第94話 6年越しのワルツ
その夜。
皇城では、新たな皇太子の誕生を祝う舞踏会が開かれていた。
大広間には無数の灯りが輝き、楽団が華やかな曲を奏でている。
クリスティは、昼間の正装とは異なる淡い藤色のドレスをまとっていた。
銀の冠環は外している。
それでも、周囲の者たちの態度は昨日までとは明らかに違っていた。
「皇太子殿下」
新しい呼び名で祝辞を受けるたび、クリスティは微笑み、
一人一人へ丁寧に言葉を返した。
父であるルーファスとの儀礼の一曲を終えたあとは、
多くの貴族から次の踊りを申し込まれた。
皇太子となったばかりのクリスティと踊ることは、誰にとっても大きな名誉となる。
けれど、彼女はそのすべてを丁重に断った。
疲れているわけではない。
父との儀礼の一曲とは違う。
今夜、自分の意思で踊る相手は、ずっと前から決まっていた。
大広間の壁際には、近衛騎士団長リカルド・アークファイントが、
警備を統括しながら変わらぬ厳しい表情で立っている。
騎士団長となった今も、クリスティを守る騎士であることに変わりはない。
十四歳のデビュタントの日。
クリスティは何人もの令息と踊りながら、ずっと壁際に立つリカルドを見ていた。
やがて人目を避けるように春の庭園へ逃げ、
追ってきた彼へ、一曲だけ踊ってほしいと願った。
けれどリカルドは、自分にはその資格がないと、差し出された手を取らなかった。
あの日から、六年。
クリスティは、一度も叶わなかった一曲を忘れていない。
祝辞の合間を縫って大広間を離れ、長い回廊を進む。
背後から、一定の距離を保つ足音が続いていた。
振り返らなくても、誰なのかは分かっている。
春の庭園には、六年前と同じ花が咲いていた。
柔らかな夜風と、月明かり。
遠くからは、舞踏会のワルツが聞こえてくる。
クリスティは、あの日と同じ場所で足を止めた。
「クリスティ様」
背後から、低い声が届く。
公の場では、皇太子殿下。
二人きりの時には、クリスティ様。
想いを伝え合った日から、リカルドが大切に呼んでいる名前だった。
クリスティは、ゆっくりと振り返る。
リカルドは、いつもの半歩斜め後ろに立っていた。
騎士団長となっても、恋人となっても、彼は自らその距離を変えようとはしない。
その頑なさを愛おしく思う一方で、少しだけ腹立たしくもあった。
だから今夜は、六年前に叶わなかった願いを、もう一度口にすることにした。
「アークファイント」
「はい」
「私と、一曲踊ってください」
リカルドの黒い瞳が、僅かに揺れる。
「ですが、今夜の私は近衛騎士団長として、皇太子殿下の警護を――」
「やっぱり、そう言うと思った」
クリスティは、少しだけ頬を膨らませた。
「ですから、皇太子として命じます」
リカルドが目を見開く。
クリスティは背筋を伸ばし、昼間と同じように堂々と告げた。
「リカルド・アークファイント。私と一曲、踊りなさい」
庭園の外から、ワルツの旋律が届いている。
「それは、皇太子殿下のご命令でしょうか」
「命令です」
クリスティは答え、それから一歩だけリカルドへ近づいた。
「でも、あなたと踊りたいのは、皇太子ではなくて――」
声が柔らかくなる。
「ただのクリスティです」
リカルドの瞳が揺れた。
ほんの僅かな変化。
けれど、クリスティには分かった。
彼も忘れていない。
あの日の言葉も、差し出された手も、踊れなかった一曲も。
リカルドは、ゆっくりとクリスティの前へ歩み寄った。
そして騎士団長としてではなく、一人の男として深く一礼すると、右手を差し出す。
「六年もお待たせしたことを、お許しください」
クリスティは、その大きな手を見つめた。
剣を握り、自分を守り続けてきた手。
六年前には取ってもらえなかったその手が、
今夜はリカルドの方から差し出されている。
「……遅い」
声が、少しだけ震えた。
「申し訳ありません」
「本当に、ずっと待っていたんだから」
リカルドの表情が、苦しそうに、それでもどうしようもなく優しく緩んだ。
「私もです」
その一言に、クリスティの胸が強く鳴った。
差し出された手へ、自分の手を重ねる。
リカルドの指が、壊れ物へ触れるようにそっと閉じられ、
もう一方の手がクリスティの腰へ添えられた。
薄い布越しに伝わる熱に、胸がまた小さく跳ねる。
遠くから届くワルツに合わせ、リカルドが一歩を踏み出す。
クリスティも、その動きへ続いた。
煌びやかな舞踏会の中央ではない。
拍手も、祝福の声もない。
月明かりと春風、そして六年間胸の中へ残り続けた旋律だけが、二人を包んでいた。
リカルドの動きは、驚くほど自然だった。
「踊れたんだね」
クリスティが小さく言う。
「宮廷へ仕える騎士として、必要な教養は身につけております」
「じゃあ、六年前も?」
「踊れました」
「それなのに断ったの?」
「……はい」
「酷い人」
「返す言葉もございません」
そう答えながら、リカルドの手は決してクリスティを離さない。
二人が一歩、また一歩と歩みを重ねるたび、
藤色の裾が春風を含んで柔らかく広がった。
「六年前」
リカルドが、低い声で言った。
「あなたの手を取れば、二度と離せなくなると思いました」
クリスティが息を止める。
「だから、取らなかったの?」
「はい」
「じゃあ、今は?」
リカルドは、彼女の手を取ったまま迷わず答えた。
「離すつもりはありません」
胸の奥で、何かが弾けた。
太陽の祝福から零れた小さな金色の光が、二人の周囲へ舞い降りる。
無数の光は音楽へ合わせるように、春の花々の上を静かに巡った。
「アークファイント」
「はい」
「今日、私……」
クリスティは、一度言葉を止めた。
皇太子となり、帝国の未来を背負った日。
それでも同時に、誰かのためだけではなく、
自分自身が望む未来も諦めなくてよいのだと知った日だった。
クリスティはリカルドを見上げ、満面の笑みを浮かべる。
「とっても幸せ!」
リカルドは、すぐには答えなかった。
腰へ添えられた手に、ほんの僅かに力が入る。
それでも必要以上に抱き寄せることはせず、
目の前のクリスティを真っ直ぐに見つめた。
「私もです」
それだけで、十分だった。
曲が終わりへ近づき、最後の旋律とともに二人の足が止まる。
リカルドが舞踏の作法に従って手を解こうとすると、
クリスティの指先がその手を掴んだ。
「まだ駄目」
「クリスティ様?」
「六年前は、一曲も踊れなかったんだから。待たせた分として、もう一曲」
クリスティは、少しだけ悪戯っぽく笑った。
リカルドは一瞬目を見開き、それから深く、穏やかに微笑む。
「皇太子殿下のご命令でしょうか」
「いいえ」
今度は、命令ではない。
「ただのクリスティとしてのお願い」
リカルドは、再び彼女の手を取った。
「喜んで」
庭園へ、次のワルツが届く。
六年前に叶わなかった願いは、一曲だけでは終わらなかった。
皇太子と騎士団長ではなく、今だけはただクリスティとリカルドとして、
二人は春の月明かりの下でもう一度ゆっくりと踊り始めた。
やがて二曲目が終わると、リカルドはクリスティの手を丁寧に解いた。
そして、再びいつもの半歩斜め後ろへ戻る。
踊っている間だけ、正面から向き合った。
曲が終われば、彼は再びクリスティを守る騎士の位置へ立つ。
けれど、六年前とは違う。
今はもう、その距離の向こう側にある想いを、二人とも知っている。
クリスティは振り返り、柔らかく笑った。
「戻ろう、アークファイント」
「はい。クリスティ様」
リカルドは、いつもの場所から歩き始めたクリスティを追う。
今はまだ、半歩斜め後ろ。
それでもいつの日か、舞踏会の一曲だけではなく、
同じ未来の中で隣へ並ぶ日が来ることを、二人はもう疑っていなかった。
春風に揺れる白銀の髪で、幸運の青い鳥が月明かりを受けて輝く。
そのもう一羽が待つ国へ、皇太子クリスティは間もなく黎明の道を渡る。




