第92話 クラウスが夢見た、その先へ
アドバンス共和国辺境防衛軍本部。
その日、首都から長い鉄道の旅を終えた魔導機関車が、辺境の駅へ到着した。
通常の旅客車両や軍用貨物車両に続き、
共和国中央政府の紋章を掲げた特別車両が、ゆっくりとホームへ滑り込む。
車輪が軋み、長く響いていた魔導機関の駆動音が止まった。
駅には、いつも以上に厳重な警備が敷かれている。
最初に車両から降り立ったのは、アドバンス共和国大統領だった。
その後ろには、国防を担当する国家評議員、
外交部門の高官、魔導技術院の代表者たちが続く。
共和国の国家中枢を担う者たちが、黒淵に関する最終判断を下すため、
揃って辺境の最前線まで足を運んでいた。
ルリスティはジェイクとクルトワを伴い、ホームで一行を迎えた。
「遠路、ご足労いただきありがとうございます」
辺境防衛軍司令として、正式な敬礼を取る。
大統領は短く頷いた。
「この国の存亡に関わる報告だ。
現地を見ずに、首都の会議室だけで判断するわけにはいかない」
高官たちは、駅の外へ広がる景色へ目を向けた。
黒や茶の煉瓦で造られた堅牢な建物。
幾重にも重なる防壁。
巡回する武装兵。
規則正しく並べられた魔導砲。
そのすべてが、この町が戦うための場所として築かれたことを示している。
そして町の外れ、辺境防衛軍本部と前線防壁のさらに先には、
大地を深く切り裂く巨大な漆黒の亀裂が見えた。
黒淵。
百五十年間、共和国が戦い続けてきた災厄の最前線。
中央政府の高官たちの中には、実際に目にするのが初めての者もいた。
報告書や映像記録によって、その規模と危険性は理解していたはずだった。
だが、地平を断ち切る亀裂を目の前にすると、誰もが一瞬言葉を失った。
黒い霧が亀裂の底から絶えず立ち上り、遠くから響く魔物の咆哮が、
低い振動となって駅の窓を揺らしている。
大統領は、しばらく黒淵を見つめたあとに、低い声で告げた。
「まず、城壁を案内してもらいたい。今の黒淵を、自分の目で確認したい」
「承知しました」
ルリスティは一行を率い、駅から辺境防衛軍本部へ向かった。
◇
城壁の上から見下ろす黒淵は、報告書や地図で見るものとはまるで違っていた。
大地を引き裂く巨大な亀裂。
底を見通すことのできない暗闇。
黒い霧の中では、時折、魔物らしき巨大な影が蠢いている。
城壁には魔導銃を構えた兵士たちが並び、
観測兵が絶えず黒淵内部の魔力変動を記録していた。
訓練ではない。
ここでは今も、黒淵から現れる魔物との戦いが続いている。
「これが、百五十年間、我が国が戦い続けてきたものか」
一人の評議員が呟いた。
「はい」
ルリスティが答える。
「大規模な襲撃がない日もあります。
ですが、黒淵の活動が完全に止まることはありません」
大統領は城壁の縁へ立ち、しばらく黒淵を見つめていた。
かつて、自分も若い士官としてこの場所に立っていた。
当時と比べれば、砦は拡張されている。
兵器も、観測設備も、防衛術式も、はるかに進歩した。
けれど、目の前にある亀裂だけは変わっていない。
多くの兵士を奪い、多くの家族を泣かせ、
この国へ終わることのない戦いを強いてきた。
やがて大統領は黒淵から視線を外した。
「会議を始めよう」
◇
辺境防衛軍本部、大会議室。
普段は各部隊の指揮官が作戦協議に使用する長机の上へ、
アステリア遺構で発見された碑文と記録の写し、
辺境防衛軍が作成した正式報告書が並べられていた。
窓の外からは絶えず風の音が聞こえ、時折、遠くで魔導砲の試射音が響く。
ここは国家評議会の静かな議場ではない。
今も黒淵と向き合い続ける、戦いの最前線だった。
神話上の女神とされてきたアステリアが、実在した聖霊王であったこと。
彼女が、後にマーヴェリア帝国初代皇帝となるレオンと出会い、
生涯をともにした妻であったこと。
五百年以上前。
人間と聖霊の双方が抱いた恐怖や怒り、
悲しみ、憎しみといった負の感情から、黒い影が生まれたこと。
それらは長い時間をかけて大地の下で繋がり、
やがて世界そのものを脅かす「災厄の種」となった。
初代皇帝レオン一世と聖霊王アステリアは、
災厄から伸びた根を断ち、その核を次元の狭間へ封じた。
しかし、封印は永遠ではなかった。
五百年以上の時をかけて災厄は封印を侵食し、およそ百五十年前、
その周囲に生じた次元の歪みが巨大な亀裂となって地上へ現れた。
それが、共和国で黒淵と呼ばれてきたものだった。
報告書の最後には、災厄を完全に終わらせるために必要な手順が記されている。
星導の魔導銃によって、歪んだ次元へ正しい道を開く。
黎明の剣によって、災厄の根と核を断つ。
核の完全消滅を確認した後、聖霊王の涙によって傷ついた大地と次元を癒やす。
順序を誤れば、災厄を滅ぼすどころか、再び力を与える危険がある。
そして、その三つの遺産は共和国だけでは揃わない。
帝国だけでも揃わない。
両国が協力しなければ、黒淵を終わらせることはできなかった。
「以上が、アステリア遺構において、私たちが確認した内容です」
会議室の中央に立つルリスティが告げる。
身にまとっているのは、共和国辺境防衛軍司令の漆黒の軍服。
背筋を伸ばし、白銀の髪を揺らすことなく、
正面へ並ぶ大統領と中央政府高官たちを見渡している。
その後ろには、ジェイクとクルトワが控えていた。
二人とも口を挟まない。
ただ、司令であるルリスティの背を支えるように立っている。
最初に口を開いたのは、国防を担当する国家評議員だった。
「報告の重大性は理解している」
低い声が会議室へ響く。
「先ほど、我々も黒淵を直接確認した。放置できる問題ではないことに異論はない」
そこで言葉を切り、卓上の報告書へ視線を落とす。
「だが、我々がマーヴェリア帝国の存続を知ってから、まだ一年も経過していない」
別の評議員が続けた。
「帝国が、かつて共和国と友好的な関係にあった隣国であり、
現在も敵対の意思を持たないことは確認されています。
しかし、それと共和国軍の作戦へ帝国軍を参加させることは別問題です」
「黒淵周辺は、我が国の防衛上、最重要地域でもある。
帝国軍をこの本部へ受け入れれば、兵力配置も、砦の構造も、
魔導兵装の性能も知られることになる」
慎重論が出るのは当然だった。
帝国を敵視しているわけではない。
だが、国家の安全と存亡を懸ける以上、期待や感情だけで判断することはできない。
やがて、一人の評議員がルリスティへ視線を向けた。
「トリウリッド司令」
「はい」
「あなた自身が、マーヴェリア帝国皇帝の実子であることも、
考慮すべきではありませんか?」
ジェイクの眉が僅かに動く。
だが、ルリスティは表情を変えなかった。
「その事実を否定するつもりはありません」
静かに答える。
「マーヴェリア帝国皇帝ルーファスは、私の実父です。
帝国第二皇女クリスティは、私の双子の姉です」
会議室の空気が僅かに揺れる。
「ですが、私はアドバンス共和国で育ちました」
紫水晶の瞳が、中央政府の者たちを真っ直ぐに捉えた。
「クラウス・トリウリッドの娘として。
そして共和国軍人として、黒淵からこの国を守ってきました」
帝国に実の家族がいる。
その事実を隠すつもりも、軽んじるつもりもない。
けれど、それによって共和国で生きてきた年月が消えるわけではなかった。
「帝国に家族がいることと、共和国の民を守る責任は矛盾しません。
私は、どちらかを捨てるつもりはありません」
ルリスティは、はっきりと告げた。
「両国の利害が衝突した場合も?」
「共和国が守るべきものを明確にしたうえで、帝国側と妥協できる道を探します」
「それでも、両立できる道が見つからなければ?」
ルリスティは迷わなかった。
「共和国辺境防衛軍司令官として、共和国の兵士と民を守るために判断します。
その結果には、私自身が責任を負います」
逃げ道を残さない答えだった。
ルリスティは、卓上の報告書へ視線を向ける。
「帝国を無条件に信じてほしいとは申しません。
私個人を信じてほしいとも申しません」
再び、大統領と高官たちを見渡す。
「判断の根拠としていただきたいのは、
遺構へ残されていた記録と、帝国と共和国の調査団がそれぞれ確認した事実です」
ルリスティは、言葉を続ける。
「共和国は星導の魔導銃を運用できても、災厄の核を断つことができません。
帝国は黎明の剣を持っていても、核へ至る道を開くことができません。
どちらか一方だけでは、黒淵を終わらせることは不可能です」
理想論ではない。
異なる二つの国が協力すべきだという、感情に基づく主張でもない。
遺構へ残された仕組みと、双方が確認した現実だった。
帝国へ情報を渡さないことを優先すれば、
共和国はこれからも黒淵と戦い続けることになる。
いつ封印が完全に崩れるかも分からないまま、
兵士と民の命を危険へ晒し続けなければならない。
会議室へ、長い沈黙が落ちた。
窓の外から、黒淵を監視する警鐘が一度だけ響く。
全員がこの場へ来たからこそ、その音が何を意味するのか理解していた。
黒淵は、中央政府の議論が終わるまで待ってはくれない。
やがて、上座に座っていた大統領が報告書を閉じた。
この国の最高責任者。
そして、かつて一人の若い軍人として、
クラウス・トリウリッドの指揮下でこの辺境砦へ勤務していた男だった。
「トリウリッド司令」
「はい」
「報告書へ添えられていた、クラウス司令の手紙の写しも読ませてもらった」
ルリスティの指先が、僅かに動いた。
クラウスが自らの死後、
いつか信頼できる道が帝国へ繋がった時のために残した手紙。
ルーファスへ宛てられていたその手紙のうち、ルリスティの出自と、
クラウスが彼女を保護した経緯に関わる部分は写しが作成され、
彼女自身の判断で中央政府へ提出されていた。
大統領は立ち上がった。
そのまま窓辺へ歩き、遠くに見える城壁へ視線を向ける。
「先ほど、久しぶりにあの城壁へ立った」
静かな声だった。
「私は、クラウス司令がどこで生まれた人なのかを知らなかった」
彼は、自分の故郷について語らなかった。
黒淵の向こうに何があると考えていたのかも、一度も。
「だが、昔、あの人から聞いた言葉がある」
◇
大統領が、まだ辺境防衛軍の若い士官だった頃。
夜明け前の砦。
黒淵から吹き上がる冷たい風の中で、
クラウスは一人、城壁から暗い亀裂を見つめていた。
巡回中だった若い士官は、その背中を見つけて足を止める。
「司令」
声をかけると、クラウスは振り返り、いつもの穏やかな顔で笑った。
「巡回か?」
「はい。司令こそ、こんな時間にどうされたのですか」
若い士官が尋ねると、クラウスはすぐには答えず、再び黒淵へ視線を向けた。
「……少し、考え事をしていた」
クラウスは黒淵へ視線を戻した。
「毎日これを見ているとな。時々、考える」
「何をです?」
「いつか、この砦が戦うための場所ではなくなればいい、と」
小さな呟きだった。
黒淵からは絶えず魔物が現れる。
砦が戦いの場でなくなるなど、当時の若い士官には遠い夢にしか思えなかった。
「魔物を、すべて倒せる日が来るでしょうか?」
クラウスは、少しだけ寂しそうに笑った。
「倒し続けるだけでは、終わらないのかもしれんな」
「では、どうすれば?」
「分からん」
クラウスは正直に答えた。
「だが、いつか」
黒淵から目を離し、砦の内部を見渡す。
早朝から働き始めた兵士たち。
その家族が暮らす、小さな居住区。
まだ眠りの中にある子どもたち。
「ここで育つ子どもたちが、黒淵を恐れずに生きられる日が来ればいい。
兵士が、家族へ別れを告げずに済む世界になればいい」
クラウスは僅かに笑った。
「この砦に、戦いの音ではなく、子どもたちの笑い声が響くようになれば、
きっと、あの景色も少しは違って見えるだろう」
城壁の向こうには、朝の光が昇り始めていた。
◇
「私は、あの言葉を」
現在の大統領が、静かに続ける。
「黒淵から魔物が出なくなる未来を願ったものだと思っていた」
共和国が脅威に怯えずに済む日のことだと。
けれど、クラウスが帝国から来た人間であり、
黒淵の向こうにも人々が生きている可能性を捨てていなかったと知った今、
その言葉は別の意味を持って聞こえた。
クラウスは、自らの故郷を誰にも明かさなかった。
帝国が今も存在しているかもしれないことも。
ルリスティが帝国皇帝の娘であることも。
確かな連絡手段も、信頼できる道もなかった。
不用意に真実を明かせば、ルリスティを政治や戦争の道具にされる危険すらあった。
だから、クラウスは沈黙を選んだ。
それでも、願いだけは言葉へ残していた。
「クラウス司令が望んでいたのは、共和国の勝利ではなかった」
大統領は言う。
「黒淵を挟んだ、どちらか一方だけの生存でもない。
黒淵そのものによって、誰も苦しまずに済む未来だったのだ」
ルリスティは、黙って聞いていた。
胸の奥へ、懐かしい痛みが広がっていく。
クラウスは共和国を愛しながら、帝国へ続く道も探していた。
幼いルリスティを守り、辺境の民を守り、
自分では届かなかった場所へ、いつか安全な道が繋がることを願っていた。
「トリウリッド司令」
大統領が、ルリスティを見つめた。
「クラウス司令は、その未来を見ることができなかった」
黒淵によって誰も苦しまずに済む世界。
兵士たちが、家族へ別れを告げずに済む日。
かつてクラウスが城壁の上から願った未来は、彼が生きている間には訪れなかった。
「だが、彼が命を懸けて守った君は、今ここにいる」
ルリスティは僅かに視線を伏せた。
「父の願いだけを理由に、共和国の未来を決めることはできません」
静かな声だった。
「帝国との共同作戦には、兵士と民の命が懸かっています。
父が望んでいたからという理由だけで進めるべきものではありません」
大統領は、すぐに頷いた。
「ああ。その通りだ。
私は、君にクラウス司令の願いを代わりに果たせと言っているのではない」
その答えには、一切の迷いがなかった。
大統領の眼差しが、かつての上官の娘を見るものから、
共和国軍の司令を見るものへ変わる。
「君はクラウス・トリウリッドの娘だ。だが、それだけではない。
この黒淵と長く戦い、辺境の兵士と民を守ってきた、
共和国辺境防衛軍司令でもある」
ルリスティが顔を上げる。
「クラウス司令が何を願っていたかではなく、
君自身が確認した事実に基づいて答えてほしい」
大統領は、卓上に置かれた報告書へ手を置いた。
「共和国の司令として、帝国との共同作戦は必要だと判断するか?」
ルリスティは迷わなかった。
「はい」
紫水晶の瞳で、大統領を真っ直ぐに見つめる。
「帝国を信じたいからではありません。父の願いを叶えたいからでもありません。
共和国の兵士と民を守り、この戦いを終わらせるために必要だと判断します」
大統領は、その答えを待っていたのだと告げるように頷いた。
「ああ。それでいい。クラウス司令が守った娘ではなく、
共和国辺境防衛軍司令である君の判断を聞きたかった」
大統領は自席へ戻り、中央政府から携行してきた二通の公文書を手に取った。
いずれも、現地確認とこの会議の結果を受けて発効することを前提に、
国家評議会の事前承認を得て用意されていたものだった。
一通は、共和国軍における昇進辞令。
もう一通は、共和国軍対黒淵戦総司令官への任命書。
会議室にいるすべての者が、その動きを見守る。
「百五十年」
重い声が響いた。
「共和国は、黒淵と戦い続けてきた」
多くの兵士が命を失った。
多くの家族が、大切な者の帰りを待ち続けた。
その戦いを、次の世代へまで残してはならない。
「今度こそ、終わらせる」
大統領は、先に昇進辞令を開いた。
「今回の作戦には、共和国軍だけでも数千名の将兵が参加することになる。
さらに帝国軍との共同作戦では、
異なる軍制と指揮系統を一つにまとめなければならない」
辺境防衛軍の複数部隊。
中央から派遣される増援部隊。
砲兵、魔導銃兵、技術兵、観測班、医療部隊。
そして、黎明の道を渡って共和国側へ入る帝国軍。
それらを戦闘配置ごとの混成部隊へ再編し、一つの目的のもとに動かす。
辺境防衛軍司令という役職だけでは、その権限を十分に裏づけることはできない。
大統領は、ルリスティを真っ直ぐに見据えた。
「共和国大統領ならびに国家評議会の決定により、
辺境防衛軍司令ルリスティ・トリウリッド准将を、
本日付で共和国軍少将へ昇進させる」
会議室の空気が僅かに張り詰めた。
ジェイクとクルトワが、同時に姿勢を正す。
ルリスティは驚きを表情へ出すことなく、大統領の言葉を受け止めた。
だが、その昇進が単なる功績への褒賞ではないことは理解していた。
少将の階級とともに与えられるのは、より大きな権限。
そして、数千名の命に対する、より重い責任だった。
続いて、大統領はもう一通の任命書を開く。
「併せて、ルリスティ・トリウリッド少将を、
共和国軍対黒淵戦総司令官へ任命する」
ルリスティは、大統領を真っ直ぐに見つめた。
「対黒淵戦における共和国軍の全指揮権を、君へ預ける。
帝国との共同作戦に関する軍事協議へ、
対黒淵戦における共和国軍側の最高責任者として参加し、
両軍の統合指揮系統を構築せよ」
軍事作戦の指揮だけではない。
共和国軍の情報をどこまで帝国と共有するのか。
両軍をどのように再編し、各部隊をどこへ配置するのか。
異なる通信術式や命令系統を、いかに一つへまとめるのか。
帝国側が共同軍の総指揮をルリスティへ託すことへ同意すれば、
彼女は国境を越えて集まる数千名すべての命を預かることになる。
その一つひとつへ、共和国を代表して責任を負わなければならない。
大統領は、かつての上官の娘ではなく、
これから共和国軍を率いる一人の将官へ告げた。
「黒淵を終わらせろ」
窓の外にある巨大な亀裂へ、一度だけ目を向ける。
「兵士たちを、必ず家族のもとへ帰せ。この砦を、戦うためだけの場所ではなくせ」
ルリスティの胸へ、クラウスの声が蘇る。
無理をするな。
一人で背負うな。
誰かを守るだけではなく、自分も帰ってこい。
もう、その声を直接聞くことはできない。
けれど、クラウスが残したものは、確かに自分の中へある。
ルリスティは前へ進み、二通の辞令を両手で受け取った。
少将への昇進。
共和国軍対黒淵戦総司令官への就任。
どちらも、十九歳の一人の女性が背負うには、あまりにも重い。
それでも、ルリスティの手は震えなかった。
彼女は辞令を胸元へ引き寄せ、共和国軍人として深く敬礼する。
「少将昇進ならびに、共和国軍対黒淵戦総司令官の任、謹んで拝命いたします」
静かな声だった。
それでも、僅かにも揺らがなかった。
「共和国軍の全将兵、そして帝国軍とともに、必ず黒淵を終わらせます」
ルリスティの紫水晶の瞳が、ほんの僅かに柔らかくなる。
「そして、全員で帰ってまいります」
大統領は、その言葉を聞いてゆっくりと頷いた。
かつて自分を導いた司令と同じ強さを。
それでいて、過去とは異なる未来を選ぼうとする光を、目の前の若い少将に見る。
大統領が右手を上げ、正式な敬礼を送った。
重い声が、会議室へ響く。
「行ってこい。ルリスティ・トリウリッド少将。
共和国軍対黒淵戦総司令官として、この国の百五十年を終わらせてこい」
ルリスティも、辞令を抱えたまま敬礼を返す。
窓の外では、黒淵から吹き上がる風が砦の旗を揺らしている。
かつてクラウスと同じ景色を見た場所で、大統領はその娘へ最後の命令を下した。
「クラウス司令が夢見た、その先へ」
ルリスティは、もう一度深く敬礼した。
その背後で、ジェイクとクルトワも彼女へ続く。
二人が敬礼を向けているのは、もはや辺境防衛軍司令の准将ではない。
数千名の将兵を預かり、二つの国の軍を一つへ結ぼうとする共和国軍少将。
対黒淵戦総司令官、ルリスティ・トリウリッド。
クラウスが見ることのできなかった未来へ、
彼が命を懸けて守った娘と、彼が育てた辺境防衛軍が、
今この砦から自らの意思で歩き始めようとしていた。




