰にも見えない場所には、ジェイクとの未来があった。


「明日、その指輪がある場所を守ります」


ジェイクがルリスティの胸元へ視線を落とすと、彼女は僅かに眉を寄せた。

「胸元を、ですか?」

「あなたごとです」

即座に訂正された。


ルリスティは一歩、彼との距離を縮めた。

そして何も言わず、ジェイクの胸元へ額を寄せる。


僅かな驚きの後、彼の腕がルリスティの背へ回った。

強く、けれど決して苦しくならないように、

大切な存在を確かめるような抱擁だった。


「必ず帰ってきてください」


ルリスティは、彼の軍服をそっと掴んだ。


「あなたの後ろにいるのに、どこへ行くんです?」

「そういう意味ではありません」

「分かっています」


ジェイクの腕へ、少しだけ力が加わる。


「俺も、あなたと帰ります。そして、またここへ戻ってきましょう」


大樹の向こうには、砦の灯りが見えていた。

クラウスと過ごした丘。

一人で本を読んだ場所。

ジェイクと言葉を交わしてきた場所。

次に戻る時は、戦いを終え、同じ時を生きる未来を約束した二人として。


「はい」


ルリスティは、彼の胸元で静かに頷いた。


「帰ってきましょう」


ジェイクはすぐには答えず、

抱き締めていた腕を僅かに緩めると、片手をルリスティの頬へ添えた。

その気配に顔を上げれば、深い青と紫水晶の瞳が、すぐ近くで重なる。


夜風が大樹の枝葉を揺らし、二人の姿を隠すように葉の影が静かに降りた。

それ以上、言葉は交わされなかった。


やがて僅かな距離が戻った時も、

ジェイクの額はルリスティの額へ触れたままだった。


「必ず、一緒に帰りましょう」

掠れた声で、もう一度告げる。


「はい」

返事は先ほどよりも少しだけ小さかった。

けれど、そこに迷いはなかった。


◇


同じ夜。


帝国代表団へ割り当てられた区画では、リカルドが一人、黎明の剣を確認していた。

白銀の鞘に収められたそれは、長い時を越え、

初代皇帝レオン一世から受け継がれた剣だった。

明日、この刃で災厄の根と核を断つ。


刃にも魔力の流れにも異常はない。

すでに何度も確かめたことだったが、それでも手を離せないのは、

明日、自分の一撃へすべてが懸かっているからだった。


ルリスティが星導の魔導銃で核へ至る道を開き、

アレクシスが混成前衛隊を率いて立ちはだかる魔物を排除する。

ジェイクは直衛班を率いてルリスティの背後を守り、

ヴィオレットとルシアンは共和国の観測班とともに次元の変動を見極める。


地上ではクルトワが共同軍の指揮を代行し、

ガレスの遠距離支援群とリディアの外周防衛隊が帰還路を守り続ける。

そのすべてが繋いだ道の先で、災厄の根と核を断つ。

それが、リカルドに託された役目だった。


失敗は許されない。


そして何より、

クリスティを災厄のただ中へ連れていかなければならないことへの不安が、

胸の奥から消えることはなかった。


彼女の太陽の祝福は、突入部隊を支える大きな力になる。

だからこそ、クリスティ自身が戦場へ立つことを選んだ理由も理解している。


それでも、できることなら安全な場所にいてほしい。

何が起きても、自分が守る。

そのためなら、どれほど危険な場所へ踏み込むことになっても構わなかった。


「アークファイント」


扉の向こうから柔らかな声がして、

リカルドはすぐに剣から手を離し、立ち上がった。


「クリスティ様」


扉を開くと、そこにクリスティが立っていた。


昼間の皇太子礼装ではない。

休息に入るための淡い色のドレスをまとい、

結い上げていない白銀の髪が柔らかな波を描いて肩へ流れている。


「まだ起きていたの?」


部屋へ入ったクリスティは、すぐに机上の黎明の剣へ目を向けた。


「剣の最終確認をしておりました」

「もう何度も確認したでしょう?」

「念のためです」


その答えに、クリスティは小さく笑った。


「ふふ。アークファイントらしいね」


けれど、黎明の剣を見つめる横顔には、すぐに不安の影が差す。

明日、この剣を持ったリカルドは、災厄の核まで進まなければならない。


「これで、全部終わるのね」

「必ず終わらせます」


迷いなく答えたリカルドは、

そのまま明日の動きを確かめるようにクリスティへ向き直った。


「クリスティ様は、亀裂内部では決して私から離れないでください。

祝福を使用している間も、何か異常を感じれば、すぐに――」

「アークファイント」


クリスティが、やんわりとその言葉を遮る。


「あなたは、やっぱり自分のことは何も言わないのね」


リカルドの言葉が止まった。

クリスティは彼の前まで歩み寄り、黒い瞳を見上げる。


「明日、災厄の核まで行くでしょう?」

「はい」


「怖くないの?」

「問題ありません」


いつもと同じ答えだった。


クリスティを安心させるために、

不安も恐怖もすべて押し込めた声だと、彼女にはもう分かっている。

少しだけ眉を下げ、クリスティは静かに問い返した。


「それは、怖くないという意味ではないでしょう?」


リカルドは答えなかった。

答えられなかった。

そんな彼を見つめながら、クリスティは胸元で重ねていた両手をほどく。


「アークファイントは、いつもわたしを守ってくれる」

「それが私の役目です」

「うん。騎士としては、そうなのかもしれない」


一歩、距離を縮める。


「でも、わたしは守られているだけでは嫌だよ」


そう告げると同時に、クリスティは自らリカルドの胸へ抱きついた。


「――クリスティ様?」


リカルドの身体が、完全に固まる。

両腕は身体の横へ下ろされたまま動かない。

触れてよいのか、抱き返してよいのかすら判断できずにいる。


クリスティは、そんな彼の軍服へ頬を寄せた。

耳元へ届く鼓動は、普段よりもずっと速い。


「明日は、わたしもあなたを守るからね」

「クリスティ様、その必要はありません」


予想通りの返事に、クリスティは彼から離れないまま首を横へ振った。


「あるよ」


黎明の剣を、核まで届けるため。

そして、この人を必ず未来へ帰すため。


「あなたが剣を振るう瞬間まで、わたしの太陽の祝福で守るの」


リカルドが小さく息を呑む。

クリスティは胸元から顔を上げ、すぐ近くにある黒い瞳を真っ直ぐに見つめた。


「あなたは、わたしを守る騎士でしょう?」

「はい」

「なら、わたしはあなたを照らす太陽になる」


柔らかな声だった。

けれど、そこに迷いはない。


「だから、全部一人で背負わないで」


リカルドは、何も言えなかった。

五歳の少女へ忠誠を誓った日から、彼女を守ることだけを考えてきた。

自分の命を使い、彼女の未来を守る。それだけでよかった。


何かを返してもらおうなどと、一度も考えたことはない。

ましてや、彼女に守ってもらうことなど、想像したことさえなかった。


それなのに今、クリスティは自分を失いたくないと言っている。

皇太子としてでも、主としてでもなく。

一人の女性として。


「……クリスティ様」


ようやく、リカルドが掠れた声を絞り出す。


「なあに?」

「抱き返しても、よろしいでしょうか」


クリスティは驚いたように目を丸くしたあと、少しだけ困ったように笑った。


「もう、わたしから抱きついているのに?」

「それでも」


リカルドは、まだ両腕を動かさないまま答える。


「クリスティ様の許可なく、私から触れることはできません」


本当に、どこまでも彼らしい。

クリスティはもう一度その胸へ頬を寄せ、柔らかく告げた。


「いいよ。抱き締めて」


その許しを受けて、ようやくリカルドの腕が動いた。

最初は恐る恐る。

けれど、腕の中にいるクリスティの存在を確かめるうちに、

その抱擁は少しずつ確かなものへ変わっていく。


強すぎない。

それでも、離したくないという想いだけは、言葉よりもはっきりと伝わってきた。


クリスティは目を閉じる。

幼い頃から、不安な時も、寂しい時も、

皇族として笑顔を絶やしてはならなかった時も。

リカルドだけは、いつも変わらず傍にいた。


だから明日は、自分がこの人を守る。


「アークファイント」

「はい」

「必ず、一緒に帰ろうね」


抱き締める腕へ、僅かに力が加わった。


「必ず」


低く、揺るぎのない声だった。


けれど、そのあとに続いたのは、

いつものリカルドなら決して口にしなかったであろう、自分自身の願いだった。


「……私も、クリスティ様と一緒に帰りたいです」


クリスティの瞳が、ゆっくりと見開かれる。


「あなたをお守りして帰すだけではなく、私もあなたの隣へ帰りたい」


騎士としての誓いではない。

命令でも、義務でもない。

ただ一人の男として初めて口にした、自分自身の望みだった。


クリスティの瞳が僅かに潤む。

それでも泣く代わりに、心から嬉しそうに笑った。


「うん。一緒に帰ろう」


そう言って、もう一度彼の胸へ頬を寄せる。

リカルドも、今度は迷わずその身体を抱き締めた。


「クリスティ様が私を守ってくださる間、

私はあなたが望む未来までの道を切り拓きます」

「うん」


クリスティは、その胸元で小さく笑う。


「じゃあ、どちらも一人で頑張るのは禁止ね」


返事が、一瞬遅れた。

クリスティはすぐに胸元から顔を上げる。


「今、少し考えたでしょう?」

「長年の習慣を改めるには、時間が必要です」


あまりにも真剣に答えるので、クリスティは思わず吹き出した。


「じゃあ、少しずつね」

「努力いたします」

「うん。約束だよ」


張り詰めていた空気が、ようやく少し和らいだ。


二人はそれ以上急いで言葉を重ねず、

腕の中にある温度だけで、互いが確かにここにいることを確かめる。


やがてリカルドが、名残惜しさを押し込めるようにゆっくりと腕を緩めた。


「クリスティ様。もう、お休みください」

「アークファイントもね」


離れたクリスティは、机上の黎明の剣へ視線を向ける。


「剣を確認するのは、あと一度までだよ」

「……承知いたしました」


その僅かな間を、クリスティは聞き逃さなかった。


「本当?」

「もちろんです」

「では、信じるね」


疑うように目を細めながらも、クリスティは扉へ向かった。

けれど、取っ手へ手を掛ける寸前で立ち止まる。


「アークファイント」

「はい」


振り返ったクリスティは、少しだけ照れたように笑った。


「帰ってきたら、また踊ってくれる?」


六年間待ち続け、ようやく叶ったあの夜のダンス。

リカルドは一瞬だけ目を見開いたあと、穏やかに表情を和らげた。


「もちろんです」

「今度は、待たせない?」

「はい。何度でも、お相手いたします」


迷いのない返事に、クリスティの笑顔がさらに大きくなる。


「約束ね」

「必ず」


それから彼女は改めて扉を開いた。

けれど、部屋を出る前にもう一度だけ振り返る。


机上には黎明の剣。

その傍らには、自分を見つめる騎士。


「おやすみなさい、わたしの騎士様」


クリスティは柔らかく微笑んだ。

リカルドが深く一礼する。


「おやすみなさいませ」


そこで一度言葉を切った。

そのまま見送ることもできたはずなのに、リカルドは静かに顔を上げる。


「私の太陽」


クリスティの目が、大きく見開かれた。

口にした本人も、自分が何を言ったのか理解したらしい。

表情こそ崩れないものの、耳だけが僅かに赤くなっている。


クリスティはしばらくそんな彼を見つめていたが、

やがてこれ以上ないほど幸せそうに笑った。


「おやすみ、アークファイント」


今度こそ、扉が静かに閉じる。

一人になったリカルドは、その場からしばらく動くことができなかった。


やがて机上の黎明の剣へ視線を戻す。


もう、確かめる必要はない。

明日、自分は一人で戦うのではない。

太陽が、自分を照らしてくれる。


そして、その戦いの先には、もう一度彼女の手を取って踊る未来がある。

ならば必ず、その光が望む未来までの道を切り拓く。


◇


同じ夜。


ルリスティの胸元には、誰にも見えない指輪があった。

クリスティの胸には、

初めて「一緒に帰りたい」と願ってくれた騎士の温度が残っていた。


一人は、愛する男と同じ時を生きる未来を約束し、

もう一人は、愛する騎士と守り合い、ともに帰る未来を約束した。


明日の朝。


明日の朝、二人はそれぞれ、

共和国軍少将にして対黒淵戦総司令官と、

マーヴェリア帝国皇太子として戦場へ立つ。


ルリスティは、国籍も軍装も異なる数千名を束ねる共同軍の現地総指揮官として。

クリスティは、太陽の祝福を宿す帝国全権代表として。


それぞれが、自ら選んだ場所で二つの国の未来を背負う。

けれど、その胸の内にあるのは、国の未来だけではない。


必ず帰るべき場所。

帰った先で、ともに生きたいと願う人。

その存在を、確かに抱いていた。


決戦前夜。

誰も、別れの言葉は口にしなかった。

交わしたのは、生きて帰る者だけが果たすことのできる、未来の約束だった。

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