第99話 星を継ぐ者
夜明け前の空は、まだ薄暗かった。
東の地平線だけが細く白み始めているが、大地を裂く巨大な黒淵は、
その光さえ拒むように黒い霧を絶え間なく吐き出している。
低く鳴り続ける地響き。
湿り気を帯びた冷たい風。
亀裂の底から這い上がってくる、獣とも人ともつかない微かな唸り声。
百五十年もの間、二つの国を隔て続けてきた災厄が、
夜明けを前に静かに脈打っていた。
その黒淵を正面に望む草原には、
マーヴェリア帝国軍とアドバンス共和国軍による共同軍が布陣している。
最前列では、盾を構えた帝国騎士の隣に、
魔導剣や大型魔導剣を携えた共和国兵が並び、
その後方には共和国の魔導銃部隊と帝国魔術師団が控えていた。
さらに後方では魔導砲と術式観測装置が展開され、
魔導錬金術師や整備兵、結界維持を担う魔術師たちが最後の調整を続けている。
国ごとに分かれた陣形ではない。
兵種と役割に応じ、二つの軍を組み合わせた一つの布陣だった。
今日まで繰り返してきた合同訓練の中で、
互いの武器の間合いを知り、合図を覚え、何度も動きを重ねてきた。
言葉も戦い方も異なる兵士たちは、今や同じ号令で剣を構え、
同じ合図で魔力を巡らせている。
異なる軍服。
異なる武器。
異なる軍旗。
それでも、見据えている先は一つだった。
二つの国の兵として隔たるのではなく、同じ災厄へ挑み、同じ未来へ帰る者として。
混成陣形の中央。
帝国と共和国、二つの軍旗を背にして、白銀の髪を持つ一人の女性が立っていた。
ルリスティ・トリウリッド。
共和国軍対黒淵戦総司令官。
そして、奈落門・黒淵消滅共同作戦の現地総指揮官。
白い軍装用シャツの上に共和国軍の漆黒の軍服をまとい、
その胸元には二つのペンダントが並んでいる。
一つは、銀色の星を象った小さなレリーフ。
初代皇帝レオン一世が未来へ遺した、星導の魔導銃が眠る姿。
もう一つは、透明な光を内側へ閉じ込めた聖霊王の涙。
そして、軍服とシャツのさらに内側には、もう一つの首飾りが隠されている。
二十歳の誕生日にジェイクから贈られた、星を意匠にしたネックレス。
その細い鎖には、昨夜受け取ったばかりの婚約指輪が通されていた。
胸の奥で、指輪の僅かな重みを感じる。
必ず帰る。
帰れたら、ではない。
自分も、隣に立つ者たちも。
ここへ集ったすべての者も。
この戦いを終え、未来へ帰る。
ルリスティは黒淵から視線を動かし、左右へ広がる共同軍を見渡した。
最前列に立つのは、奈落騎士団長アレクシスだった。
普段の明るい表情は消え、武器を肩へ担いだまま、黒淵の奥を鋭く見据えている。
彼の後方には、選抜された帝国騎士と、
魔導剣や大型魔導剣を携えた共和国兵が並んでいた。
帝国騎士が盾と結界で魔物の進撃を受け止め、
共和国兵が魔導の刃でその間隙を切り拓く。
合同訓練によって組み上げられた、混成前衛隊だった。
外周の防衛線では、
巨大な戦斧を携えたリディアが各隊の間隔を最後まで確認している。
その周囲には帝国の盾兵と共和国の魔導銃兵が配置され、
突入部隊の退路と、黒淵外部に残る本隊の側面を守っていた。
「退路は何があっても空けておいてください。
前へ出すぎた部隊があれば、所属に関係なく引き戻します」
返事をしたのは、帝国騎士と共和国兵の双方だった。
中央後方には、共同軍の戦況を集約する統合指揮所が設けられている。
クルトワ中佐は観測術式と戦況図を前に、
帝国と共和国、双方の通信担当者から次々と報告を受けていた。
突入部隊が黒淵へ入った後、
ルリスティの命令を受けて亀裂外部に残る地上部隊の指揮を代行し、
帰還路を守る責任を負う者だ。
その近くでは、ガレス中佐が長距離魔導銃の照準器を覗き込み、
黒淵周辺の風向きと射線を確認していた。
彼が率いる遠距離支援群には、共和国第三部隊の狙撃兵と魔導砲隊だけでなく、
帝国魔術師団の長距離攻撃術式を扱う魔術師たちも加わっている。
「大型種と飛行型を優先する。
魔術師団の一斉攻撃で動きを止めた後、狙撃班が核部を撃ち抜け」
ガレスは照準器から目を離し、双方の兵士へ淡々と命じた。
「魔導砲はクルトワ中佐の指示に従え。味方の射線には絶対に入れるな」
「了解しました」
異なる軍服をまとう兵士たちから、揃った返事が返る。
少し離れた観測区画には、ヴィオレットとルシアンがいた。
二人の足元には幾重もの観測術式が展開され、
その周囲では共和国の魔導錬金術師たちが術式観測装置を調整している。
帝国の魔術と、共和国の魔導技術。
異なる体系を重ねることで、
黒淵から発せられる魔力波をこれまで以上の精度で測定する。
彼らの役目は、災厄の核へ至る内部構造を観測し、突入部隊へ座標情報を送ること。
そして最後には、核が完全に消滅したことを確認する。
その確証が得られない限り、聖霊王の涙が使われることはない。
混成部隊の中央では、黒淵内部へ踏み込む突入部隊が静かに命令を待っていた。
リカルドは白銀の黎明の剣へ手を置き、クリスティの傍らに立っている。
アレクシスが前方を切り拓き、クリスティが太陽の祝福で突入部隊を支える。
そして、その道の最奥でリカルドが黎明の剣をもって災厄の根と核を断つ。
ルリスティのすぐ後ろには、ジェイクがいた。
魔力をまとわせる巨大な両手剣を背負い、
その周囲には総司令官直衛班が展開している。
その中でもジェイク自身は、最も近い位置からルリスティの背後を守る。
彼女が振り返るより先に、低い声が届いた。
「準備は整っています」
「はい」
「前だけを見てください」
ジェイクの深い青の瞳が、真っ直ぐにルリスティへ向けられていた。
「後ろは、すべて俺が守ります」
昨夜、丘で交わした約束と同じだった。
ルリスティは小さく頷き、再び黒淵へ向き直る。
「任せます」
それだけで十分だった。
その隣へ、クリスティが歩み出る。
柔らかな白銀の髪が、黒淵から吹きつける風に揺れた。
「ルリスティ」
「何ですか、クリスティ」
「一緒に帰ろうね」
普段と変わらない明るい声。
けれど、その紫水晶の瞳には揺るがない覚悟が宿っている。
ルリスティは僅かに目を細めた。
「当然です」
二人が並ぶ。
同じ白銀の髪。
同じ紫水晶の瞳。
二歳の時に引き裂かれ、異なる国で育った双子の皇女。
一人は、帝国の太陽。
一人は、共和国の星。
今、二つの光が、百五十年の断絶を前に肩を並べていた。
ルリスティは一歩前へ出ると、両国の兵士たちへ向き直った。
それまで残っていた僅かなざわめきが消える。
共和国兵たちは総司令官の言葉を待ち、
帝国兵たちもまた、共同軍を指揮する漆黒の軍服の女性へ視線を集めた。
長い演説をするつもりはなかった。
今さら、帝国と共和国の歴史を語る必要もない。
この場所へ立っている者たちは皆、何のために戦うのかを知っている。
ルリスティは静かに息を吸った。
「この戦場に、所属による隔たりはありません」
よく通る声が、夜明け前の大地へ響く。
「ここにいる全員が、共に未来を勝ち取るために戦う者です」
帝国軍の旗が風にはためく。
共和国軍の旗も、同じ風を受けて揺れていた。
ルリスティは二つの軍旗の向こうにある黒淵を見据える。
「百五十年前に失われた道を取り戻し、二つの国が再び同じ世界を歩くために」
そして、右手を胸の前へ置いた。
「全軍」
帝国と共和国。
両国の兵士たちが、一斉に姿勢を正す。
「必ず生きて、未来へ帰りましょう」
ほんの一瞬、静寂が落ちた。
次の瞬間、帝国軍の隊列から剣を掲げる音が響き、
共和国軍では無数の魔導銃が胸元へ構えられる。
誰か一人が叫んだわけではない。
それでも二つの軍から同時に、地鳴りのような応答が上がった。
「応!」
声が大地を揺らす。
帝国兵も共和国兵も、すでに一つの共同軍として同じ未来を見据えていた。
◇
遠く離れた帝都。
皇城の作戦指揮室にも、前線の声が魔術通信を通じて届いていた。
室内には帝国各地から集められた情報が、幾重もの光の盤へ映し出されている。
黒淵周辺の魔力反応。
共同軍の配置。
各地の防衛結界の稼働状況。
レオンハルトは中央の机へ両手をつき、
絶え間なく送られてくる情報を確認していた。
「前線への魔力中継は」
「全経路、接続を確認しました」
「治癒術師と転送術師の待機状況」
「第一班から第五班まで、配置を完了しております」
「共和国側から要請が入った場合も、帝国軍と同様に対応しろ」
一人の文官が、僅かに躊躇った。
「共和国兵への支援も、同一の優先順位でよろしいのですか?」
レオンハルトが顔を上げる。
「今、前線に帝国兵と共和国兵の違いがあるのか」
「……ございません」
「ならば、確認する必要もない。最も危険な場所へ、必要な支援を送れ」
「承知しました」
その後方では、ルーファスが前線を映す大きな観測盤を見つめていた。
光の向こうに、二人の娘の姿がある。
クリスティ。
そして、十七年の歳月を経て再会したルリスティ。
その周囲には、息子たちや娘、そして彼らを支える者たちがいる。
父親としてなら、今すぐにでもあの場所へ駆けつけたかった。
だが、皇帝として自分が立つべき戦場はここだった。
それは、長男として皇帝を支えるレオンハルトも同じだ。
「陛下」
魔術師が振り返った。
「前線より、作戦開始の最終承認を求める通信です」
ルーファスは目を閉じた。
脳裏に浮かんだのは、フェリシアの笑顔だった。
十八年前に守れなかった妻。
そして、生きていることさえ知らないまま、長い年月を離れて過ごした娘。
あの日に途切れた家族の時間が、今ようやく未来へ進もうとしている。
やがてルーファスは目を開き、前線を映す観測盤をまっすぐに見据えた。
「承認する。帝国が持つすべての支援網を、共同軍へ開放せよ」
静かでありながら、揺るぎのない声だった。
「はい」
観測盤の向こうには、災厄へ挑もうとしている子どもたちの姿がある。
ルーファスはその一人一人を見つめるように、静かに続けた。
「今度こそ、誰一人、置いていかせるな」
◇
帝国皇城と共和国中央政府からの最終通信が、ほぼ同時に前線へ届いた。
『マーヴェリア帝国皇帝陛下より、共同作戦の開始が正式に承認されました』
『アドバンス共和国中央政府より、
現地総指揮権をルリスティ・トリウリッド総司令官へ一任するとの最終確認です』
続いて、両国の通信術式と観測装置へ、一斉に光が灯る。
『帝国全支援網、共同軍統合通信網への接続完了』
『共和国側の観測・通信網も接続完了。両国間の情報共有に異常ありません』
二つの国から届いた声が、一つの指揮系統へ集約されていく。
クルトワは戦況図へ次々と浮かび上がる光点を確認し、声を上げた。
「共同軍全隊、統合通信網への接続完了!
指揮系統にも異常ありません。いつでも開始できます!」
その報告に続き、各部隊から準備完了の声が届く。
ガレスは長距離魔導銃の照準器へ片目を寄せたまま、簡潔に告げた。
「遠距離支援群、全射線を確保。共和国狙撃班と魔導砲隊、
帝国魔術師団の長距離攻撃班、すべて初撃の準備を完了しています」
外周防衛線では、リディアが巨大な戦斧を持ち上げた。
その背後には、帝国の盾兵と共和国の魔導銃兵からなる混成部隊が並んでいる。
「外周防衛隊、配置完了です! 突入部隊の帰還経路も確保しています!」
アレクシスは武器を肩から下ろし、黒淵へ切っ先を向けた。
彼の後方では、選抜された帝国騎士と共和国の近接魔導兵が、同時に武器を構える。
「混成前衛隊、準備完了!」
観測区画では、ヴィオレットが展開された術式へ指先を置いた。
「黒淵内部の魔力波観測を開始するわ」
紫色の光が広がり、その上へルシアンの黄金の魔力が重なる。
二人を取り囲むように配置された共和国の魔導錬金術師たちも、
術式観測装置の数値を確認していく。
「補助術式は正常です。共和国側の観測装置との同期も完了しました」
ルシアンが、浮かび上がった複数の座標へ目を走らせる。
「内部構造の解析を開始します。座標が確定次第、総司令官へ共有します」
リカルドは黎明の剣を抜いた。
鞘から現れた白銀の刃が、夜明け前の薄闇へ光を放つ。
「黎明の剣、いつでも使用可能です」
その隣では、クリスティの周囲へ小さな光が生まれ始めていた。
朝日より先に輝く、暖かな金銀の光。
「太陽の祝福も、いつでも使えます」
すべての部隊から報告が揃った。
ルリスティは胸元へ手を伸ばし、銀色の星のレリーフを指先で掴んだ。
冷たかった金属が、触れた瞬間に微かに脈打つ。
――星を継ぐ者へ、闇を撃ち抜く銃を。
遺構に刻まれていた言葉が、胸の奥へ蘇った。
これは、共和国のためだけにある武器ではない。
帝国を屈服させるための武器でもない。
それは五百年以上前、聖霊王アステリアの死後に、
初代皇帝レオン一世が未来のために完成させた二つの遺産の一つだった。
どちらか一方の国が独占するためではなく、太陽と星、
二つの光が再び巡り会った時、封じられた夜を終わらせるために遺された武器。
「ルリスティ」
隣からクリスティの声が届く。
ルリスティは銀色の星を握り締めた。
「始めます」
紫水晶の瞳を閉じ、自分の内側を巡る魔力をゆっくりとレリーフへ流し込む。
最初に生まれたのは、小さな銀色の光だった。
指の隙間から漏れ出したそれは、細い線となって腕へ絡みつき、
一筋、二筋と数を増やしながら、
やがて無数の光となって星の軌跡を描き、宙へ広がっていく。
大気が震え、黒淵の奥から低い咆哮が響いた。
まるで災厄そのものが、目覚めようとする力を恐れているかのように。
ルリスティが目を開いた時、銀色の星はすでに小さなレリーフの形を失っていた。
眩い光が両手の間へ集まり、ゆっくりと一つの形を作り上げていく。
長い銃身。
両手で支える巨大な銃床。
漆黒の表面を銀白色の術式が走り、星座のように連なった光の紋様が、
銃身の根元から先端へ向かって次々と灯っていった。
星導の魔導銃。
五百年以上もの時を越え、星を継ぐ者の手へ渡された遺産。
その姿を目にした瞬間、共同軍の隊列へ小さなどよめきが広がった。
共和国兵にとって、その形は自分たちが日頃から扱う魔導銃に近い。
帝国魔術師たちの目には、
漆黒の銃身を巡る術式の一部が古い魔術体系と重なって見える。
けれど、そのどちらとも完全には一致しなかった。
共和国の魔導技術にも、帝国の魔術にも似ていながら、
そのどちらだけのものでもない。
まだ帝国も共和国も存在しなかった、遠い昔。
後に二つの国へ受け継がれていく人々が、
同じ文化を分かち合っていた時代に生まれた力だった。
ルリスティは星導の魔導銃を構える。
両足を開き、腰を落とし、巨大な銃床を肩へ当てると、
初めて手にした時と同じように、その武器は彼女の身体へ自然に馴染んだ。
「魔力収束を確認!」
クルトワが、両国の術式を統合した観測装置を確認しながら叫ぶ。
「総司令官を中心に、周辺一帯の魔力が急速に集まっています!」
帝国魔術師と共和国の魔導錬金術師たちが、同時に観測結果へ目を走らせた。
大気中を巡る魔力、大地に残る聖霊の気配、そしてルリスティ自身が宿す星の祝福。
そのすべてが星導の魔導銃へ流れ込み、銃身の内側で一つに束ねられていく。
やがて銃口に、小さな星が生まれた。
指先ほどだった銀白色の光は徐々に膨らみ、拳ほどの大きさになる頃には、
夜明け前の大地を照らすほど強く輝いている。
その中心では、深い青の光が静かに渦巻いていた。
溢れ出す魔力の風が軍服を激しくはためかせ、白銀の髪を舞い上げる。
それでも、ルリスティの構えた銃口は僅かにも揺れない。
狙うのは、黒淵の表面ではなかった。
幾重にも重なった次元の歪み、そのさらに奥。災厄の核へ続く、ただ一つの道。
「黒淵内部の魔力層を捕捉したわ。解析結果を共有する!」
ヴィオレットの声とともに紫色の光が術式から伸び、
ルシアンの黄金の魔力がそれを補強した。
共和国の術式観測装置が二人の捉えた情報を数値と座標へ変換し、
複雑に歪んだ黒淵の内部構造を、幾筋もの光の線として宙へ浮かび上がらせていく。
「内部座標を確定しました!」
ルシアンの声と同時に、観測班が導き出した情報がルリスティの前へ投影された。
何重にも折れ曲がり、歪み、途中で途切れていく無数の光。
その中でただ一つ、災厄の深部へ至る可能性を示す座標が浮かび上がる。
ルリスティは、その一点へ銃口を合わせた。
「ルリスティ!」
クリスティが両手を胸の前で組むと、
太陽の祝福が暖かな金銀の光となって広がった。
その光は星導の魔導銃へ流れ込むことなく、
ルリスティの周囲から、これから開かれる経路へ沿うように伸びていく。
星の力が道を穿つなら、太陽の光は、その道を進む者たちを守るためにある。
太陽と星。
二つの異なる祝福は互いの役割を侵すことなく、
ただ同じ未来へ向かって並び輝いていた。
その中心で、星導の魔導銃へ集う銀白色の魔力が、さらに密度を増していく。
低い唸りとともに伝わる振動が、ルリスティの腕から肩へ、そして全身へ響いた。
これまで、この力は守るために使ってきた。
共和国の砦を、兵士たちを、クラウスが愛した国を守るために。
けれど今度は、ただ守るだけではない。
二つの国が未来へ進むための道を、自らの手で開く。
ルリスティは引き金へ指をかけた。
「星を継ぐ者へ」
遺構に刻まれていた言葉を、静かに口にする。
「闇を撃ち抜く銃を」
呼応するように、黒淵が大きく脈打った。
裂け目の奥では無数の黒い影が蠢き、低い唸りが重なっていく。
ジェイクが大剣を抜き、ルリスティの背後へ立った。
その周囲では直衛班が一斉に武器を構え、リカルドはクリスティを守る位置へ移る。
アレクシスも混成前衛隊の先頭へ出た。
ヴィオレットとルシアンは観測術式へさらに魔力を注ぎ込み、
共和国の観測班が得られた情報を共同軍全体へ伝達していく。
クルトワは全隊との通信回線を開き、ガレスも照準器の向こうへ黒淵を捉えた。
その周囲では、共和国の狙撃兵と魔導砲兵、
帝国の長距離魔術師たちが同時に攻撃準備へ入る。
誰も、目を逸らさない。
ルリスティは、黒淵の最奥を真っ直ぐに見据えた。
「失われた世界を」
引き金を引く。
「再び一つに」
瞬間。
世界から、すべての音が消えた。
銃口から放たれた一条の光が、夜明け前の大地を白銀へ染め上げる。
遅れて空を裂く轟音が響き、星の光が黒淵へ突き刺さった。
触れた端から黒い霧が消し飛び、衝撃に大地が激しく揺れる。
異なる軍服をまとった兵士たちは、
吹き荒れる魔力の風に耐えながら、その光景を見つめていた。
星の光は止まらない。
黒淵の表層を穿ち、幾重にも重なった闇と次元の層を撃ち抜き、
百五十年間、誰も辿り着くことのできなかった深部へ一直線に突き進んでいく。
やがて黒淵の中央に細い亀裂が走り、その内側から銀白色の光が溢れ出した。
一本だった亀裂は次々と枝分かれし、暗闇の表面を覆っていく。
大地を揺るがす破砕音とともに、黒淵を覆っていた闇が左右へ押し開かれ、
その奥に星の光によって形作られた一筋の経路が現れた。
災厄の核へ続く道。
誰もが息を呑んだ。
成功した。
星導の魔導銃が、百五十年間閉ざされていた黒淵へ、核に至る道を撃ち開いたのだ。
「経路出現!」
クルトワが統合観測装置を確認しながら声を上げる。
「核へ向かう魔力反応を確認しました!」
「魔術観測と魔導観測、双方の結果が一致しています!」
ルシアンの報告に続き、共和国の観測班からも確認の声が上がった。
ヴィオレットも術式から目を離さないまま頷く。
「間違いないわ。この先に核がある」
星の光によって穿たれた経路の周囲を、
クリスティの太陽の祝福が金銀の光で照らしている。
星が道を開き、太陽がその先へ進む者たちを支えていた。
アレクシスが武器を構える。
「よし。混成前衛隊、前へ――」
その言葉は、最後まで続かなかった。
黒淵の奥から、一つの咆哮が響いた。
低く、重く、大地そのものを震わせるような声だった。
続いて二つ、三つ。さらに十、百と重なり、
やがて数えることすらできないほどの咆哮が、
開かれた道の向こうから押し寄せてくる。
星の光に照らされた暗闇の中で、赤い瞳が一つ、また一つと灯った。
黒淵の内部に潜んでいた無数の魔獣たちが、
開かれた道を通って地上へ向けて動き始めている。
ルリスティは星導の魔導銃を下ろさなかった。
吹きつける黒い風の向こうで、最初の巨大な影が姿を現す。
それを見たアレクシスが笑った。
普段の明るい笑顔ではない。
戦場に立つ騎士の、獰猛な笑みだった。
「道を開けば、当然こうなるよな」
リカルドが黎明の剣を構え、ジェイクもルリスティの背後で大剣を持ち上げる。
直衛班がその周囲へ展開し、外周防衛線ではリディアが巨大戦斧を肩へ担いだ。
その背後では、
帝国の盾兵と共和国の魔導銃兵が訓練どおり互いの間隔を詰めていく。
クルトワが統合通信術式を共同軍全体へ開いた。
「敵性反応、多数!外周防衛隊は現在の配置を維持!
遠距離支援群は混成前衛隊を援護し、突入経路を死守してください!」
ガレスはすでに照準器の向こうへ黒淵を捉えていた。
その先には、群れの先頭を進む巨大な魔獣の頭部がある。
「遠距離支援群、目標を確認。総司令官の命令と同時に攻撃を開始する」
静かな声が、共和国の狙撃兵と魔導砲隊、帝国の長距離魔術師たちへ同時に届いた。
前衛では帝国騎士たちが盾を並べ、
その間に共和国の魔導剣兵と大型魔導剣兵が武器を構える。
後方では魔導銃へ光が収束し、
帝国魔術師たちの杖先にも攻撃術式が展開されていった。
今日まで繰り返してきた合同訓練と同じ動きだった。
ただし、相手は訓練用の標的ではない。
百五十年もの間、二つの国を苦しめてきた災厄そのものだった。
ルリスティは、迫り来る魔獣の群れを見据える。
「共同軍、全隊へ告ぐ」
静かな声が、統合通信網を通してすべての兵士へ届いた。
「戦闘開始」
その命令と同時に、ガレスの長距離魔導銃が火を噴いた。
放たれた一条の光が戦場を駆け抜け、
群れの先頭にいた巨大な魔獣の額を正確に撃ち抜く。
巨体が大きく傾いたその後方へ、帝国魔術師団の攻撃術式が降り注ぎ、
後続の魔獣たちの動きを止めた。
「前衛、進め!」
アレクシスの号令とともに、帝国騎士たちが盾を構えて魔獣の突進を受け止める。
その隙間から共和国の魔導剣兵が踏み込み、魔力の刃で敵の身体を切り裂いた。
さらに後方からは、魔導銃の光と攻撃魔術が同時に放たれる。
異なる武器も、異なる戦い方も、
今は互いを補い合い、一つの軍として魔獣の群れへ襲いかかっていた。
そして。
夜明けを告げる最初の朝日が昇った。
その光は、並んで掲げられた二つの国の軍旗と、
その下でともに戦う兵士たちを、等しく照らしていた。




