第93話 二十歳の朝
同じ朝。
遠く離れた二つの国で、白銀の髪を持つ双子の姉妹が二十歳を迎えた。
◇
アドバンス共和国。
夜明け前の淡い光が、窓から差し込んでいた。
ルリスティは白銀の髪をいつものようにまとめ、耳の横へ深い青色の小鳥を留める。
共和国の街で、クリスティと揃えた幸運の鳥。
続いて、いつもと変わらぬ漆黒の軍服へ袖を通す。
その首元には、日付が変わった直後、
ジェイクから贈られた小さな星のネックレスが掛けられていた。
軍服の襟を整えれば、星は布の下へ隠れて見えなくなる。
それでも、胸元には確かな重みと温もりが残っていた。
鏡の前で、ルリスティは軍服の上から星へそっと触れる。
その表情が普段より僅かに柔らかくなったのは、ほんの一瞬だけだった。
二十歳となった今日も、
共和国軍対黒淵戦総司令官として果たすべき責務は変わらない。
黒淵を終わらせるため。
兵士たちを、全員家族のもとへ帰すため。
そして、自分自身もジェイクの隣へ帰ってくるために。
ルリスティは、二十歳の朝を歩き始めた。
◇
同じ頃。
マーヴェリア帝国の皇城では、
クリスティが立太子の儀のために仕立てられた正装の前へ立っていた。
白を基調とした衣装には、帝国の紋章が銀糸で縫い取られている。
肩から流れる薄紫の外套。胸元には、太陽を象った皇族の徽章。
白銀の髪には、銀の冠環を戴くための繊細な飾りが施され、
その傍らで深い青色の小鳥が揺れていた。
共和国の街で、ルリスティと揃えた幸運の鳥。
そのもう一羽は今、遠い共和国で、双子の妹の白銀の髪を彩っている。
侍女たちが最後の飾りを整え、一歩下がって深く一礼した。
「クリスティ」
鏡越しに名を呼んだのは、ヴィオレットだった。
クリスティが振り返ると、正式な礼装をまとったレオンハルトとアレクシスも、
ヴィオレットの隣に立っている。
「お兄様たちも」
「支度を終えたのでな。様子を見に来た」
レオンハルトが短く答える。
「兄上は、朝から三度も時計を確認していたが」
アレクシスが笑うと、レオンハルトの眉間へ皺が寄った。
「黙れ」
厳しい声だったが、その表情には心配と誇らしさ、
そして僅かな寂しさが滲んでいる。
クリスティは、鏡に映る自分の姿から三人の兄姉へ視線を移した。
「私が皇太子になることを……本当に、皆様も納得してくださっていますか?」
少しだけ声が低くなる。
皇帝となる意思を表明してから、
クリスティは言葉だけで自分の資格を主張してきたわけではない。
父やレオンハルトの政務を手伝いながら国政を学び、
後継者としてこれまで以上に厳しい教育を受けた。
重要な会議へ出席し、帝国の政策へ意見を述べ、
必要とあれば皇帝の名代として判断を下したこともある。
それでも、実際に冠を戴く日を迎えれば、胸の奥へ小さな不安が生まれた。
レオンハルトが、妹の前へ進む。
「お前が選ばれたのではない」
「……え?」
「お前が、自ら選んだのだ」
低く、揺るぎのない声だった。
「皇帝となる道を。帝国の未来と、その責任を引き受けることを」
レオンハルトは、クリスティを真っ直ぐに見つめる。
「そのうえで、お前は自分が選んだ道に相応しいと示してきた」
「レオン兄様……」
「胸を張れ。今日のお前は、誰かに立たされるのではない。
自分の意思で立つのだから」
僅かに目元を和らげる。
アレクシスも頷いた。
「俺は、帝国の進む先を決めるより、その道を守る方が性に合っている」
「辺境へ行きたいだけではありませんか?」
ヴィオレットが静かに問いかける。
「それも否定はしない」
「否定してください」
いつもと変わらないやり取りに、クリスティの口元が僅かに緩んだ。
アレクシスも笑い、それから真剣な表情へ戻る。
「俺たちは、それぞれの場所で帝国を守る。
だから、お前はお前が選んだ未来へ進めばいい」
最後に、ヴィオレットがクリスティの両手を取った。
「あなたなら、帝国の内側だけではなく、
その外にいる人々の未来も考えることができます」
共和国で、失われていた妹と再会した。
百五十年もの間、滅亡したと考えていた国に、人々が今も生きていることを知った。
かつて同じ文化を持っていた人々が、
争いによってではなく、同じ災厄によって引き裂かれていたことも。
過去と同じ形へ戻ることはできない。
帝国も共和国も、長い年月の中で異なる道を歩み、それぞれの国と暮らしを築いた。
だからこそ、今を生きる者同士で、新しい関係を作らなければならない。
「私たちは、あなたに代わって歩くことはできません」
ヴィオレットは、穏やかに微笑んだ。
「ですが、必要な時にはいつでも、あなたを支えます」
クリスティは三人の兄姉を見渡した。
やがて小さく息を吸い、深く頭を下げる。
「ありがとう」
顔を上げた時、その紫水晶の瞳に迷いは残っていなかった。
◇
立太子の儀は、皇城の大広間で執り行われた。
高い天井まで届く大窓から、明るい朝の光が差し込んでいる。
帝国各地から集まった貴族、騎士、魔術師、政府高官、
そして民を代表して選ばれた者たちが、その時を見守っていた。
大広間の正面には、皇帝ルーファスが立っている。
その左右へ、皇族たちが並んでいた。
クリスティは長い赤絨毯の上を、一人で歩いた。
左右から、数え切れないほどの視線が向けられる。
けれど、不思議と恐怖はなかった。
幼い頃から多くの者に愛され、皇城の太陽と呼ばれてきた。
だが今日からは、周囲を明るく照らすだけでは足りない。
どの道を照らすのか。
どの未来へ人々を導くのか。
その決断と責任を、自ら引き受けなければならない。
正面には、父がいる。
皇族たちの列から少し離れた、近衛騎士団長として定められた位置には、
リカルド・アークファイントが立っていた。
騎士団長の礼装に白銀の儀礼用マントをまとい、鮮やかな赤い髪を整えている。
腰には、初代皇帝から受け継いだ黎明の剣が佩かれていた。
厳しい表情は、いつもと変わらない。
だが、クリスティと目が合った瞬間、黒い瞳がほんの僅かに柔らかくなった。
それだけで、胸の奥に残っていた緊張が静かに解けていく。
クリスティは皇帝の前へ進み、片膝をついた。
ルーファスが、銀の冠環を手にする。
豪華さを誇示するための冠ではない。
帝国の未来を担う者へ授けられてきた、責任の証だった。
「クリスティ・フォン・マーヴェリア」
皇帝の声が、大広間へ響く。
「汝はマーヴェリア帝国の民を守り、帝国の法と歴史を尊び、
次なる時代を導く責任を負うことを望むか」
クリスティは顔を上げた。
「望みます」
透き通った声が、広い大広間の隅々まで届く。
「私は、力によって民を従えるのではなく、
民が安心して生きられる未来を守ります」
受け継いだ太陽の祝福は、誰かを支配するための力ではない。
人々を守り、再び立ち上がる勇気を与え、進むべき道を照らすための光。
その本当の意味を、クリスティは知った。
「私は、帝国の内にあるものだけを見て、
その外にあるものを知ろうとしない皇帝にはなりません」
大広間の空気が、僅かに揺れた。
「かつて同じ文化を持ちながら、
災厄によって隔てられた人々とも、もう一度言葉を交わします」
過去へ戻るのではない。
今の帝国と、今の共和国として向き合う。
「互いの違いを知り、認め、新たな信頼を築きます」
百五十年の断絶によって、両国の政治も技術も暮らしも変わった。
すべての者が、すぐに歩み寄れるわけではない。
それでも、誰かが最初の一歩を示さなければならなかった。
クリスティは父を真っ直ぐに見つめる。
「私は、マーヴェリア帝国の未来と、その責任を、自らの意思で引き受けます」
静寂の中、ルーファスがゆっくりと銀の冠環を掲げた。
そして、娘の白銀の髪へ載せる。
その瞬間、大広間の大窓から眩い陽光が差し込んだ。
クリスティの胸元からも、淡い金色の光が溢れている。
太陽の祝福。
だが、その光は荒れ狂うことも、誰かを圧倒することもなかった。
柔らかな光は、大広間にいる者たちを等しく包み、
不安に揺れていた心へ静かな温もりを与えていく。
未来を強制するためではない。
自ら歩き出す勇気を照らす光だった。
ルーファスが宣言する。
「ここに、クリスティ・フォン・マーヴェリアを、
マーヴェリア帝国皇太子と定める」
大広間へ、大きな歓声が響き渡った。
クリスティは立ち上がる。
皇太子として、初めて帝国の人々の前へ立った。
その姿を見つめながら、ルーファスが誰にも聞こえないほど小さく呟く。
「大きくなったな」
クリスティだけが、その声に気づいた。
「はい、お父様」
ほんの一瞬、父の前に立つ娘の顔へ戻り、柔らかく微笑む。
ルーファスも皇帝としての表情を保ちながら、目元だけを僅かに和らげた。
やがて歓声が収まると、ルーファスは一通の文書を取り出した。
共和国政府から届いた合同会議開催の正式要請に応じるため用意された、
帝国全権代表の任命書だった。
「皇太子クリスティ」
「はい」
「アドバンス共和国辺境防衛軍本部で開催される両国合同会議について」
ルーファスは、娘へ文書を差し出す。
「汝を、マーヴェリア帝国全権代表へ任ずる」
大広間が再び静まり返った。
今度は皇帝の娘としてではない。
帝国の未来を継ぐ者として、共和国へ向き合うことになる。
「帝国の名において協議し、
定められた範囲において皇帝に代わり決定する権限を与える」
クリスティは、差し出された文書を両手で受け取った。
「謹んで、お受けいたします」
そして、強い眼差しで告げる。
「必ず、二つの国が異なるまま、共に歩める未来を持ち帰ります」
白銀の髪で、幸運の青い鳥が小さく揺れた。
次に黎明の道を渡る時、クリスティは一人の皇女としてではなく、
マーヴェリア帝国皇太子として双子の妹の前へ立つ。
共和国軍対黒淵戦総司令官となったルリスティ。
帝国の全権を担う皇太子となったクリスティ。
同じ二十歳の朝、
双子の姉妹はそれぞれの国で、自ら選び取った未来を背負って歩き始めた。




